<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom"><title>花と雷鳴</title><link href="https://hanauriboi.amebaownd.com"></link><subtitle>website for the novels by isora/</subtitle><id>https://hanauriboi.amebaownd.com</id><author><name>isora/sin</name></author><updated>2022-06-05T02:48:46+00:00</updated><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】16. アンビバレント]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/34926146/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/34926146</id><summary><![CDATA[　壁際に控えた侍従のアランが溜息を噛み殺したのが、目端に映った。唾を飲み込んだのを見るに、咽喉元まで迫り上がったのを今日も今日とてどうにか堪えたらしい様子である。　普段ならば溜息を吐きたいのはこちらの方だと毒づくものの、今回ばかりはそうも言えない。ウィリアムは、いつも通り執務机を挟んで真向かいに立つエリオットへ意識を戻した。見飽きた黒の金襴緞子のジャケットをきっちりと着こなしたエリオットは、陛下が無事政務へ戻られてよかったですと淡泊に言った。果たして本心からだろうかと思う。「どうも。で、何かわかった？」「委細は調査中ですが目撃者もいませんでしたし、しばらくは難航するかと。申し訳ありません」　こんなに心の籠もっていない謝罪はエリオット以外には口にできないだろうな、いやレックスもか？　と、どうでもいいことを考える。ウィリアムはペンを持つ右手を振った。「いいよ、僕も不注意だったから。襲撃犯が捕まったところでどうせ黒幕は別だろうね、いっそ泳がせるのはどう？」「検討します」　慇懃に頭を下げるエリオットを見、ウィリアムは肩を竦めた。　マリアベルと外出し不逞の輩に襲われたのが水曜日で、療養と安息日を経てようやく執務室へ帰ってきた月曜日である。仕事は文字通り山ほどあるため、エリオットに厭味を返す労力がない。ペン先をインクに漬けながらエリオットが持ってきたいくつかの報告を聞く。　目覚めたときには既にどこかの寝台の上だった──という状況は、この八年間に何度も繰り返されてきた出来事だった。だからウィリアムにとっては今更何らかの感情を強く揺さぶられるようなことではなく、意識を取り戻したときも、今回の天井はおのれの部屋の天蓋だなと、首の鈍痛を自覚しながらぼんやり思ったくらいだった。　恐らく、覚醒する以前からそうであったのだろう、アランとニーナが入れ替わりに寝室へ現れては消えた。寝台に上半身を起こせるようになった後は、エリオットとヘイデンから簡単に事の次第を聞き、護衛を担っていたオーウェンが折を見て謝罪に訪れたのを、ウィリアムは全て、一連の作業として億劫にやり過ごした。慣れたものだ。本当にそれだけのことだった。襲撃者の取り逃がし、護衛の過失についての処分は如何様にもと姿を見せる誰それかに言われれば、首を横に振るしかなかった。いずれかの人間を処罰しなければならないというのであればおのれの首こそを最も刎ねなければならないだろうと、急襲がある都度いつもウィリアムは思っていたものだったが、今回はなおのことそうだった。　数少ない腹心に紛れレックスも登城してきたようだったけれど、目が覚めたそのときに立ち合っただけらしいために、ウィリアムには殆ど記憶が残っていない。だから、同行していたマリアベルは無事であるという報告は、エリオットから聞いた。「一昨日、マリアベル嬢にもお会いしてきました」　ぴたと手が止まる。ウィリアムはエリオットを見た。「面会したときは未だ頬に被覆材をつけておられましたが、本人もレックス様も大したことはないと仰っていました。お元気そうでしたよ。陛下がご無事でよかったと」　まるで猫のような、複雑な色をしている男の双眸に感情を見出すのは至難の業だ。兄ならできるのかもしれないが、少なくともウィリアムには掴み所がない。彼女の話も陛下やオーウェンの説明通りでしたね、やや記憶が正確すぎるきらいはありましたがと言う。ウィリアムは奥歯を噛んだ。「……疑ったな、公爵」「当然です。元々陛下の方が警戒しておられたでしょう」　それは、そうだ。返す言葉がないだけに指先に力が籠もってしまう。パキ、と小さな音がした。（今のは厭味じゃないわよ、ウィリアム。本音）　とても素っ気ないし事実を全て明かすのではないが、それでも彼女は嘘を吐かない。自分で見て聞いて学んだことしか信じないと言っていたのは本当だろうと今は思っている。誘ってくれてありがとう。ステンドグラスでできた栞を渡したときのマリアベルが脳裏を過ぎり、胸が痛んだ。笑ってくれたと思ったのに。　傷つけるようなことをして。（呪いをあげようか、ウィリアム）　事件後、不運にも新月だった。監視の目を追い出し、露台から見たルツィエがウィリアムの目の奥で揺れる。　──寝室を抜けると、仕切り一つで区切られた間続きの部屋があるのだ。父王がかつて特別に増設させた、慎ましくも上品で城内のどの部屋よりも細部まで心配りのなされた、露台のある小さな奥室である。そこには、華やかだが落ち着いた花緑青色の絹張りのカウチが一台と、いずれも上質なスウィテニア仕様の低卓や調度品が揃えられているだけで、父王が存命の頃から、家具は最高級品を配置しながらも質素な設えの、奇妙な部屋だった。　全身の倦怠感と節々の痛みも等閑に寝台から下りたウィリアムは、一人、そこに立ち入った。入るべきではないとわかっていた。目の前がひどく昏かった。──昏い理由はわかっていた。　奥室に灯りはなく、寝室から忍び込む燭台の火が、部屋と部屋、光と闇の境目を克明にしていた。けれどもそれは、視界の明暗には関係がない。昏いのは部屋ではないのだった──露台に続く窓には、嫌に厚く、嫌に整然と、僅かな隙間も許さずに天鵞絨のカーテンが掛けられていて、ニーナだなと思った。間違いなくニーナ・クリスティが、身動き程度では決して裾さえ捲れないように、露台のカーテンを固く閉めたのだろう。あの侍女は本当によくわかっている。　ウィリアムは、あの部屋へ入るべきではなかったしカーテンを開けるべきではなかった。「アラン、新しいペンを」　暴れそうになる何かを押し止めるように額に手を当てたウィリアムは、壁と同一化しようとして失敗している侍従を呼んだ。アランは、備品棚から新しいものを取り出しそそくさとやって来る。ウィリアムが折れたペンを差し出せばさっと受け取り、新しいペンを手渡して、また元の位置へと戻っていく。ウィリアムは溜息を吐いた。アランの挙動を見ていると幾分か冷静になる。　エリオットを見ると得も言われぬ苛立ちが擡げるので、敢えて書類に目を落とした。「……わかった。それで彼女の疑いは晴れた？」「どうでしょうね。ただ、大変頭のよい方だということは理解しました」　そうと頷いたウィリアムに、ですので、とエリオットは言葉を継ぐ。「今後催される我が公爵家の舞踏会、それから王城の夜会で、陛下のパートナーになって下さるようお願いしました」「そ──……は？」　今、何て言った。幻聴か？　顔を上げたのが先か、眉を顰めたのが先か。ウィリアムは怪訝にエリオットを見た。年齢を重ねても艶を失わない美貌の公爵は、ふっと、蠱惑的に微笑んでみせる。これは本気だ。眩暈がした。「貴方の正体を知って隣にいても、況してあのような目に遭っても、まるで怯まないお嬢さんは中々いませんからね。賢明ならばなおのこと使わねば勿体ないでしょう、後見がスタインズ侯爵となれば大凡の貴族は表立って批判もできません」　開いた口が塞がらないというやつだ。この男は一体どこからそれを考えていた。当初はウィリアムと同じく懐疑的だったはずだが──やけに素直に、定期的なマリアベルとの面会を受け入れていると思ったらそういうことだったのか。さらには事件のこの機を利用しようとしている。　そうだった。あまりに辟易と日々同じ遣り取りを繰り返したせいで忘れていたが、ウィリアムが妃を迎えることは、ハーシェル公爵エリオット・ミラーの最優先課題なのだ。　眩暈の次は、頭痛がする。ウィリアムは蟀谷を揉んだ。「それ、ベルは了承したの？」「はい」「どうやって？」「チェスで賭けを。……私が彼女を楽しませることができたら構わないと」　それまで淀みなかったエリオットの舌に少し苦いものが混じった。何だ、とウィリアムは一瞬思ったけれども、エリオットは何でもなかったように話を続ける。「彼女ならよろしいでしょう？　陛下。足繁く図書館へ通われ、外で逢瀬されたのですから」「エリー、僕は彼女に迷惑を掛けたんだよ？　この上で婚約者候補みたいな扱いで振り回せっていうの」「泳がせるというのなら今後を考えれば却って安全かと」「それは……」「それに、いつものようにきっぱり嫌だとは仰らないのですね？」　読まれている。ああ嫌な男だなとウィリアムは思う。ニーナは固くカーテンを閉めたが、目覚めた後のウィリアムの行動をそうして読んでいたのなら、最初から王の居室以外の部屋に運んでおけばよかったのだ。エリオットは崖の際で駆け引きをしている。大きな安寧のために少しの危険は顧みない。血濡れた道に引き込んでそれを選ばせているのは他でもないウィリアムなので、いくら公爵がおのれの部下ではないといっても──部下ではないから、かもしれない──強く責めるわけにもいかない。　兄上なら、と独りごちる。目線を落としたら書類に染みができていた。インクの先を付けたままだったのだ、この紙はもう駄目だと嘆息する。読めない。　黙ったおのれに、ウィリアム様、とエリオットが声を掛ける。気のせいか幾分調子が柔らかい。「私が信用ならないのであれば、ご本人に直接聞いてみてはいかがです。丁度図書館へ来られたようですよ」　山積みの仕事を放置して王城から出、リンドブロム主宮のさらに先にある国立図書館へ向かうのには気が引けたが、マリアベルに謝罪しなければならないという気持ちもあって、ウィリアムは用意されていた馬車に乗った。元々王の所有であったこともあり城館と接続しているので普段は徒歩で行くのだが、先般の出来事が考慮されての馬車である。襲撃事件があるとしばらく自由はないのだった。　本当のことを言うと、ウィリアムを襲った実行犯の目途は付いている。異端審問気取りの頭巾を被っている複数人という状況から、ここ最近でウィリアムが反発を招きそうな判断をしたものと考えれば、学閥、アマルベルガの件しかないからだった。数週間前に教皇庁からの聖務職者の派遣についての請願書を却下した。どちらにしろ火種になるのなら国民を巻き込まずおのれだけが標的になればいいと思ったが、マリアベルに怪我をさせることになるとは。完全にウィリアムの手落ちだった。　野放しにしておけば、現場に居合わせたマリアベルも今後また狙われるかもしれない。　だというのに、泳がせるのはどうかとこの口は言う。（嫌な人間だ）　国の為に一人の犠牲はやむを得ない、そのような考え方をひどく憎悪したがゆえに選んだ道で、結局類することをしようとしている。クロンクビスト王族の血は争えないとでも証明するかのようだ。（一緒にいれば却って安全か）　答えを導き出す前に、蹄の音が止まる。徒歩でも行ける距離なのですぐに図書館へ着いた。不自然ではない程度に衛兵の数が増えている王族専用門を通り、ウィリアムはマリアベルが日頃本を読んでいる空間へ向かった。どうするにせよ、事件については謝罪しなければならない。　天井まで続く本の森の合間を抜けてゆく。最奥の少し手前で、薄暗かった空間にすっと光が射して、複数の机と椅子が備えられた場所に出る。窓からは燦々と陽射しが入り込んでいた。その下でいつも通り、一番片隅にある二人掛けのソファに座って、マリアベルは本を読んでいる。ウィリアムは足を止めた。　装飾の少ないワンピースに、礼を失しない程度に結われた銀髪。五分丈の袖からは白い腕が伸びている。頬に被覆材を付けていたとエリオットは言っていたが、取れているようだった。　何と声を掛けようかとウィリアムが逡巡していると、相手が先に顔を上げた。「何をしているの？」　雪で白んだような緑眸が、ウィリアムを捉える。「そんなところに立ったままどうしたの、ウィリアム。……何だか前にも言った気がするわね」　ふ、と口許を弛めて言い、マリアベルは手にした本と積み上げた本を取り替える。少しの変化も感じられない声色に、ウィリアムはほんの微かに息を吐いた。そこでようやく、柄にもなく緊張していたことに気づいた。「……この間はごめん、ベル」　息を吸って、吐くと同時に声に出した。人の気配が薄く静まった館内では、小声でも響く。　マリアベルは改めて視線を上げると、首を傾げた。「何が？」「何がって、危険な目に遭っただろう。怪我もしたって」「それは事実だけれど、あなたが謝ることではないでしょ。あなたが私を襲ったのではないし」　それとも用意周到に準備していたの、あれは演技？　とマリアベルに問われて、ウィリアムはまさかと頭《かぶり》を振った。マリアベルはいつも通り素っ気なく、ならいいでしょ、と言う。「怪我なら大したことなかったわ。あれはただの不運よ」「……僕と一緒に出掛けていなかったら襲われることはなかったんだよ、ベル」「あなたと出掛けなかったらわたしはずっと侯爵家に引き籠もって、レスカの味も、エイジェルステットの旧市街の美しさも、あなたと外を歩けて楽しかったという気持ちも、知ることはなかったわね」　抑揚はあまりなかったが、清冽と美しく、揺るがない声だった。ウィリアムに自らの何も疑わせないと言わんばかりの。ウィリアムは言葉を見つけられずに立ち尽くした。マリアベルはウィリアムを見ている。「わたしはあの日、あなたと出掛けられて楽しかったと言ったのよ。忘れないで」　あの日のように微笑みこそしなかったが。　今日も変わらず、マリアベルは欺瞞なく言葉を紡ぐ。大きく確保された採光から振る粒子を、銀髪が弾いて目映い。「それよりウィリアム、あなた、寝てないでしょう。ひどい顔よ」　ウィリアムが呆然としているとマリアベルは顔を顰めた。読んでいた本に栞を挟んで脇机に置き、ウィリアムの方へと歩み寄ってくる。身構える間もなく手を取られ、それまで彼女が座っていたソファに無理矢理腰を下ろさせられた。そうしてマリアベルは隣に座ると、強い力でウィリアムの肩を自分の方へ押した。何を、と頭が働き始めたときには、ウィリアムはマリアベルの脚の上に横たわっていた。──膝枕だ。「な……ベル」「ちゃんと寝ないからおかしなことを考えるのよ、寝なさい」　ウィリアムは慌てて身を起こそうとしたが、マリアベルが深く覗き込んできたために途中で止まるしかなかった。下手をすると顔がぶつかってしまう。息が掛かるほどの至近距離で睨み合い、先に折れたのはウィリアムだった。マリアベルの言う通りおのれは寝不足で、今、まともに思考できているかと問われるととても怪しいのだった。エリオットにそこを突かれたくらいには。　大人しく彼女の腿に頭を下ろし、しかしせめてもの抵抗で、腕で両目を隠した。　顔が熱い。笑いが込み上げる。「……硬いよ、ベル」「おきれいな額に角から本を落とすわよ」　打てば響く。うん、とウィリアムは頷いた。──異母姉はいつも花の匂いがしたものだったが、マリアベルからは本の匂いと、何となく、冬の清んだ匂いがするような気がした。そういえばミルヴェーデンには行ったことがないと、ぼんやり考える。兄の留学先がそちらの方だったような気がするが、帰国してすぐに父王が亡くなったので詳しく聞いたことはなかった。どんな国なのだろう。銀狼が切り拓いた北方の雄。今は女王だったか。　でも、おのれよりは、きっとまともだろう。「……むかし」　硝子を隔ててゆるんだ夏の太陽光が、さわさわと肌を撫ぜる。マリアベルの陰にいるので暑さもなく、睡魔が忍び寄ってきた。目蓋が重い。本当に寝てしまうなと思いながら、ウィリアムは呟く。「兄上が姉上にこうしているのを見たな……」　離宮近くのガゼボで、兄は本を読んでいて、異母姉はその膝の上で眠っていた。幸せそうだった。あの頃のふたりはいつだって、幸せそうだった。幸せでいてほしかった。　──月のない夜、銀花《ルツィエ》が風に揺られている。　カーテンを捲る。玻璃の扉を開けば一面に青白い光が浮かび上がった。血に濡れた手で王冠と王笏を掴み取り、蔓延った悪夢を嫌忌してなお、ウィリアムはあの花園を燃やせずにいる。]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2022-06-05T02:48:46+00:00</published><updated>2022-06-05T02:48:46+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　壁際に控えた侍従のアランが溜息を噛み殺したのが、目端に映った。唾を飲み込んだのを見るに、咽喉元まで迫り上がったのを今日も今日とてどうにか堪えたらしい様子である。</p><p>　普段ならば溜息を吐きたいのはこちらの方だと毒づくものの、今回ばかりはそうも言えない。ウィリアムは、いつも通り執務机を挟んで真向かいに立つエリオットへ意識を戻した。見飽きた黒の金襴緞子のジャケットをきっちりと着こなしたエリオットは、陛下が無事政務へ戻られてよかったですと淡泊に言った。果たして本心からだろうかと思う。</p><p><br></p><p>「どうも。で、何かわかった？」</p><p>「委細は調査中ですが目撃者もいませんでしたし、しばらくは難航するかと。申し訳ありません」</p><p><br></p><p>　こんなに心の籠もっていない謝罪はエリオット以外には口にできないだろうな、いやレックスもか？　と、どうでもいいことを考える。ウィリアムはペンを持つ右手を振った。</p><p><br></p><p>「いいよ、僕も不注意だったから。襲撃犯が捕まったところでどうせ黒幕は別だろうね、いっそ泳がせるのはどう？」</p><p>「検討します」</p><p><br></p><p>　慇懃に頭を下げるエリオットを見、ウィリアムは肩を竦めた。</p><p>　マリアベルと外出し不逞の輩に襲われたのが水曜日で、療養と安息日を経てようやく執務室へ帰ってきた月曜日である。仕事は文字通り山ほどあるため、エリオットに厭味を返す労力がない。ペン先をインクに漬けながらエリオットが持ってきたいくつかの報告を聞く。</p><p>　目覚めたときには既にどこかの寝台の上だった──という状況は、この八年間に何度も繰り返されてきた出来事だった。だからウィリアムにとっては今更何らかの感情を強く揺さぶられるようなことではなく、意識を取り戻したときも、今回の天井はおのれの部屋の天蓋だなと、首の鈍痛を自覚しながらぼんやり思ったくらいだった。</p><p>　恐らく、覚醒する以前からそうであったのだろう、アランとニーナが入れ替わりに寝室へ現れては消えた。寝台に上半身を起こせるようになった後は、エリオットとヘイデンから簡単に事の次第を聞き、護衛を担っていたオーウェンが折を見て謝罪に訪れたのを、ウィリアムは全て、一連の作業として億劫にやり過ごした。慣れたものだ。本当にそれだけのことだった。襲撃者の取り逃がし、護衛の過失についての処分は如何様にもと姿を見せる誰それかに言われれば、首を横に振るしかなかった。いずれかの人間を処罰しなければならないというのであればおのれの首こそを最も刎ねなければならないだろうと、急襲がある都度いつもウィリアムは思っていたものだったが、今回はなおのことそうだった。</p><p>　数少ない腹心に紛れレックスも登城してきたようだったけれど、目が覚めたそのときに立ち合っただけらしいために、ウィリアムには殆ど記憶が残っていない。だから、同行していたマリアベルは無事であるという報告は、エリオットから聞いた。</p><p><br></p><p>「一昨日、マリアベル嬢にもお会いしてきました」</p><p><br></p><p>　ぴたと手が止まる。ウィリアムはエリオットを見た。</p><p><br></p><p>「面会したときは未だ頬に被覆材をつけておられましたが、本人もレックス様も大したことはないと仰っていました。お元気そうでしたよ。陛下がご無事でよかったと」</p><p><br></p><p>　まるで猫のような、複雑な色をしている男の双眸に感情を見出すのは至難の業だ。兄ならできるのかもしれないが、少なくともウィリアムには掴み所がない。彼女の話も陛下やオーウェンの説明通りでしたね、やや記憶が正確すぎるきらいはありましたがと言う。ウィリアムは奥歯を噛んだ。</p><p><br></p><p>「……疑ったな、公爵」</p><p>「当然です。元々陛下の方が警戒しておられたでしょう」</p><p><br></p><p>　それは、そうだ。返す言葉がないだけに指先に力が籠もってしまう。パキ、と小さな音がした。</p><p><br></p><p>（今のは厭味じゃないわよ、ウィリアム。本音）</p><p><br></p><p>　とても素っ気ないし事実を全て明かすのではないが、それでも彼女は嘘を吐かない。自分で見て聞いて学んだことしか信じないと言っていたのは本当だろうと今は思っている。誘ってくれてありがとう。ステンドグラスでできた栞を渡したときのマリアベルが脳裏を過ぎり、胸が痛んだ。笑ってくれたと思ったのに。</p><p>　傷つけるようなことをして。</p><p><br></p><p>（呪いをあげようか、ウィリアム）</p><p><br></p><p>　事件後、不運にも新月だった。監視の目を追い出し、露台から見たルツィエがウィリアムの目の奥で揺れる。</p><p>　──寝室を抜けると、仕切り一つで区切られた間続きの部屋があるのだ。父王がかつて特別に増設させた、慎ましくも上品で城内のどの部屋よりも細部まで心配りのなされた、露台のある小さな奥室である。そこには、華やかだが落ち着いた花緑青色の絹張りのカウチが一台と、いずれも上質なスウィテニア仕様の低卓や調度品が揃えられているだけで、父王が存命の頃から、家具は最高級品を配置しながらも質素な設えの、奇妙な部屋だった。</p><p>　全身の倦怠感と節々の痛みも等閑に寝台から下りたウィリアムは、一人、そこに立ち入った。入るべきではないとわかっていた。目の前がひどく昏かった。──昏い理由はわかっていた。</p><p>　奥室に灯りはなく、寝室から忍び込む燭台の火が、部屋と部屋、光と闇の境目を克明にしていた。けれどもそれは、視界の明暗には関係がない。昏いのは部屋ではないのだった──露台に続く窓には、嫌に厚く、嫌に整然と、僅かな隙間も許さずに天鵞絨のカーテンが掛けられていて、ニーナだなと思った。間違いなくニーナ・クリスティが、身動き程度では決して裾さえ捲れないように、露台のカーテンを固く閉めたのだろう。あの侍女は本当によくわかっている。</p><p>　ウィリアムは、あの部屋へ入るべきではなかったしカーテンを開けるべきではなかった。</p><p><br></p><p>「アラン、新しいペンを」</p><p><br></p><p>　暴れそうになる何かを押し止めるように額に手を当てたウィリアムは、壁と同一化しようとして失敗している侍従を呼んだ。アランは、備品棚から新しいものを取り出しそそくさとやって来る。ウィリアムが折れたペンを差し出せばさっと受け取り、新しいペンを手渡して、また元の位置へと戻っていく。ウィリアムは溜息を吐いた。アランの挙動を見ていると幾分か冷静になる。</p><p>　エリオットを見ると得も言われぬ苛立ちが擡げるので、敢えて書類に目を落とした。</p><p><br></p><p>「……わかった。それで彼女の疑いは晴れた？」</p><p>「どうでしょうね。ただ、大変頭のよい方だということは理解しました」</p><p><br></p><p>　そうと頷いたウィリアムに、ですので、とエリオットは言葉を継ぐ。</p><p><br></p><p>「今後催される我が公爵家の舞踏会、それから王城の夜会で、陛下のパートナーになって下さるようお願いしました」</p><p>「そ──……は？」</p><p><br></p><p>　今、何て言った。幻聴か？</p><p>　顔を上げたのが先か、眉を顰めたのが先か。ウィリアムは怪訝にエリオットを見た。年齢を重ねても艶を失わない美貌の公爵は、ふっと、蠱惑的に微笑んでみせる。これは本気だ。眩暈がした。</p><p><br></p><p>「貴方の正体を知って隣にいても、況してあのような目に遭っても、まるで怯まないお嬢さんは中々いませんからね。賢明ならばなおのこと使わねば勿体ないでしょう、後見がスタインズ侯爵となれば大凡の貴族は表立って批判もできません」</p><p><br></p><p>　開いた口が塞がらないというやつだ。この男は一体どこからそれを考えていた。当初はウィリアムと同じく懐疑的だったはずだが──やけに素直に、定期的なマリアベルとの面会を受け入れていると思ったらそういうことだったのか。さらには事件のこの機を利用しようとしている。</p><p>　そうだった。あまりに辟易と日々同じ遣り取りを繰り返したせいで忘れていたが、ウィリアムが妃を迎えることは、ハーシェル公爵エリオット・ミラーの最優先課題なのだ。</p><p>　眩暈の次は、頭痛がする。ウィリアムは蟀谷を揉んだ。</p><p><br></p><p>「それ、ベルは了承したの？」</p><p>「はい」</p><p>「どうやって？」</p><p>「チェスで賭けを。……私が彼女を楽しませることができたら構わないと」</p><p><br></p><p>　それまで淀みなかったエリオットの舌に少し苦いものが混じった。何だ、とウィリアムは一瞬思ったけれども、エリオットは何でもなかったように話を続ける。</p><p><br></p><p>「彼女ならよろしいでしょう？　陛下。足繁く図書館へ通われ、外で逢瀬されたのですから」</p><p>「エリー、僕は彼女に迷惑を掛けたんだよ？　この上で婚約者候補みたいな扱いで振り回せっていうの」</p><p>「泳がせるというのなら今後を考えれば却って安全かと」</p><p>「それは……」</p><p>「それに、いつものようにきっぱり嫌だとは仰らないのですね？」</p><p><br></p><p>　読まれている。ああ嫌な男だなとウィリアムは思う。ニーナは固くカーテンを閉めたが、目覚めた後のウィリアムの行動をそうして読んでいたのなら、最初から王の居室以外の部屋に運んでおけばよかったのだ。エリオットは崖の際で駆け引きをしている。大きな安寧のために少しの危険は顧みない。血濡れた道に引き込んでそれを選ばせているのは他でもないウィリアムなので、いくら公爵がおのれの部下ではないといっても──部下ではないから、かもしれない──強く責めるわけにもいかない。</p><p>　兄上なら、と独りごちる。目線を落としたら書類に染みができていた。インクの先を付けたままだったのだ、この紙はもう駄目だと嘆息する。読めない。</p><p>　黙ったおのれに、ウィリアム様、とエリオットが声を掛ける。気のせいか幾分調子が柔らかい。</p><p><br></p><p>「私が信用ならないのであれば、ご本人に直接聞いてみてはいかがです。丁度図書館へ来られたようですよ」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　山積みの仕事を放置して王城から出、リンドブロム主宮のさらに先にある国立図書館へ向かうのには気が引けたが、マリアベルに謝罪しなければならないという気持ちもあって、ウィリアムは用意されていた馬車に乗った。元々王の所有であったこともあり城館と接続しているので普段は徒歩で行くのだが、先般の出来事が考慮されての馬車である。襲撃事件があるとしばらく自由はないのだった。</p><p>　本当のことを言うと、ウィリアムを襲った実行犯の目途は付いている。異端審問気取りの頭巾を被っている複数人という状況から、ここ最近でウィリアムが反発を招きそうな判断をしたものと考えれば、学閥、アマルベルガの件しかないからだった。数週間前に教皇庁からの聖務職者の派遣についての請願書を却下した。どちらにしろ火種になるのなら国民を巻き込まずおのれだけが標的になればいいと思ったが、マリアベルに怪我をさせることになるとは。完全にウィリアムの手落ちだった。</p><p>　野放しにしておけば、現場に居合わせたマリアベルも今後また狙われるかもしれない。</p><p>　だというのに、泳がせるのはどうかとこの口は言う。</p><p><br></p><p>（嫌な人間だ）</p><p><br></p><p>　国の為に一人の犠牲はやむを得ない、そのような考え方をひどく憎悪したがゆえに選んだ道で、結局類することをしようとしている。クロンクビスト王族の血は争えないとでも証明するかのようだ。</p><p><br></p><p>（一緒にいれば却って安全か）</p><p><br></p><p>　答えを導き出す前に、蹄の音が止まる。徒歩でも行ける距離なのですぐに図書館へ着いた。不自然ではない程度に衛兵の数が増えている王族専用門を通り、ウィリアムはマリアベルが日頃本を読んでいる空間へ向かった。どうするにせよ、事件については謝罪しなければならない。</p><p>　天井まで続く本の森の合間を抜けてゆく。最奥の少し手前で、薄暗かった空間にすっと光が射して、複数の机と椅子が備えられた場所に出る。窓からは燦々と陽射しが入り込んでいた。その下でいつも通り、一番片隅にある二人掛けのソファに座って、マリアベルは本を読んでいる。ウィリアムは足を止めた。</p><p>　装飾の少ないワンピースに、礼を失しない程度に結われた銀髪。五分丈の袖からは白い腕が伸びている。頬に被覆材を付けていたとエリオットは言っていたが、取れているようだった。</p><p>　何と声を掛けようかとウィリアムが逡巡していると、相手が先に顔を上げた。</p><p><br></p><p>「何をしているの？」</p><p><br></p><p>　雪で白んだような緑眸が、ウィリアムを捉える。</p><p><br></p><p>「そんなところに立ったままどうしたの、ウィリアム。……何だか前にも言った気がするわね」</p><p><br></p><p>　ふ、と口許を弛めて言い、マリアベルは手にした本と積み上げた本を取り替える。少しの変化も感じられない声色に、ウィリアムはほんの微かに息を吐いた。そこでようやく、柄にもなく緊張していたことに気づいた。</p><p><br></p><p>「……この間はごめん、ベル」</p><p><br></p><p>　息を吸って、吐くと同時に声に出した。人の気配が薄く静まった館内では、小声でも響く。</p><p>　マリアベルは改めて視線を上げると、首を傾げた。</p><p><br></p><p>「何が？」</p><p>「何がって、危険な目に遭っただろう。怪我もしたって」</p><p>「それは事実だけれど、あなたが謝ることではないでしょ。あなたが私を襲ったのではないし」</p><p><br></p><p>　それとも用意周到に準備していたの、あれは演技？　とマリアベルに問われて、ウィリアムはまさかと頭《かぶり》を振った。マリアベルはいつも通り素っ気なく、ならいいでしょ、と言う。</p><p><br></p><p>「怪我なら大したことなかったわ。あれはただの不運よ」</p><p>「……僕と一緒に出掛けていなかったら襲われることはなかったんだよ、ベル」</p><p>「あなたと出掛けなかったらわたしはずっと侯爵家に引き籠もって、レスカの味も、エイジェルステットの旧市街の美しさも、あなたと外を歩けて楽しかったという気持ちも、知ることはなかったわね」</p><p><br></p><p>　抑揚はあまりなかったが、清冽と美しく、揺るがない声だった。ウィリアムに自らの何も疑わせないと言わんばかりの。ウィリアムは言葉を見つけられずに立ち尽くした。マリアベルはウィリアムを見ている。</p><p><br></p><p>「わたしはあの日、あなたと出掛けられて楽しかったと言ったのよ。忘れないで」</p><p><br></p><p>　あの日のように微笑みこそしなかったが。</p><p>　今日も変わらず、マリアベルは欺瞞なく言葉を紡ぐ。大きく確保された採光から振る粒子を、銀髪が弾いて目映い。</p><p><br></p><p>「それよりウィリアム、あなた、寝てないでしょう。ひどい顔よ」</p><p><br></p><p>　ウィリアムが呆然としているとマリアベルは顔を顰めた。読んでいた本に栞を挟んで脇机に置き、ウィリアムの方へと歩み寄ってくる。身構える間もなく手を取られ、それまで彼女が座っていたソファに無理矢理腰を下ろさせられた。そうしてマリアベルは隣に座ると、強い力でウィリアムの肩を自分の方へ押した。何を、と頭が働き始めたときには、ウィリアムはマリアベルの脚の上に横たわっていた。──膝枕だ。</p><p><br></p><p>「な……ベル」</p><p>「ちゃんと寝ないからおかしなことを考えるのよ、寝なさい」</p><p><br></p><p>　ウィリアムは慌てて身を起こそうとしたが、マリアベルが深く覗き込んできたために途中で止まるしかなかった。下手をすると顔がぶつかってしまう。息が掛かるほどの至近距離で睨み合い、先に折れたのはウィリアムだった。マリアベルの言う通りおのれは寝不足で、今、まともに思考できているかと問われるととても怪しいのだった。エリオットにそこを突かれたくらいには。</p><p>　大人しく彼女の腿に頭を下ろし、しかしせめてもの抵抗で、腕で両目を隠した。</p><p>　顔が熱い。笑いが込み上げる。</p><p><br></p><p>「……硬いよ、ベル」</p><p>「おきれいな額に角から本を落とすわよ」</p><p><br></p><p>　打てば響く。うん、とウィリアムは頷いた。──異母姉はいつも花の匂いがしたものだったが、マリアベルからは本の匂いと、何となく、冬の清んだ匂いがするような気がした。そういえばミルヴェーデンには行ったことがないと、ぼんやり考える。兄の留学先がそちらの方だったような気がするが、帰国してすぐに父王が亡くなったので詳しく聞いたことはなかった。どんな国なのだろう。銀狼が切り拓いた北方の雄。今は女王だったか。</p><p>　でも、おのれよりは、きっとまともだろう。</p><p><br></p><p>「……むかし」</p><p><br></p><p>　硝子を隔ててゆるんだ夏の太陽光が、さわさわと肌を撫ぜる。マリアベルの陰にいるので暑さもなく、睡魔が忍び寄ってきた。目蓋が重い。本当に寝てしまうなと思いながら、ウィリアムは呟く。</p><p><br></p><p>「兄上が姉上にこうしているのを見たな……」</p><p><br></p><p>　離宮近くのガゼボで、兄は本を読んでいて、異母姉はその膝の上で眠っていた。幸せそうだった。あの頃のふたりはいつだって、幸せそうだった。幸せでいてほしかった。</p><p>　──月のない夜、銀花《ルツィエ》が風に揺られている。</p><p>　カーテンを捲る。玻璃の扉を開けば一面に青白い光が浮かび上がった。血に濡れた手で王冠と王笏を掴み取り、蔓延った悪夢を嫌忌してなお、ウィリアムはあの花園を燃やせずにいる。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg?width=960" width="100%">
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】15. 荒野の誘惑]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/17254905/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/17254905</id><summary><![CDATA[　クロンクビスト国王の諮問機関、枢密院の筆頭顧問官にして、四大公爵家の一であるハーシェル公爵エリオット・ミラーがスタインズ侯爵家へとやって来たのは、マリアベルがウィリアムと王都へ外出してから三日後のことだった。　午後の早い時間に公爵が屋敷を訪れたとき、普段通りに談話室の定位置で読書をしていたマリアベルは、客間へ来るようにとレックスから呼び出され、一瞬眉を顰めたのち、溜息と共に立ち上がった。先触れがあってもよいものをと毒づく。──あの事件の直後、マリアベルが帰宅するなりすぐに登城したレックスは当然、公爵の訪問の日取りを知っていたに違いないが。　使用人に先導され、客間の前まで辿り着いてようやく、マリアベルはちらとおのれの質素なワンピースを見下ろした。いつもと同じ、灰黄緑色の踝丈のワンピースである。マリアベルにとっては大切な一着なのだが、公爵に面会するには些かと思ったけれども、そもそも事前に何も知らせておかなかったレックスが悪い。どうせここはスタインズ侯爵家の中であるし、自分はただの家出娘、知ったことかと開き直る。　扉を敲き、応答をして部屋へと踏み入る。客間は、少なくとも談話室より一回りは大きい設えで、全体的に無骨なこの屋敷にしては奢侈な雰囲気のある空間だった。その中央に二人の男が対面で座っている。扉へ背を向けて座っていた方、侯爵邸の主人であるレックスは、マリアベルを肩越しに一瞥するなり立ち上がって、傍らへ来るよう促した。「こちらが件のマリアベルだ、エリー」　確かに、最初に畏まるなと言ったのはマリアベルなのだが。　それにしても日を追う毎に扱いが邪険になっているような気がすると、全てを省略したレックスの粗雑な紹介に、マリアベルは内心で半眼になる。皮肉の一言でも口にしようかと思ったが、向かいの男が腰を上げたので大人しく噤んだ。そうして視線を遣った先で、マリアベルは何とはなしに一人で合点する。これがエリオット・ミラーか、と。　美丈夫と形容する以外には他になさそうな男だった。若い時分には社交界の貴公子と呼ばれていたらしい貌の造形は然もありなんというところだが、印象的なのはその瞳だ。ともすれば垂れ目に見える双眸、その虹彩は透けるような青紫、一方、瞳孔は金茶という、複雑な色で構成されていた。右の目許の目立つ位置には黒子があり、如何にも情欲を掻き立てそうである。人誑しな愛嬌と色気、けれど何を考えているのか読みにくい謎めいた気配が、瞳の中に全て共存している人物だ──切れ者の枢密顧問官と聞くからにはあれに似て怜悧な面立ちなのだろうとどこかで想像していた自分に気づき、マリアベルはそっと苦笑を噛み殺した。あの碧眼は残影が勁すぎる。　不躾に眺めているマリアベルをどう思ったのだろう、エリオットは小さく笑うと、胸に手を当て一礼した。たかが小娘にも気障な仕草だ。「初めまして、レディ。ハーシェル公爵位を賜っております、エリオット・ミラーと申します」「マリアベルと申しますわ、閣下。お会いできて光栄です」　ウィリアムとはまるで異なる慇懃さで微笑んだエリオットに、マリアベルは服の裾を抓んで略式の礼を取る。光栄ですという言葉には当然抑揚はない。クロンクビストで見《まみ》えたこれまでの誰とも同じ調子の、表面上の挨拶だ。声色から、特段会いたいとは思っていなかったという含みを察したらしいレックスは、隣で胡乱な雰囲気になっている。マリアベルは心の中で行儀悪く舌を出した。多分にそれも伝わったことだろう。　エリオットは二人のそんな水面下の遣り取りに気づいているのかいないのか、不意に眉尻を下げると、先日は、と続けた。「ウィリアム様がご迷惑をお掛けしたようで申し訳なかった。……怪我をなさったとか」　マリアベルが『ウィリアム』の立場を承知しているだろうことを確信した上での慰労の言葉に、ああ、とマリアベルはおのれの片頬に宛がわれた被覆材に手を遣った。別に大したことはありませんけれどと、エリオットの気遣わしげな眼差しにも──そこらの初心な令嬢であれば恥じらうところなのだろうが、生憎である──素っ気なくマリアベルは答える。「ただの掠り傷ですからあと数日もすれば痕なく治ります。侯爵家の皆さんが過分にご心配下さっただけのこの見た目ですの」　胡散臭い異端審問気取りのあの集団に突き飛ばされた際に思い切り半身を打ちつけたために、頬だけではなくあちこちに擦過傷や打撲ができたのは確かなのだけれども。骨折したわけでもあるまいし、過剰に心配されるほどではないとマリアベルは思っている。仮に痕が残ったとして、元々古傷の多い身体なのでこれくらい今更気に病むこともない。ただし、案の定日傘は骨が折れて使い物にならなくなったので、買い直さなくてはならないが。「わたしのことよりも、ウィリアムが無事でよかった」　帰宅がほとんど夜であったにも関わらず登城し、明け方に帰ってきたレックスからそのように聞いた。　平坦に呟いたつもりだったが、少し、声に感情が滲んだかもしれない。願いも虚しく、結局僅かに罅が入ってしまった青いレーアテルエの栞を思い出し、マリアベルはうっすらと眉を顰めた。──傷が残ってしまったのは、寧ろウィリアムの方だろうという考えが脳裏を過ぎったけれど、それは言わないでおく。　初めて表情を覗かせたマリアベルをどう見たのか、エリオットは困ったような笑いをはく。「優しい心遣いに感謝します、マリアベル嬢。しかし……ウィリアム様は貴女に怖い思いをさせてしまったのではないかと」　それは、心底申し訳なさそうに感じられる声音だった。　声音だけは。　複雑な色を成すエリオットの両眼を見つめたまま、どうかしら、とマリアベルは独りごちる。──ウィリアムは、あのときのマリアベルの様子を見ていた。マリアベルが『オーウェン』に母国語で怒声を浴びせていたところの記憶があるかは定かではないが、少なくとも声は聞こえてはいただろう。何を叫んだか理解してくれていると信じるほどマリアベルは楽観的な人間ではないし、おのれが企図した襲撃ではないという確証は、ウィリアムたちにはどこにもないはずだった。幾ら国の実績ある元近衛騎士が後見を務めているとはいえ、信頼はレックスへのものであって、マリアベルに対してのものではない。内実ではマリアベルの出方を窺っているに違いなかった。　しかしエリオットの口調にも佇まいにもそのような気配は極めて薄く、巧いものだなと思う。このような質《たち》のおのれが相手でなければ、欺しきるだろう。その蠱惑的な瞳で絡め取って。これがエリオット・ミラーかと、今一度、マリアベルは胸中で反芻する。　だが、どんな疑惑を持たれようが、マリアベルには何ら後ろ暗いところはないのだから面倒臭いの一言しかない。ウィリアムにも伝えたが、マリアベルはこの手の遣り取りが嫌いだ。そもそもこういうことに心底厭いたからおのれは家出したのである。「レックス、あなたどこまで話したの」　先のエリオットの問いには答えず、面会の口火を切ったきり傍らで沈黙を選んでいるレックスを横目で見遣ると、マリアベルは一層淡泊な声で訊いた。レックスはマリアベルをちらと見返し、軽く肩を竦める。ウィリアム様に説明した内容と特別に変わりないが、と彼は嘯いた。「強いて言うのなら、貴女を預かったときにあの方が仰ったことをそのまま、だな」　マリアベルは小首を傾げ──この男がおのれの後見を押しつけられたときに何を言われたのかまでは知らない──、とはいえそうであるのなら、やはりこの遣り取りは続けるだけ不毛だと思い切った。エリオットに視線を戻す。　愉しそうな閣下には申し訳ないのだけど、と、マリアベルは口調を切り替える。「わたしは駆け引きが好きではないの。それからいい加減立ち話を止めてもいいかしら」　素になって話すと、エリオットは興味深そうに眸を眇めた。その眼差しに軽い溜息を吐き、屋敷の主人も目上の客人もそっちのけにして、マリアベルは手近なソファへ腰掛ける。「──心配されるほどのことはなかったわよ。所詮どこぞの子犬だもの」　それとなくテーブルの上に用意されていた紅茶へ手を伸ばしながら、マリアベルは立ったままの男二人を仰いだ。「とりあえず、あなたたちが座ったら事の次第だけは改めて話してあげるわ」　三日前の襲撃についてのあらましは、レックスにはあの日のうちに説明済みであったし、エリオットはウィリアムからも聞き及んでいるだろうから、いずれにしても話は掻い摘まんだものにした。帰り際、王都の旧市街──当時は場所がどこかわからなかったが後で聞いたところそう言われた──をふたりで歩いているときに、突如として訝しい不逞の輩に襲われたという。そこに、彼らの人数や身形、一連の行動等を繋いでゆく。　中には、レックスに語ったことと異なる点が一つだけあったのだが、嘘は吐いていないのでマリアベルはしれっと話し続けた。マリアベルを見る眸の奥にひっそりと何かを潜ませているエリオット・ミラーが、もし今後調査を洗い直したとしても、集団の狙いがウィリアムだけにあった以上、どうしたところでおのれについて何らかの埃が立ちようもないのだから構わないだろう。　不届き者たちは、マリアベルには手を出さずに去った。そして、明らかに暴漢に襲われた様相のマリアベルに出会った通り掛かりの親切な夫婦が手助けをしてくれて、自分は屋敷へ帰ってくることができた。これらは全て、事実だ。「わたしはこの国の政治や社交に明るいわけではないし、これ以上のことは知らないわ」　古臭い異端審問者の風体を模したあの襲撃者たちが誰であるかなど、到底見込みもつかない。彼らはみな一様に同じ恰好をしていて、最後まで一言も発することがなかった──その態度だけは、子犬にしては利口だと、マリアベルも唯一思ったところだった──。──けれど。マリアベルは銀灰の睫毛を伏せる。　その少し前、日暮れの最中、尖塔が色濃く影を伸ばしていたあの聖堂。蠢いた気配と一刹那ちらついた銀、──恐らくは一組の男女。上流階級と思しき女性の方に憶えはなかったが、男性ならば推し当てられた。マリアベルが国立図書館へ初めて足を運んだ日、戯けた道化のようなふうで声を掛けてきた、特異な緋色の装束と片目にモノクルを身に着けた『ジュード』という男──「ジュード？　……ジュード・ボルジャーですか？」　怪訝に声を上げたエリオットに、姓は聞いていないから知らないわ、とマリアベルは返答する。「モノクルが印象的だったから、あなたがわたしを疑うのでなければ、三日前に見かけた男性もわたしが図書館でお会いした『ジュード』氏だと思うわよ。図書館の彼は、鳥羽色の瞳に肌は褐色だったわね。頬骨が高くて……そうね、物腰に相反して外見は少し厳《いかめ》しかったかしら。傍にいた女性の姿ははっきり見えていないの。上流階級だろうというのは、所作がドレスを捌くときと同じだったから。それだけ」　マリアベルはぬるくなった紅茶で咽喉を潤し、先入観と言われればそれまでだけどと言い添えた。エリオットが──延いてはウィリアムが、クロンクビストに顔見知りの少ない外国人の聴取を信用できなくてもそれは仕方のないことだと思っている。長年の習慣で、マリアベルには人の相貌を識別できている自信があるが。一度見た顔は絶対に忘れない。　けれどそれも、話す必要のないことだ。　エリオットはしばらくマリアベルを凝視し、間を置いて、どう思います、とレックスに訊ねた。「マリアの証言で判断するのなら、八割方、ボルジャー家の当主だろう。ああ、遠縁だろうに親族であることを理由にして、聖座に就かれたヴィンセント様の後見になったのだったか、あれは」　面倒だなと、面倒臭がっているようには聞こえないさらりとした調子で、レックスは呟いた。そうして、説明は必要かとマリアベルに視線で訊いてくる。マリアベルは肩を竦めた。聖座──『教会』の首長、教皇位。その親族による強引な後見。そのような破片を落とされれば、ある程度の推考は成立する。要するに『ジュード・ボルジャー』という男は、『教会』と袂を分かった現王に対し、腹に一物ある人物なのだ。襲撃者たちも異端審問官の意匠を真似ていたのだし、とマリアベルは独りごちる。エリオットは表情を変えないまでも、無意識だろう、口角に僅かに力が籠もっている。　猊下を疑うわけではないですが、エリオットが吐き出した声には苦いものが混ざっていた。「本庁が絡むとなれば……」「まあ、軽率なことはしない方がいいだろうな。他の叛意ある者たちにも付け入る隙を与えるだけだろう」　──話しすぎて紅茶がなくなってしまったわ。　男二人が政治的な会話をし始めるのを全て聞き流し、マリアベルはソファから立ち上がると、隣の部屋に控えていた執事に声を掛けた。紅茶を三人分全て新しいものに取り替えてもらえるかということと──もう一つ。申し訳ないけれどと眉尻を下げて依頼する。彼は静かに微笑んで快諾してくれた。「マリア？」　突然席を立ったマリアベルをレックスの声が追い掛けてくる。マリアベルは半身だけ振り向いたもののその呼名には応えず、エリオットを見た。「閣下、シャァク……ではないわね、チェスはお好き？　できるかしら」　マリアベルが訊ねると、話の脈絡から脱線したので突飛だと思ったのだろう、エリオットは目を瞬かせた。一方で、レックスは肺の底から溜息を吐いている。本当に大概失礼なオトウサマだ。　すぐに平静を取り戻したエリオットは、できますが、と、我が儘な令嬢に付き合う素振りで小首を傾げ、微笑んだ。マリアベルは、紅茶より先に執事が持ってきてくれた将棋《チェス》の道具を一式受け取ると、それなら一局お付き合い頂けると嬉しいわ、わたしには興味のない話だし手持ち無沙汰で退屈なのだもの、そう飄々と宣って元のソファに腰を下ろした。遊技盤をテーブルに置き、象嵌の施された小箱を開けて中に入った駒を取り出す。「クロンクビスト式のチェスの心得ならあるから安心して。レックスだと相手にならないのよ」「……戦略と戦術を要する遊技でこの方が相手にならないとは、随分とお強い」「それはどうかしら。この男が強すぎて相手にならない、という意味かもしれないでしょう？」「そうであるのなら、相手にしてもらえないのだと表現するでしょう。貴女は言葉を弄するのがお好きなのですね、マリアベル嬢？」　どうやら女が将棋をするのを面白がっているらしいエリオットがそのように揶揄をするのに、マリアベルは小さな笑みをはいた。噂に違わず、中々鋭いことを言う公爵だ。「あと、わたしに敬語は必要ないわよ。マリアで構わないし。あなたがレックスから何を聞いたのかは知らないけれど、わたしは所詮、ただの家出娘で厚かましい居候だから」　全くだ、とレックスが傍目で呆れているのは無視をする。　対して、敬語は癖のようなものなのですがねとエリオットは笑っている。「まあ、美しい女性の頼みとあれば努力しよう、マリア」　社交辞令もいらないわよ、マリアベルはそう言って肩を竦め、エリオットとおのれの間へと、白の駒を十六、黒の駒を十六、それぞれ美しく揃えた遊技盤を差し出した。将棋の先手は白だ。そして大抵の場合、先手であることが優勢とされる。　マリアベルは白と黒の歩兵を一駒ずつ指先で抓むとそれをレックスに渡した。レックスはやはり溜息を吐き、ややあって、マリアベルとエリオットに見えないようにしながら右手と左手にそれぞれ駒を握り締めた。互いにどちらかを選ぶのである。エリオットは何の衒いもなくマリアベルに選択権を与えた。将棋は紳士の遊技ゆえ、レディファーストということなのだろう。「では、閣下のお言葉に甘えて」「どうぞ。──ああ、チェスに応じるに当たって一つお願いがあるんだが、マリア」　──マリアベルは、右手の駒を選んだ。レックスから掌中の駒が返される。「何かしら、楽しいお話だといいのだけれど」　手許に来たのは白の歩兵だった。先手である。「もし私が勝ったら」　エリオットが、自陣に黒の歩兵を置く。そのさまを見守ってから、マリアベルは手に入れた白の歩兵をそのまま盤上へ差した。序盤定跡の通り、一瞬の躊躇もなく。けれども、後手のエリオットはすぐには駒を動かさない。その眼差しは遊技盤ではなくマリアベルへと注がれている。　不可思議な色合いの双眸が、するり、細められる。「夏の終わり、ザ・シーズンを締めくくる、我が公爵家の舞踏会、王家主催の夜会それぞれに、あの方のパートナーとして出席してもらいたい」　エリー、と。　マリアベルよりも先に声を上げたのはレックスだった。　ほんのごく微かに強張りを含んだその声を、しかし、あまり面白くない話ねと変わらない単調さでマリアベルは遮った。その言葉に浮かれる明朗さもなければ、突き放す冷酷さも孕んでいない、ただの相槌である。レックスがおのれを見ているのに気づいてはいたが、取り立てて何の反応もせず、マリアベルはエリオットに対峙する。「家名をどこかに置き忘れてきたどこの馬の骨とも知れない小娘を、あなたの大事なご主人様に宛がってもいいの？」　舞踏会ともなれば踊れなければならない。夜会であるなら高位貴族の会話に興じるユーモアがなくてはならない。どちらに出席するにせよ、立派な舞台にふさわしいだけの煌びやかなドレスを着こなせなければならない。しかし、マリアベルにそれだけの嗜みがあるのかを、この国にいる誰一人として知らない。ウィリアムに同伴したマリアベルを見て、或いは狂気の沙汰だと論う者もいるだろう。「そんな女を信じられるとでも？」　マリアベルが淡々と述べれば、この国にいる誰一人ね、その部分だけを復唱して、エリオットは愛想を剥ぎ取り冷笑した。「私はあるじを信じておりますよ、美しき聖母の君」「……可哀想に」　マリアベルはそう呟き。　おのれが手許にある白の王に指先で触れた。「いいわよ。あなたがわたしを楽しませてくれたら付き合ってあげる。……ウィリアムがそれを受け入れるかどうかは知らないけれどね」「──頷かせるさ」　それが俺の仕事なのだから。　不敵に嗤笑い、エリオットは黒の歩兵を手に取った。「──よかったのか？」　エリオットを見送って客間へ戻ってきたレックスは、斜向かいのソファに腰を下ろすなり開口一番に訊いてきた。黒の僧正が白の王に王手を掛けたところで止まっている盤上の場面を眺めながら、手のひらの内で自らの騎士を転がしていたマリアベルは、それは閣下に言ってもらえる？　と、抑揚なく答えた。　現状の駒の配置を見て、打つ手なしだなとエリオットは終局にした。それというのも、彼の手許にあった黒の陣営は王を守るため、王妃から歩兵まで──当然いくつかは欠落したものの──全種の駒が堅固に揃ったまま、一方でマリアベルの陣営は、王と王妃、城塞、僧正、騎士が一見何の手筈もなさそうに点在している以外には、歩兵だけが一列に残っているのみだからだったのだろう。王手の段階ではあるが、実質は投了であると、エリオットは判断したのだ。　マリアベルは、王手を掛けている黒の僧正を、手中で遊ばせていた残り一つの騎士で弾く。「敵陣を離散させるのは巧妙だったけれど、策士策に溺れるというところかしら……」　遊技盤を見つめるレックスは沈黙している。　──そうして次に、エリオットは恐らく、再王手を賭けこの白の騎士を取りに掛かるだろう。騎士が失われれば、マリアベルの形勢はより一層不利に見える。だが他方、騎士を奪うために一手前で黒の王妃が動かざるを得ず、すると黒の王の周囲が瓦解し始める。これまで堅牢に守られていた彼の王は、ここに来て迂闊に動くと王手になりかねないので、動かしたくても動かせないはずだ。そのうちにマリアベルは、おのれが道を塞ぐ黒の城塞を白の僧正で弾く。その僧正が相手の別の城塞によって取られたなら、さらにはそこを突き崩すため、白の王妃を呆気なく捨てる。　慎重に使うべきとも思える駒を次々と捨て、けれどもそうして気がつけば。　生きている黒のどの駒も、王以上に唯一ほとんど身動きをせず、来るべき時を待っていた最後の白の城塞を留められる位置にいない。既にいずれの手も間に合わない。而して後にマリアベルは、うつくしい白の城塞によって、黒の王を陥落するだけなのだ。「──王手《エンクゥン》」　わたしの勝ちね、と。　マリアベルは深雪の静けさで囁く。「またわざと負けたのか？」　展開を傍観していたレックスが問い掛ける。マリアベルは嘆息を殺した。「人聞きの悪いことを言わないでくれる？　わたしは誰に対してもチェックメイトだと答えた憶えはないわよ。相手が勝手にチェックで見切ったと思うだけ、あなたもね、レックス」「貴女のチェスはいつでも、全てを擲ってなお、勝つためのチェスだな」　聞きようによっては痛切な、その言葉の意味するところは何なのだろうと一瞬だけ思ったが、すぐに放棄する。「そうよ、最後にわたしが勝てばいいの」　遊技の最中に冷め切ってしまった紅茶を一口だけ飲んで、マリアベルは城塞を手に取った。駒の形に研磨されたかつて血で濡れたであろう象牙は真白で、今はその傷痕の影もないけれど、将棋である限りこの駒は永遠に闘争を続ける。残酷な話だ。成ってしまったからには、そう在らなければ生き続けることができない。　清らかなものではいられない。「あれのように決して悪手を打たない完璧な詩人でいられたのならと考えても、なれないのだから仕方がないもの。──生きるべきか死ぬべきか、いつだってその選択肢しか存在しないのよ、わたしたちには」　負けたなら首を取られるだけ。マリアベルが独りごちると、白の城塞は静かに黒の王を刎ね。　それは微かな音を立てて、盤上からテーブルへと転がり落ちた。]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2021-04-27T07:02:12+00:00</published><updated>2021-04-28T06:40:52+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　クロンクビスト国王の諮問機関、枢密院の筆頭顧問官にして、四大公爵家の一であるハーシェル公爵エリオット・ミラーがスタインズ侯爵家へとやって来たのは、マリアベルがウィリアムと王都へ外出してから三日後のことだった。</p><p>　午後の早い時間に公爵が屋敷を訪れたとき、普段通りに談話室の定位置で読書をしていたマリアベルは、客間へ来るようにとレックスから呼び出され、一瞬眉を顰めたのち、溜息と共に立ち上がった。先触れがあってもよいものをと毒づく。──あの事件の直後、マリアベルが帰宅するなりすぐに登城したレックスは当然、公爵の訪問の日取りを知っていたに違いないが。</p><p>　使用人に先導され、客間の前まで辿り着いてようやく、マリアベルはちらとおのれの質素なワンピースを見下ろした。いつもと同じ、灰黄緑色の踝丈のワンピースである。マリアベルにとっては大切な一着なのだが、公爵に面会するには些かと思ったけれども、そもそも事前に何も知らせておかなかったレックスが悪い。どうせここはスタインズ侯爵家の中であるし、自分はただの家出娘、知ったことかと開き直る。</p><p>　扉を敲き、応答をして部屋へと踏み入る。客間は、少なくとも談話室より一回りは大きい設えで、全体的に無骨なこの屋敷にしては奢侈な雰囲気のある空間だった。その中央に二人の男が対面で座っている。扉へ背を向けて座っていた方、侯爵邸の主人であるレックスは、マリアベルを肩越しに一瞥するなり立ち上がって、傍らへ来るよう促した。</p><p><br></p><p>「こちらが件のマリアベルだ、エリー」</p><p><br></p><p>　確かに、最初に畏まるなと言ったのはマリアベルなのだが。</p><p>　それにしても日を追う毎に扱いが邪険になっているような気がすると、全てを省略したレックスの粗雑な紹介に、マリアベルは内心で半眼になる。皮肉の一言でも口にしようかと思ったが、向かいの男が腰を上げたので大人しく噤んだ。そうして視線を遣った先で、マリアベルは何とはなしに一人で合点する。これがエリオット・ミラーか、と。</p><p>　美丈夫と形容する以外には他になさそうな男だった。若い時分には社交界の貴公子と呼ばれていたらしい貌の造形は然もありなんというところだが、印象的なのはその瞳だ。ともすれば垂れ目に見える双眸、その虹彩は透けるような青紫、一方、瞳孔は金茶という、複雑な色で構成されていた。右の目許の目立つ位置には黒子があり、如何にも情欲を掻き立てそうである。人誑しな愛嬌と色気、けれど何を考えているのか読みにくい謎めいた気配が、瞳の中に全て共存している人物だ──切れ者の枢密顧問官と聞くからにはあれに似て怜悧な面立ちなのだろうとどこかで想像していた自分に気づき、マリアベルはそっと苦笑を噛み殺した。あの碧眼は残影が勁すぎる。</p><p>　不躾に眺めているマリアベルをどう思ったのだろう、エリオットは小さく笑うと、胸に手を当て一礼した。たかが小娘にも気障な仕草だ。</p><p><br></p><p>「初めまして、レディ。ハーシェル公爵位を賜っております、エリオット・ミラーと申します」</p><p>「マリアベルと申しますわ、閣下。お会いできて光栄です」</p><p><br></p><p>　ウィリアムとはまるで異なる慇懃さで微笑んだエリオットに、マリアベルは服の裾を抓んで略式の礼を取る。光栄ですという言葉には当然抑揚はない。クロンクビストで見《まみ》えたこれまでの誰とも同じ調子の、表面上の挨拶だ。声色から、特段会いたいとは思っていなかったという含みを察したらしいレックスは、隣で胡乱な雰囲気になっている。マリアベルは心の中で行儀悪く舌を出した。多分にそれも伝わったことだろう。</p><p>　エリオットは二人のそんな水面下の遣り取りに気づいているのかいないのか、不意に眉尻を下げると、先日は、と続けた。</p><p><br></p><p>「ウィリアム様がご迷惑をお掛けしたようで申し訳なかった。……怪我をなさったとか」</p><p><br></p><p>　マリアベルが『ウィリアム』の立場を承知しているだろうことを確信した上での慰労の言葉に、ああ、とマリアベルはおのれの片頬に宛がわれた被覆材に手を遣った。別に大したことはありませんけれどと、エリオットの気遣わしげな眼差しにも──そこらの初心な令嬢であれば恥じらうところなのだろうが、生憎である──素っ気なくマリアベルは答える。</p><p><br></p><p>「ただの掠り傷ですからあと数日もすれば痕なく治ります。侯爵家の皆さんが過分にご心配下さっただけのこの見た目ですの」</p><p><br></p><p>　胡散臭い異端審問気取りのあの集団に突き飛ばされた際に思い切り半身を打ちつけたために、頬だけではなくあちこちに擦過傷や打撲ができたのは確かなのだけれども。骨折したわけでもあるまいし、過剰に心配されるほどではないとマリアベルは思っている。仮に痕が残ったとして、元々古傷の多い身体なのでこれくらい今更気に病むこともない。ただし、案の定日傘は骨が折れて使い物にならなくなったので、買い直さなくてはならないが。</p><p><br></p><p>「わたしのことよりも、ウィリアムが無事でよかった」</p><p><br></p><p>　帰宅がほとんど夜であったにも関わらず登城し、明け方に帰ってきたレックスからそのように聞いた。</p><p>　平坦に呟いたつもりだったが、少し、声に感情が滲んだかもしれない。願いも虚しく、結局僅かに罅が入ってしまった青いレーアテルエの栞を思い出し、マリアベルはうっすらと眉を顰めた。──傷が残ってしまったのは、寧ろウィリアムの方だろうという考えが脳裏を過ぎったけれど、それは言わないでおく。</p><p>　初めて表情を覗かせたマリアベルをどう見たのか、エリオットは困ったような笑いをはく。</p><p><br></p><p>「優しい心遣いに感謝します、マリアベル嬢。しかし……ウィリアム様は貴女に怖い思いをさせてしまったのではないかと」</p><p><br></p><p>　それは、心底申し訳なさそうに感じられる声音だった。</p><p>　声音だけは。</p><p>　複雑な色を成すエリオットの両眼を見つめたまま、どうかしら、とマリアベルは独りごちる。──ウィリアムは、あのときのマリアベルの様子を見ていた。マリアベルが『オーウェン』に母国語で怒声を浴びせていたところの記憶があるかは定かではないが、少なくとも声は聞こえてはいただろう。何を叫んだか理解してくれていると信じるほどマリアベルは楽観的な人間ではないし、おのれが企図した襲撃ではないという確証は、ウィリアムたちにはどこにもないはずだった。幾ら国の実績ある元近衛騎士が後見を務めているとはいえ、信頼はレックスへのものであって、マリアベルに対してのものではない。内実ではマリアベルの出方を窺っているに違いなかった。</p><p>　しかしエリオットの口調にも佇まいにもそのような気配は極めて薄く、巧いものだなと思う。このような質《たち》のおのれが相手でなければ、欺しきるだろう。その蠱惑的な瞳で絡め取って。これがエリオット・ミラーかと、今一度、マリアベルは胸中で反芻する。</p><p>　だが、どんな疑惑を持たれようが、マリアベルには何ら後ろ暗いところはないのだから面倒臭いの一言しかない。ウィリアムにも伝えたが、マリアベルはこの手の遣り取りが嫌いだ。そもそもこういうことに心底厭いたからおのれは家出したのである。</p><p><br></p><p>「レックス、あなたどこまで話したの」</p><p><br></p><p>　先のエリオットの問いには答えず、面会の口火を切ったきり傍らで沈黙を選んでいるレックスを横目で見遣ると、マリアベルは一層淡泊な声で訊いた。レックスはマリアベルをちらと見返し、軽く肩を竦める。ウィリアム様に説明した内容と特別に変わりないが、と彼は嘯いた。</p><p><br></p><p>「強いて言うのなら、貴女を預かったときにあの方が仰ったことをそのまま、だな」</p><p><br></p><p>　マリアベルは小首を傾げ──この男がおのれの後見を押しつけられたときに何を言われたのかまでは知らない──、とはいえそうであるのなら、やはりこの遣り取りは続けるだけ不毛だと思い切った。エリオットに視線を戻す。</p><p>　愉しそうな閣下には申し訳ないのだけど、と、マリアベルは口調を切り替える。</p><p><br></p><p>「わたしは駆け引きが好きではないの。それからいい加減立ち話を止めてもいいかしら」</p><p><br></p><p>　素になって話すと、エリオットは興味深そうに眸を眇めた。その眼差しに軽い溜息を吐き、屋敷の主人も目上の客人もそっちのけにして、マリアベルは手近なソファへ腰掛ける。</p><p><br></p><p>「──心配されるほどのことはなかったわよ。所詮どこぞの子犬だもの」</p><p><br></p><p>　それとなくテーブルの上に用意されていた紅茶へ手を伸ばしながら、マリアベルは立ったままの男二人を仰いだ。</p><p><br></p><p>「とりあえず、あなたたちが座ったら事の次第だけは改めて話してあげるわ」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　三日前の襲撃についてのあらましは、レックスにはあの日のうちに説明済みであったし、エリオットはウィリアムからも聞き及んでいるだろうから、いずれにしても話は掻い摘まんだものにした。帰り際、王都の旧市街──当時は場所がどこかわからなかったが後で聞いたところそう言われた──をふたりで歩いているときに、突如として訝しい不逞の輩に襲われたという。そこに、彼らの人数や身形、一連の行動等を繋いでゆく。</p><p>　中には、レックスに語ったことと異なる点が一つだけあったのだが、嘘は吐いていないのでマリアベルはしれっと話し続けた。マリアベルを見る眸の奥にひっそりと何かを潜ませているエリオット・ミラーが、もし今後調査を洗い直したとしても、集団の狙いがウィリアムだけにあった以上、どうしたところでおのれについて何らかの埃が立ちようもないのだから構わないだろう。</p><p>　不届き者たちは、マリアベルには手を出さずに去った。そして、明らかに暴漢に襲われた様相のマリアベルに出会った通り掛かりの親切な夫婦が手助けをしてくれて、自分は屋敷へ帰ってくることができた。これらは全て、事実だ。</p><p><br></p><p>「わたしはこの国の政治や社交に明るいわけではないし、これ以上のことは知らないわ」</p><p><br></p><p>　古臭い異端審問者の風体を模したあの襲撃者たちが誰であるかなど、到底見込みもつかない。彼らはみな一様に同じ恰好をしていて、最後まで一言も発することがなかった──その態度だけは、子犬にしては利口だと、マリアベルも唯一思ったところだった──。──けれど。マリアベルは銀灰の睫毛を伏せる。</p><p>　その少し前、日暮れの最中、尖塔が色濃く影を伸ばしていたあの聖堂。蠢いた気配と一刹那ちらついた銀、──恐らくは一組の男女。上流階級と思しき女性の方に憶えはなかったが、男性ならば推し当てられた。マリアベルが国立図書館へ初めて足を運んだ日、戯けた道化のようなふうで声を掛けてきた、特異な緋色の装束と片目にモノクルを身に着けた『ジュード』という男──</p><p><br></p><p>「ジュード？　……ジュード・ボルジャーですか？」</p><p><br></p><p>　怪訝に声を上げたエリオットに、姓は聞いていないから知らないわ、とマリアベルは返答する。</p><p><br></p><p>「モノクルが印象的だったから、あなたがわたしを疑うのでなければ、三日前に見かけた男性もわたしが図書館でお会いした『ジュード』氏だと思うわよ。図書館の彼は、鳥羽色の瞳に肌は褐色だったわね。頬骨が高くて……そうね、物腰に相反して外見は少し厳《いかめ》しかったかしら。傍にいた女性の姿ははっきり見えていないの。上流階級だろうというのは、所作がドレスを捌くときと同じだったから。それだけ」</p><p><br></p><p>　マリアベルはぬるくなった紅茶で咽喉を潤し、先入観と言われればそれまでだけどと言い添えた。エリオットが──延いてはウィリアムが、クロンクビストに顔見知りの少ない外国人の聴取を信用できなくてもそれは仕方のないことだと思っている。長年の習慣で、マリアベルには人の相貌を識別できている自信があるが。一度見た顔は絶対に忘れない。</p><p>　けれどそれも、話す必要のないことだ。</p><p>　エリオットはしばらくマリアベルを凝視し、間を置いて、どう思います、とレックスに訊ねた。</p><p><br></p><p>「マリアの証言で判断するのなら、八割方、ボルジャー家の当主だろう。ああ、遠縁だろうに親族であることを理由にして、聖座に就かれたヴィンセント様の後見になったのだったか、あれは」</p><p><br></p><p>　面倒だなと、面倒臭がっているようには聞こえないさらりとした調子で、レックスは呟いた。そうして、説明は必要かとマリアベルに視線で訊いてくる。マリアベルは肩を竦めた。聖座──『教会』の首長、教皇位。その親族による強引な後見。そのような破片を落とされれば、ある程度の推考は成立する。要するに『ジュード・ボルジャー』という男は、『教会』と袂を分かった現王に対し、腹に一物ある人物なのだ。襲撃者たちも異端審問官の意匠を真似ていたのだし、とマリアベルは独りごちる。エリオットは表情を変えないまでも、無意識だろう、口角に僅かに力が籠もっている。</p><p>　猊下を疑うわけではないですが、エリオットが吐き出した声には苦いものが混ざっていた。</p><p><br></p><p>「本庁が絡むとなれば……」</p><p>「まあ、軽率なことはしない方がいいだろうな。他の叛意ある者たちにも付け入る隙を与えるだけだろう」</p><p><br></p><p>　──話しすぎて紅茶がなくなってしまったわ。</p><p>　男二人が政治的な会話をし始めるのを全て聞き流し、マリアベルはソファから立ち上がると、隣の部屋に控えていた執事に声を掛けた。紅茶を三人分全て新しいものに取り替えてもらえるかということと──もう一つ。申し訳ないけれどと眉尻を下げて依頼する。彼は静かに微笑んで快諾してくれた。</p><p><br></p><p>「マリア？」</p><p><br></p><p>　突然席を立ったマリアベルをレックスの声が追い掛けてくる。マリアベルは半身だけ振り向いたもののその呼名には応えず、エリオットを見た。</p><p><br></p><p>「閣下、シャァク……ではないわね、チェスはお好き？　できるかしら」</p><p><br></p><p>　マリアベルが訊ねると、話の脈絡から脱線したので突飛だと思ったのだろう、エリオットは目を瞬かせた。一方で、レックスは肺の底から溜息を吐いている。本当に大概失礼なオトウサマだ。</p><p>　すぐに平静を取り戻したエリオットは、できますが、と、我が儘な令嬢に付き合う素振りで小首を傾げ、微笑んだ。マリアベルは、紅茶より先に執事が持ってきてくれた将棋《チェス》の道具を一式受け取ると、それなら一局お付き合い頂けると嬉しいわ、わたしには興味のない話だし手持ち無沙汰で退屈なのだもの、そう飄々と宣って元のソファに腰を下ろした。遊技盤をテーブルに置き、象嵌の施された小箱を開けて中に入った駒を取り出す。</p><p><br></p><p>「クロンクビスト式のチェスの心得ならあるから安心して。レックスだと相手にならないのよ」</p><p>「……戦略と戦術を要する遊技でこの方が相手にならないとは、随分とお強い」</p><p>「それはどうかしら。この男が強すぎて相手にならない、という意味かもしれないでしょう？」</p><p>「そうであるのなら、相手にしてもらえないのだと表現するでしょう。貴女は言葉を弄するのがお好きなのですね、マリアベル嬢？」</p><p><br></p><p>　どうやら女が将棋をするのを面白がっているらしいエリオットがそのように揶揄をするのに、マリアベルは小さな笑みをはいた。噂に違わず、中々鋭いことを言う公爵だ。</p><p><br></p><p>「あと、わたしに敬語は必要ないわよ。マリアで構わないし。あなたがレックスから何を聞いたのかは知らないけれど、わたしは所詮、ただの家出娘で厚かましい居候だから」</p><p><br></p><p>　全くだ、とレックスが傍目で呆れているのは無視をする。</p><p>　対して、敬語は癖のようなものなのですがねとエリオットは笑っている。</p><p><br></p><p>「まあ、美しい女性の頼みとあれば努力しよう、マリア」</p><p><br></p><p>　社交辞令もいらないわよ、マリアベルはそう言って肩を竦め、エリオットとおのれの間へと、白の駒を十六、黒の駒を十六、それぞれ美しく揃えた遊技盤を差し出した。将棋の先手は白だ。そして大抵の場合、先手であることが優勢とされる。</p><p>　マリアベルは白と黒の歩兵を一駒ずつ指先で抓むとそれをレックスに渡した。レックスはやはり溜息を吐き、ややあって、マリアベルとエリオットに見えないようにしながら右手と左手にそれぞれ駒を握り締めた。互いにどちらかを選ぶのである。エリオットは何の衒いもなくマリアベルに選択権を与えた。将棋は紳士の遊技ゆえ、レディファーストということなのだろう。</p><p><br></p><p>「では、閣下のお言葉に甘えて」</p><p>「どうぞ。──ああ、チェスに応じるに当たって一つお願いがあるんだが、マリア」</p><p><br></p><p>　──マリアベルは、右手の駒を選んだ。レックスから掌中の駒が返される。</p><p><br></p><p>「何かしら、楽しいお話だといいのだけれど」</p><p><br></p><p>　手許に来たのは白の歩兵だった。先手である。</p><p><br></p><p>「もし私が勝ったら」</p><p><br></p><p>　エリオットが、自陣に黒の歩兵を置く。そのさまを見守ってから、マリアベルは手に入れた白の歩兵をそのまま盤上へ差した。序盤定跡の通り、一瞬の躊躇もなく。けれども、後手のエリオットはすぐには駒を動かさない。その眼差しは遊技盤ではなくマリアベルへと注がれている。</p><p>　不可思議な色合いの双眸が、するり、細められる。</p><p><br></p><p>「夏の終わり、ザ・シーズンを締めくくる、我が公爵家の舞踏会、王家主催の夜会それぞれに、あの方のパートナーとして出席してもらいたい」</p><p><br></p><p>　エリー、と。</p><p>　マリアベルよりも先に声を上げたのはレックスだった。</p><p>　ほんのごく微かに強張りを含んだその声を、しかし、あまり面白くない話ねと変わらない単調さでマリアベルは遮った。その言葉に浮かれる明朗さもなければ、突き放す冷酷さも孕んでいない、ただの相槌である。レックスがおのれを見ているのに気づいてはいたが、取り立てて何の反応もせず、マリアベルはエリオットに対峙する。</p><p><br></p><p>「家名をどこかに置き忘れてきたどこの馬の骨とも知れない小娘を、あなたの大事なご主人様に宛がってもいいの？」</p><p><br></p><p>　舞踏会ともなれば踊れなければならない。夜会であるなら高位貴族の会話に興じるユーモアがなくてはならない。どちらに出席するにせよ、立派な舞台にふさわしいだけの煌びやかなドレスを着こなせなければならない。しかし、マリアベルにそれだけの嗜みがあるのかを、この国にいる誰一人として知らない。ウィリアムに同伴したマリアベルを見て、或いは狂気の沙汰だと論う者もいるだろう。</p><p><br></p><p>「そんな女を信じられるとでも？」</p><p><br></p><p>　マリアベルが淡々と述べれば、この国にいる誰一人ね、その部分だけを復唱して、エリオットは愛想を剥ぎ取り冷笑した。</p><p><br></p><p>「私はあるじを信じておりますよ、美しき聖母の君」</p><p>「……可哀想に」</p><p><br></p><p>　マリアベルはそう呟き。</p><p>　おのれが手許にある白の王に指先で触れた。</p><p><br></p><p>「いいわよ。あなたがわたしを楽しませてくれたら付き合ってあげる。……ウィリアムがそれを受け入れるかどうかは知らないけれどね」</p><p>「──頷かせるさ」</p><p><br></p><p>　それが俺の仕事なのだから。</p><p>　不敵に嗤笑い、エリオットは黒の歩兵を手に取った。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「──よかったのか？」</p><p><br></p><p>　エリオットを見送って客間へ戻ってきたレックスは、斜向かいのソファに腰を下ろすなり開口一番に訊いてきた。黒の僧正が白の王に王手を掛けたところで止まっている盤上の場面を眺めながら、手のひらの内で自らの騎士を転がしていたマリアベルは、それは閣下に言ってもらえる？　と、抑揚なく答えた。</p><p>　現状の駒の配置を見て、打つ手なしだなとエリオットは終局にした。それというのも、彼の手許にあった黒の陣営は王を守るため、王妃から歩兵まで──当然いくつかは欠落したものの──全種の駒が堅固に揃ったまま、一方でマリアベルの陣営は、王と王妃、城塞、僧正、騎士が一見何の手筈もなさそうに点在している以外には、歩兵だけが一列に残っているのみだからだったのだろう。王手の段階ではあるが、実質は投了であると、エリオットは判断したのだ。</p><p>　マリアベルは、王手を掛けている黒の僧正を、手中で遊ばせていた残り一つの騎士で弾く。</p><p><br></p><p>「敵陣を離散させるのは巧妙だったけれど、策士策に溺れるというところかしら……」</p><p><br></p><p>　遊技盤を見つめるレックスは沈黙している。</p><p>　──そうして次に、エリオットは恐らく、再王手を賭けこの白の騎士を取りに掛かるだろう。騎士が失われれば、マリアベルの形勢はより一層不利に見える。だが他方、騎士を奪うために一手前で黒の王妃が動かざるを得ず、すると黒の王の周囲が瓦解し始める。これまで堅牢に守られていた彼の王は、ここに来て迂闊に動くと王手になりかねないので、動かしたくても動かせないはずだ。そのうちにマリアベルは、おのれが道を塞ぐ黒の城塞を白の僧正で弾く。その僧正が相手の別の城塞によって取られたなら、さらにはそこを突き崩すため、白の王妃を呆気なく捨てる。</p><p>　慎重に使うべきとも思える駒を次々と捨て、けれどもそうして気がつけば。</p><p>　生きている黒のどの駒も、王以上に唯一ほとんど身動きをせず、来るべき時を待っていた最後の白の城塞を留められる位置にいない。既にいずれの手も間に合わない。而して後にマリアベルは、うつくしい白の城塞によって、黒の王を陥落するだけなのだ。</p><p><br></p><p>「──王手《エンクゥン》」</p><p><br></p><p>　わたしの勝ちね、と。</p><p>　マリアベルは深雪の静けさで囁く。</p><p><br></p><p>「またわざと負けたのか？」</p><p><br></p><p>　展開を傍観していたレックスが問い掛ける。マリアベルは嘆息を殺した。</p><p><br></p><p>「人聞きの悪いことを言わないでくれる？　わたしは誰に対してもチェックメイトだと答えた憶えはないわよ。相手が勝手にチェックで見切ったと思うだけ、あなたもね、レックス」</p><p>「貴女のチェスはいつでも、全てを擲ってなお、勝つためのチェスだな」</p><p><br></p><p>　聞きようによっては痛切な、その言葉の意味するところは何なのだろうと一瞬だけ思ったが、すぐに放棄する。</p><p><br></p><p>「そうよ、最後にわたしが勝てばいいの」</p><p><br></p><p>　遊技の最中に冷め切ってしまった紅茶を一口だけ飲んで、マリアベルは城塞を手に取った。駒の形に研磨されたかつて血で濡れたであろう象牙は真白で、今はその傷痕の影もないけれど、将棋である限りこの駒は永遠に闘争を続ける。残酷な話だ。成ってしまったからには、そう在らなければ生き続けることができない。</p><p>　清らかなものではいられない。</p><p><br></p><p>「あれのように決して悪手を打たない完璧な詩人でいられたのならと考えても、なれないのだから仕方がないもの。──生きるべきか死ぬべきか、いつだってその選択肢しか存在しないのよ、わたしたちには」</p><p><br></p><p>　負けたなら首を取られるだけ。マリアベルが独りごちると、白の城塞は静かに黒の王を刎ね。</p><p>　それは微かな音を立てて、盤上からテーブルへと転がり落ちた。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】14. アンノウン]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/16635546/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/16635546</id><summary><![CDATA[　秘書長《カメルレンゴ》のニコラスが、室内に取り揃えられた燭台のそれぞれに火を灯してゆく。その様子を眺めていた教皇ユストゥス七世こと、ヴィンセント・クロフは、最後の蝋燭にゆらりと灯火が揺らめいたのを見届けると、極々小さく息を吐き出した。瞬きですら頼りない灯りを脅かすのではないかと恐れるかのように、とても緩やかな動きで、鳥羽色の双眸を伏せる。そうして、卓上で組み合わせたおのれの両手を見下ろし、独白のように言う。「不憫だと思っています。この国の王はいつも孤独だ」　ヴィンセントは、今、自らが身を置いている手狭な接見室の暗い天井を見上げた。否、そのずっと先にある天を仰いだのかもしれない。「元より歴代のクロンクビスト国王は、国と国民のため儀礼的に『教会』を尊重しておられただけで、誰もみな、おのれが裡のためには決して敬虔な信徒ではありませんでしたが」　あたかも幻視しているかの如く、ヴィンセントは一点を見つめたままに語る。誰もみな──神の名を囁かず、聖書は閉じたまま。八年前に別れた最も若き王はさらに、ラーゲルクランツにある第一使徒のための司教座大聖堂の扉さえも重い鍵を掛けてしまい、祈りや救済の教えを全て拒んでしまった。　ヴィンセントは視線を戻すと、憐れみ深い眼差しを、長卓の向かいに座すジュード・ボルジャーへと流した。ヴィンセントが組んだ指の節々には、ほんの僅かに力が籠もっている。「ですから、救いの手があるというのなら、神でなくともよいと。わたくしが言うのもおかしな話ですが」　ジュードはそれを鼻で笑いこそしなかったが、唇が歪むのを抑えることはできなかったようだ。片眸を覆う銀縁のモノクルに赫赫たる火影を映し、低い笑いを洩らす。何を仰いますとジュードが反駁したのは、ヴィンセントの話よりも、一拍も二拍も遅れてからのことだった。「現王の行いは、罪とは斯く在るべきと言わんばかりのものでございましょう。あの方は傲慢にも許しなく神へと近づこうとしている。王による闘争は各地に様々な分断をもたらしました。中でも以前から『教会』の有り様に否定的であった抗議者には、いかがわしい宗教改革運動なるものの契機を与えてしまい……嘆かわしくも影響されている民衆もおるのですよ、猊下」　ジュードの、深刻な内容に反してどこか軽妙洒脱な話し方は、古の宮廷道化師の滑稽さを演じるかのようだ。所詮自身はヴィンセントに具申する立場でしかないのだと証明しているみたいにも見える。　クロンクビスト国王に触発され『教会』への抗議者たちが影響力を持ってしまったとしたらと、ジュードは無骨な顎に触れながら続ける。「私たちが長く啓蒙してきた多くの教義がいずれは通じなくなりましょう。……ああ、これではまるで聖書における聖塔《バベル》の教訓ではありませんか」　なあそう思うだろう、ニコラス、と。唐突に水を向けられたニコラスは、ヴィンセントに紅茶を用意していた手を一瞬止めると表情の乏しい面でジュードをちらと見遣って、愚僧にはお答えできかねます、と素っ気なく答えた。ジュードはうっすらと険のある目つきになる。　──人払いした接見室においては侍従の真似事をしているが、ニコラスはジュードとは立場を異にする。彼には『教会』内において権限が与えられている。秘書長は教皇によって指名を受けて任じられた本庁の長官であり、教皇が不在の時にはその代理を務める職責があるからだ。ゆえに、ニコラスが何を発言するかということは、ヴィンセントには及ばずとも特別なことだった。端的で抑揚のないただの回答の拒否も、ジュードの演説よりは意味がある。　ニコラスは何も聞かなかったとばかりに澄ました顔をして、ヴィンセントの前に紅茶を差し出すと、静寂に溶けるようにその斜め後ろへと侍った。ヴィンセントはニコラスへ微笑んで礼を言うと、そうですねと首肯する。「わたくしもそのように思います、ニコラス」「畏れ多いことでございます、猊下」　やはり感情の読めない応《いら》えだったが、ヴィンセントは笑みを深めると組み合わせていた両手を解いた。淹れ立ての紅茶が細波を打つカップを手許へ引き寄せ、傍に備えられた陶器を取って、手ずから牛乳を注ぐ。　こぽこぽと雫が沈む音に重ねて、宗教改革運動については、とヴィンセントは口を開いた。「その運動についてはわたくしも考えるところがあるのは確かです。本庁も対抗してゆかねばならない時機には来ているのかもしれない。けれども、そのこととクロンクビスト国王の行いへの糾弾は、別の問題でしょう」　国王が無垢な民衆を扇動したのであるならばともかく、彼はただ、前王の経緯を踏まえて『教会』と距離を置くことを選んだだけ。　ジュードに語り掛けながら、ヴィンセントは匙でゆっくりと紅茶を混ぜる。「そして、かつてのその選択を、闘争と呼称することには以前より誤解があります。事を一紮げにしてはなりません。改革運動は派生的な結果に過ぎないのですから」　ややあって手が止まると、灯火に美しく濡れた鳥羽色の瞳がしんと静かに、上向く。もう一度申し上げますが──「わたくしは、ウィリアム＝メディオフ・オルブライトという人を、不憫だと思っています。彼は自分が穢れることを厭わずに、この国の最も暗いところへと飛び込んでいった。罪を許せぬ貴方の考えはわかりましたが、わたくしはウィリアムを憐れみこそすれ、ニコラスと同様にその問い掛けへ明解を示すことはできかねます、ボルジャー卿」　主もお望みではないでしょう、そう言い添えて、ヴィンセントは紅茶に口を付けた。ヴィンセントを見守るように、室内のあちらこちらで焔が揺らめいている。一方で、モノクルの銀縁には濃い陰翳を刻み、ジュードは、ヴィンセントとは似て非なる鳥羽色の眸を眇めた。嗤笑が浮かんでいる。「──聖座におわす御方が世迷い言を」　その言葉に反応したのはヴィンセントではなくニコラスだった。卿、と諫める声に初めて感情が乗る。ヴィンセントはカップを戻すと、構いませんよと気色ばんだニコラスを制止した。ジュードはニコラスを冷瞥した後、猊下は本当に慈悲深く在らせられる、と元々高い頬骨をさらに吊り上げる。「猊下を愚弄するおつもりですか、ジュード・ボルジャー」「ニコラス」「まさか。とんでもないことだ。ですが、卑賤の身ながら注進申し上げたい」　お許し下さいますかなと到底おのれを謙っているとは思えない風情のジュードに対し、それでもなお、何でしょうと訊ねるヴィンセントの調子は穏やかでぶれがない。── 一等若年の枢機卿でありながら、醜聞が立った前教皇、その一代前は暗殺という、前代未聞のあの混沌期に教皇選挙で選出されただけのことはある。　それも通例何度かは繰り返される選挙で、ただ一回きりの満場一致で、ヴィンセント・クロフは教皇の座に就いたのだ。「余りにもお優しすぎると」　弓形に撓る眸を隠すモノクルに、一層色濃く、暗い火が燃える。「前任と同じく疑われますぞ。──国王と癒着しているのではないかとね」　ヴィンセントは、ジュードを見た。　瞬くと、迷いなく清らかな声でそれに答える。「神は全てを見ておられる。もし、ウィリアムを憐れむわたくしに罪があるのなら、いずれ裁かれるときが来るでしょう。それだけのことです」　──その会話を、接見室を装飾するタピスリーの裏側で聞いていたオフィーリアは、美しく紅を剥いた唇を引き結ぶと、続く使用人部屋へと取って返した。あの憎々しい簒奪者の異母弟《おとうと》と闘争した教皇をこちら側に引き入れることができれば事は容易いと考えたのに、あれでは上手く踊らせられそうにない、と内心で毒づく。　どういうことなのだろう、自らも大国の首座司教の地位を追われて何故あのように異母弟を庇い立てるのだ。オフィーリアは奥歯を噛み締めた。接見室よりもさらに狭隘な部屋の中、毛脚の長い絨毯の上で地団駄を踏んだ。八年前の闘争は誤解だとヴィンセントは言った。何が誤解なのか。兄は死んだのだ。オフィーリアが思慕した最愛の兄は、誇り高く美しいあの兄は、狡賢い異母弟に卑しめられ処刑され、八年前に死んだのだ！　神によって哀憫されるべきは永遠に喪われたあのひとだけだ──「猊下は純粋で在らせられるだけだ。猜疑するということを知らないのです」　怒り狂うオフィーリアの眼前に、いつの間にかジュードが現れていた。オフィーリアが接見室から離れてどれほどの時間が経過したのかはわからないが、ヴィンセントと話し終え、見送りも済ませたのだろう。酷薄な気配を纏わせる鳥羽色の双眸を、オフィーリアは睨めつけた。噛みつかずにはおれない。「ボルジャー卿、話が違うのではなくて！」「──オフィーリア様」　声を荒げたオフィーリアを冷静に押し止めたのはしもべだった。オフィーリア様はお怒りになる声までも大変美しいですが、どこで誰に耳を欹てられているかわかりませんからお気をつけ下さい、としもべが囁く。美声に引き寄せられた蛾などがやって来るかもしれませんよ、しもべの諫言にオフィーリアはぐっと黙り込み、けれども腹立ちを全ては抑制できかねて、袖口から扇を出すと激しく鳴らした。ジュードを睨む眼差しはそのままに、紅が落ちんばかりに唇を噛む。　ジュードはわざとらしく目を瞬かせると、ヴィンセントの前では非情そうだった笑みを苦笑にすり替え、肩を竦めた。女神は燃え盛っても美しいと申しますが参りましたな、と呟いている。「あの方は未だ誰の味方でもないというだけでございますよ、殿下。案ずることはない」　飄然としたその態度に、オフィーリアは苛立った。現教皇が聖座に就く際に、その手腕で後見人の地位を獲得したという聖職貴族のこの男を、どこまで信用すべきなのか。図りかねる。オフィーリアは為損ねるわけにはいかないのだ──あのひとの復讐を果たさねばならない。絶対に成し遂げなければならない。だというのに。「先の愚図たちといい、あなたといい、何なの……！」　叫喚こそ堪えたが、オフィーリアの咽喉は震えた。扇を持つ指先にきりきりと力が入る。　ジュードはいかにも人の好い笑みをはくと、落ち着きなさいませ、と部屋に唯一置いてある豪奢な椅子をオフィーリアに勧めた。使用人部屋に似つかわしくないそれは、オフィーリアのために用意された、深い光沢を持ち滑らかな手触りの天鵞絨が座面と背凭れに縫い張りされ、煌びやかな宝飾も施された、まさに王族のための一脚だった。　それでも憤懣遣る方ないオフィーリアに、さあ殿下、とジュードは傅いてさらに促す。オフィーリアは細い眉間に皺を寄せると、黒のドレスを捌いてその椅子に腰を下ろした。　傍らに跪いたジュードが許しを請うので、しばらく沈黙した後、辛辣な表情でそれだけは受け容れる。「お優しい殿下が焦燥を感じられるのも仕方ないこととは思いますが、急いては為損じるだけ」　皺一つない自慢の手を恭しく掲げ、その甲に口づけたジュードは、鋭利さを潜ませた声色でそう言った。「心優しい者にチェスはできない」「……わたくしにチェスの心得などあるわけがありませんわ」「無論、殿下は貴婦人の鏡でいらっしゃいますからな。俗諺ですよ」　ジュードは立ち上がると、神々の遊技に犠牲は付きもの、と零す。それも将棋《チェス》の至言なのだろうが、オフィーリアには理解のしようがない。オフィーリアがむくれて黙り込むと、ジュードはふと笑い、壁と同化せんというさまで控えるしもべを横目で見た。だがすぐに、気疲れされたのだろうから今日はお帰りになって休まれるといい、と再びオフィーリアに向き直る。殿下には手狭な屋敷で恐縮ですがね、モノクルの奥の眸が細められる。「神が全てを見ておられるのなら、最後には正しい側が勝つ。好いようになりましょう」　先般逃げ戻ってきたあの者たちも仕留め損ねたとはいえ、愉快なことを申しておりましたから、ジュードはオフィーリアの手を掬い優雅に立ち上がらせると、舞踏会の広間へ誘い出すかのように部屋の外へと導いてゆく。接見室に繋がる扉とは違う場所から長廊下へと一歩を踏み出せば、やはり赫赫と、掛け角灯の内でいくつもの火が揺れていた。]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2021-04-12T10:00:07+00:00</published><updated>2021-04-28T06:32:38+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　秘書長《カメルレンゴ》のニコラスが、室内に取り揃えられた燭台のそれぞれに火を灯してゆく。その様子を眺めていた教皇ユストゥス七世こと、ヴィンセント・クロフは、最後の蝋燭にゆらりと灯火が揺らめいたのを見届けると、極々小さく息を吐き出した。瞬きですら頼りない灯りを脅かすのではないかと恐れるかのように、とても緩やかな動きで、鳥羽色の双眸を伏せる。そうして、卓上で組み合わせたおのれの両手を見下ろし、独白のように言う。</p><p><br></p><p>「不憫だと思っています。この国の王はいつも孤独だ」</p><p><br></p><p>　ヴィンセントは、今、自らが身を置いている手狭な接見室の暗い天井を見上げた。否、そのずっと先にある天を仰いだのかもしれない。</p><p><br></p><p>「元より歴代のクロンクビスト国王は、国と国民のため儀礼的に『教会』を尊重しておられただけで、誰もみな、おのれが裡のためには決して敬虔な信徒ではありませんでしたが」</p><p><br></p><p>　あたかも幻視しているかの如く、ヴィンセントは一点を見つめたままに語る。誰もみな──神の名を囁かず、聖書は閉じたまま。八年前に別れた最も若き王はさらに、ラーゲルクランツにある第一使徒のための司教座大聖堂の扉さえも重い鍵を掛けてしまい、祈りや救済の教えを全て拒んでしまった。</p><p>　ヴィンセントは視線を戻すと、憐れみ深い眼差しを、長卓の向かいに座すジュード・ボルジャーへと流した。ヴィンセントが組んだ指の節々には、ほんの僅かに力が籠もっている。</p><p><br></p><p>「ですから、救いの手があるというのなら、神でなくともよいと。わたくしが言うのもおかしな話ですが」</p><p><br></p><p>　ジュードはそれを鼻で笑いこそしなかったが、唇が歪むのを抑えることはできなかったようだ。片眸を覆う銀縁のモノクルに赫赫たる火影を映し、低い笑いを洩らす。何を仰いますとジュードが反駁したのは、ヴィンセントの話よりも、一拍も二拍も遅れてからのことだった。</p><p><br></p><p>「現王の行いは、罪とは斯く在るべきと言わんばかりのものでございましょう。あの方は傲慢にも許しなく神へと近づこうとしている。王による闘争は各地に様々な分断をもたらしました。中でも以前から『教会』の有り様に否定的であった抗議者には、いかがわしい宗教改革運動なるものの契機を与えてしまい……嘆かわしくも影響されている民衆もおるのですよ、猊下」</p><p><br></p><p>　ジュードの、深刻な内容に反してどこか軽妙洒脱な話し方は、古の宮廷道化師の滑稽さを演じるかのようだ。所詮自身はヴィンセントに具申する立場でしかないのだと証明しているみたいにも見える。</p><p>　クロンクビスト国王に触発され『教会』への抗議者たちが影響力を持ってしまったとしたらと、ジュードは無骨な顎に触れながら続ける。</p><p><br></p><p>「私たちが長く啓蒙してきた多くの教義がいずれは通じなくなりましょう。……ああ、これではまるで聖書における聖塔《バベル》の教訓ではありませんか」</p><p><br></p><p>　なあそう思うだろう、ニコラス、と。唐突に水を向けられたニコラスは、ヴィンセントに紅茶を用意していた手を一瞬止めると表情の乏しい面でジュードをちらと見遣って、愚僧にはお答えできかねます、と素っ気なく答えた。ジュードはうっすらと険のある目つきになる。</p><p>　──人払いした接見室においては侍従の真似事をしているが、ニコラスはジュードとは立場を異にする。彼には『教会』内において権限が与えられている。秘書長は教皇によって指名を受けて任じられた本庁の長官であり、教皇が不在の時にはその代理を務める職責があるからだ。ゆえに、ニコラスが何を発言するかということは、ヴィンセントには及ばずとも特別なことだった。端的で抑揚のないただの回答の拒否も、ジュードの演説よりは意味がある。</p><p>　ニコラスは何も聞かなかったとばかりに澄ました顔をして、ヴィンセントの前に紅茶を差し出すと、静寂に溶けるようにその斜め後ろへと侍った。ヴィンセントはニコラスへ微笑んで礼を言うと、そうですねと首肯する。</p><p><br></p><p>「わたくしもそのように思います、ニコラス」</p><p>「畏れ多いことでございます、猊下」</p><p><br></p><p>　やはり感情の読めない応《いら》えだったが、ヴィンセントは笑みを深めると組み合わせていた両手を解いた。淹れ立ての紅茶が細波を打つカップを手許へ引き寄せ、傍に備えられた陶器を取って、手ずから牛乳を注ぐ。</p><p>　こぽこぽと雫が沈む音に重ねて、宗教改革運動については、とヴィンセントは口を開いた。</p><p><br></p><p>「その運動についてはわたくしも考えるところがあるのは確かです。本庁も対抗してゆかねばならない時機には来ているのかもしれない。けれども、そのこととクロンクビスト国王の行いへの糾弾は、別の問題でしょう」</p><p><br></p><p>　国王が無垢な民衆を扇動したのであるならばともかく、彼はただ、前王の経緯を踏まえて『教会』と距離を置くことを選んだだけ。</p><p>　ジュードに語り掛けながら、ヴィンセントは匙でゆっくりと紅茶を混ぜる。</p><p><br></p><p>「そして、かつてのその選択を、闘争と呼称することには以前より誤解があります。事を一紮げにしてはなりません。改革運動は派生的な結果に過ぎないのですから」</p><p><br></p><p>　ややあって手が止まると、灯火に美しく濡れた鳥羽色の瞳がしんと静かに、上向く。もう一度申し上げますが──</p><p><br></p><p>「わたくしは、ウィリアム＝メディオフ・オルブライトという人を、不憫だと思っています。彼は自分が穢れることを厭わずに、この国の最も暗いところへと飛び込んでいった。罪を許せぬ貴方の考えはわかりましたが、わたくしはウィリアムを憐れみこそすれ、ニコラスと同様にその問い掛けへ明解を示すことはできかねます、ボルジャー卿」</p><p><br></p><p>　主もお望みではないでしょう、そう言い添えて、ヴィンセントは紅茶に口を付けた。ヴィンセントを見守るように、室内のあちらこちらで焔が揺らめいている。一方で、モノクルの銀縁には濃い陰翳を刻み、ジュードは、ヴィンセントとは似て非なる鳥羽色の眸を眇めた。嗤笑が浮かんでいる。</p><p><br></p><p>「──聖座におわす御方が世迷い言を」</p><p><br></p><p>　その言葉に反応したのはヴィンセントではなくニコラスだった。卿、と諫める声に初めて感情が乗る。ヴィンセントはカップを戻すと、構いませんよと気色ばんだニコラスを制止した。ジュードはニコラスを冷瞥した後、猊下は本当に慈悲深く在らせられる、と元々高い頬骨をさらに吊り上げる。</p><p><br></p><p>「猊下を愚弄するおつもりですか、ジュード・ボルジャー」</p><p>「ニコラス」</p><p>「まさか。とんでもないことだ。ですが、卑賤の身ながら注進申し上げたい」</p><p><br></p><p>　お許し下さいますかなと到底おのれを謙っているとは思えない風情のジュードに対し、それでもなお、何でしょうと訊ねるヴィンセントの調子は穏やかでぶれがない。── 一等若年の枢機卿でありながら、醜聞が立った前教皇、その一代前は暗殺という、前代未聞のあの混沌期に教皇選挙で選出されただけのことはある。</p><p>　それも通例何度かは繰り返される選挙で、ただ一回きりの満場一致で、ヴィンセント・クロフは教皇の座に就いたのだ。</p><p><br></p><p>「余りにもお優しすぎると」</p><p><br></p><p>　弓形に撓る眸を隠すモノクルに、一層色濃く、暗い火が燃える。</p><p><br></p><p>「前任と同じく疑われますぞ。──国王と癒着しているのではないかとね」</p><p><br></p><p>　ヴィンセントは、ジュードを見た。</p><p>　瞬くと、迷いなく清らかな声でそれに答える。<br></p><p><br></p><p>「神は全てを見ておられる。もし、ウィリアムを憐れむわたくしに罪があるのなら、いずれ裁かれるときが来るでしょう。それだけのことです」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　──その会話を、接見室を装飾するタピスリーの裏側で聞いていたオフィーリアは、美しく紅を剥いた唇を引き結ぶと、続く使用人部屋へと取って返した。あの憎々しい簒奪者の異母弟《おとうと》と闘争した教皇をこちら側に引き入れることができれば事は容易いと考えたのに、あれでは上手く踊らせられそうにない、と内心で毒づく。</p><p>　どういうことなのだろう、自らも大国の首座司教の地位を追われて何故あのように異母弟を庇い立てるのだ。オフィーリアは奥歯を噛み締めた。接見室よりもさらに狭隘な部屋の中、毛脚の長い絨毯の上で地団駄を踏んだ。八年前の闘争は誤解だとヴィンセントは言った。何が誤解なのか。兄は死んだのだ。オフィーリアが思慕した最愛の兄は、誇り高く美しいあの兄は、狡賢い異母弟に卑しめられ処刑され、八年前に死んだのだ！</p><p>　神によって哀憫されるべきは永遠に喪われたあのひとだけだ──</p><p><br></p><p>「猊下は純粋で在らせられるだけだ。猜疑するということを知らないのです」</p><p><br></p><p>　怒り狂うオフィーリアの眼前に、いつの間にかジュードが現れていた。オフィーリアが接見室から離れてどれほどの時間が経過したのかはわからないが、ヴィンセントと話し終え、見送りも済ませたのだろう。酷薄な気配を纏わせる鳥羽色の双眸を、オフィーリアは睨めつけた。噛みつかずにはおれない。</p><p><br></p><p>「ボルジャー卿、話が違うのではなくて！」</p><p>「──オフィーリア様」</p><p><br></p><p>　声を荒げたオフィーリアを冷静に押し止めたのはしもべだった。オフィーリア様はお怒りになる声までも大変美しいですが、どこで誰に耳を欹てられているかわかりませんからお気をつけ下さい、としもべが囁く。美声に引き寄せられた蛾などがやって来るかもしれませんよ、しもべの諫言にオフィーリアはぐっと黙り込み、けれども腹立ちを全ては抑制できかねて、袖口から扇を出すと激しく鳴らした。ジュードを睨む眼差しはそのままに、紅が落ちんばかりに唇を噛む。</p><p>　ジュードはわざとらしく目を瞬かせると、ヴィンセントの前では非情そうだった笑みを苦笑にすり替え、肩を竦めた。女神は燃え盛っても美しいと申しますが参りましたな、と呟いている。</p><p><br></p><p>「あの方は未だ誰の味方でもないというだけでございますよ、殿下。案ずることはない」</p><p><br></p><p>　飄然としたその態度に、オフィーリアは苛立った。現教皇が聖座に就く際に、その手腕で後見人の地位を獲得したという聖職貴族のこの男を、どこまで信用すべきなのか。図りかねる。オフィーリアは為損ねるわけにはいかないのだ──あのひとの復讐を果たさねばならない。絶対に成し遂げなければならない。だというのに。</p><p><br></p><p>「先の愚図たちといい、あなたといい、何なの……！」</p><p><br></p><p>　叫喚こそ堪えたが、オフィーリアの咽喉は震えた。扇を持つ指先にきりきりと力が入る。</p><p>　ジュードはいかにも人の好い笑みをはくと、落ち着きなさいませ、と部屋に唯一置いてある豪奢な椅子をオフィーリアに勧めた。使用人部屋に似つかわしくないそれは、オフィーリアのために用意された、深い光沢を持ち滑らかな手触りの天鵞絨が座面と背凭れに縫い張りされ、煌びやかな宝飾も施された、まさに王族のための一脚だった。</p><p>　それでも憤懣遣る方ないオフィーリアに、さあ殿下、とジュードは傅いてさらに促す。オフィーリアは細い眉間に皺を寄せると、黒のドレスを捌いてその椅子に腰を下ろした。</p><p>　傍らに跪いたジュードが許しを請うので、しばらく沈黙した後、辛辣な表情でそれだけは受け容れる。</p><p><br></p><p>「お優しい殿下が焦燥を感じられるのも仕方ないこととは思いますが、急いては為損じるだけ」</p><p><br></p><p>　皺一つない自慢の手を恭しく掲げ、その甲に口づけたジュードは、鋭利さを潜ませた声色でそう言った。</p><p><br></p><p>「心優しい者にチェスはできない」</p><p>「……わたくしにチェスの心得などあるわけがありませんわ」</p><p>「無論、殿下は貴婦人の鏡でいらっしゃいますからな。俗諺ですよ」</p><p><br></p><p>　ジュードは立ち上がると、神々の遊技に犠牲は付きもの、と零す。それも将棋《チェス》の至言なのだろうが、オフィーリアには理解のしようがない。オフィーリアがむくれて黙り込むと、ジュードはふと笑い、壁と同化せんというさまで控えるしもべを横目で見た。だがすぐに、気疲れされたのだろうから今日はお帰りになって休まれるといい、と再びオフィーリアに向き直る。殿下には手狭な屋敷で恐縮ですがね、モノクルの奥の眸が細められる。</p><p><br></p><p>「神が全てを見ておられるのなら、最後には正しい側が勝つ。好いようになりましょう」</p><p><br></p><p>　先般逃げ戻ってきたあの者たちも仕留め損ねたとはいえ、愉快なことを申しておりましたから、ジュードはオフィーリアの手を掬い優雅に立ち上がらせると、舞踏会の広間へ誘い出すかのように部屋の外へと導いてゆく。接見室に繋がる扉とは違う場所から長廊下へと一歩を踏み出せば、やはり赫赫と、掛け角灯の内でいくつもの火が揺れていた。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】13. 土に還らぬ灰が笑えば]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/12543185/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/12543185</id><summary><![CDATA[「……暑い」「もうわかったから」　一体何度目になるかわからないマリアベルの嘆息に、ウィリアムは苦笑をはいた。涼しいところで休憩しようかと言われ、眉間に皺を寄せていたマリアベルは、深く差した日傘の内で力なく頷いた。辛うじて、疲れたとは口にしていなかったが、はっきり言ってこの外気温での行動は苦行だった。身体がクロンクビストの暑さに慣れてくれないのだから仕方がない、と内心で自己弁護をする。自分がひたすら引き籠もり生活を送っていることは、棚に上げておいた。　クロンクビストが王都、エイジェルステット。　二区レンネゴードに立地する市庁舎、その眼前にある、ほとんど正方形に成形されたスヴェル広場を横切り、ウィリアムは歩き慣れた様子で、目抜き通りへと進んでゆく。ふと、マリアベルが視線を落とせば、通りの入口のためか、石畳に『ヴァリ』と銘が刻まれていた。マリアベルは日傘を傾けると、普段の美しい黄金の艶など見る影もない、ただの黒髪を風に流してゆくウィリアムの背中を追った。　全く、とマリアベルは独りごちる。ウィリアムの気晴らしに付き合っているはずが、気温の上昇とともに黙り込んでゆくおのれの方が、余程ウィリアムに気遣われている。何をしに来たのだかと自身に呆れるばかりだが、それでも彼は、マリアベルの不満にも嫌な表情一つしなかった。苦笑だけで文句をあしらい、颯爽としているその立ち振る舞いこそが、ウィリアムの素顔なのかもしれない。──本来は穏やかな気性だと、レックスも言っていたではないか。　暑さで鈍る思考でそんなことを考えていると、往来のざわめきの途中で、不意にウィリアムが振り返った。夏の空を映したきれいな碧眼が、マリアベルを捉える。その眸を見返して、正体が露見すると大事になるからと、すっかり黒染めした金髪を惜しいなとマリアベルは思った。建ち並ぶ商業施設、意匠を凝らした看板、街灯、色鮮やかに踊る貴婦人の日傘、行き交う人波の向こうに開けた青空と積雲に、彼の、眩い金髪ときれいな碧眼は、よく映えただろうから。　──きれいだと、想う。　普段対峙するあの昏い瞳ではなく、大空の下でほんの少しだけ、ひとときの自由を取り戻した、ただの『ウィリアム』であるこの双眸は。「ベル？」　大丈夫かと訊ねられ、マリアベルは小さく失笑した。ウィリアムが目を瞬く。「何でもないわ」　天然氷がグラスの中で涼やかな音を立てる。年中、国のどこかしらに氷雪のあるミルヴェーデンとは異なり、クロンクビストでは、冬季の間に切り出した氷を地下や洞窟などの氷室で融けないように保管して夏季を過ごすらしい。言っておくけれど高級品だから、とウィリアムに笑われながら、マリアベルは供された飲料に手を付けた。炭酸水に、皮ごと刻んだレユイと花蜜、少しの岩塩等を混ぜたものである。レスカというらしい。一口含めば、咽喉の奥で甘酸っぱさがしゅわっと刺激的に弾けた。「美味しい？」　日頃の装った無邪気さではなく、本当に少年のようなふうで、ウィリアムは悪戯っぽく訊いてくる。マリアベルが、炭酸水の名残で痺れる咽喉に手を遣ったからかもしれない。奢ってもらっておきながら不味いと返すほど性根は腐っていないつもりのマリアベルは、すっきりするわね、と答えた。紅茶の方が好きだけれども。でも、夏の炭酸水とレユイの組み合わせは、確かに爽快ではある。　ウィリアムの方はといえば、温かいゾエの紅茶に、レユイの砂糖漬けだった。──そういえば、最初にラドフォードの屋敷で彼と相対したとき、執事が用意した紅茶もゾエだったと、マリアベルは朧気に思い出す。ゾエに特徴的な花の匂いが柔らかく薫る。ウィリアムがカップの持ち手に指を掛けるのを眺め、マリアベルはそれから、街並みの方へと視線を向けた。　熱を孕み、祖国の夏より少し湿り気を帯びた風が、汗ばんだ首筋をふっと擽ってゆく。　離れたところから風に乗ってやって来る、賑やかな喧噪に耳を澄まして、マリアベルは白緑の眸を細めた。　勝手知ったるふうで、ウィリアムが迷いなくマリアベルを案内したのは、目抜き通りを横道に逸れ、やや入り組んだ小路にある高級茶寮の一つだった。何度か来たことがあるらしく、主人とも給仕とも顔見知りで、本来であれば付添人が取り次ぐだろうところを──とはいっても、今日は、表面上は、侍従の一人もいないのだが──ウィリアム自ら声を掛け、日陰で風通しのよいテラス席にマリアベルを座らせた。レスカを注文したのも彼である。昔は僕もよく飲んだんだよ、と言って、ウィリアムは笑った。　──供を付けず、貴族の放蕩な次男坊のような体で、侯爵家へ迎えに来たウィリアムを見たときの、レックスの呆れた顔が甦った。　あれは随分とやらかしてきた前科のある反応だったなと、マリアベルは思う。　人のことは言えないが。　目端に映る、ウィリアムの扮装は大したことがない。金髪を黒に染めたせいで、普段よりさらに全身が黒ずくめなだけだ。装飾のない絹の黒シャツ、同色のジレにズボンという恰好である。僕の姿を知っている者はみな、『金髪碧眼』という派手な見目でこちらのことを憶えているから、案外気づかれないんだ──というのが、ウィリアムの言い分だった。それに、堂々としていれば、人は却って見過ごすものさ、と。　そんなものなのかもしれない。実際、王城の敷地に隣接する一区ヒュランデル、多くの貴族が邸宅を構える三区セーデンと四区リンデル、それらに囲まれる形で位置する王都中央部の二区レンネゴードは、国民のための行政機関や商業施設が軒を連ね、大貴族から中産階級、労働者まで、とにかく雑踏が忙しないのだが、スヴェル広場や目抜き通りを歩いても、ウィリアムが衆目を集めることはなかった。王の尊顔を直接拝せる立場など存在が限られているので、人通りが多ければなおのこと見逸れるのだろう。暑中の街歩きによるマリアベルの不満など百も承知で、貴族を気取って仰々しくあちこちに馬車で乗り付けなかったことも、ウィリアムにとっては、木を隠すなら森の中、という理由なのかもしれなかった。　茶寮のある小路の人波は緩やかだ。街路に面した席であっても、屋根が深めに設営されているため、早々目立つ気配もなかった。　頬杖をついたウィリアムは、何を話すこともなく、往来の人々を見ている。　氷が解けて、カランと歌った。　グラスの結露を指先で拭い、楽しそうで何よりだわ、とマリアベルは呟く。その声に、ウィリアムは眼差しを動かすと、汗の一滴も滲む様子のない玲瓏とした面持ちに、微苦笑を浮かべた。「……ベルには暑い中付き合わせて悪かったと思っているよ」「今のは厭味じゃないわよ、ウィリアム。本音」　暑いのは嫌だけれどわたしも楽しいもの、と、マリアベルはレスカを飲む。　居候している侯爵家の屋敷がある三区は、壮観だが退屈な大邸宅ばかりであるし、週に一度、国立図書館へ向かう道すがらに馬車窓から眺める一区は、何世紀も徹底して保全されている権威主義的な歴史的建造物が所狭しと凄んでいる。それらと比較して、二区は洒落っ気があり、鷹揚として、小気味よい。王の膝許であるヒュランデルや高級住宅街のセーデンほどの整然さには欠けるものの、新興の中産階級が設計したらしい施設の外観は目新しいし、路上で気鋭の画家たちが素描しているのを眺めるのも、流行の先端をゆく客たちが踊るように買い物をしている横を通り過ぎるのも、生き生きとして、華やかで好い。──白銀と沈黙こそが街の全てであった、ミルヴェーデンの首都サンダールとは、全く異なる『人の都』だ。　レスカの咽喉を突く感覚にやはり首許を抑えながらマリアベルが感想を洩らせば、ウィリアムは一瞬きょとんとした表情をした後、面映ゆそうに破顔した。「……そう」　よかった、と。　彼は静かに息を吐く。「この茶寮にはよく来たの？」「昔ね。ここは各地の茶葉の仕入れもしているから、時々家を抜け出して買いに来た。……姉が、紅茶好きだったから、喜んでもらいたくて」　返事の後半は、話すことを少し躊躇うような調子だった。茶器を手のひらで包《くる》み、金の睫毛を伏せたウィリアムは、落とすように微笑する。家の者を使えばよかったし、そもそも行商を呼べば事足りたような買い物だったのだけれど、末っ子の僕は兄弟姉妹《きょうだい》の中で唯一気儘な子どもで、一方で、姉は特殊な環境にいて、自由のないひとだったから、この街の空気も一緒に彼女にあげたかったんだよね、と。　きっと、彼女にとっては、何の価値もないことだったのだろうけれど。　やめられなかったのだと、ウィリアムは吐息の隙間でわらった。「莫迦だなあと思うよ。……僕ではだめだと、わかっていたのだけどね」　記憶の引き出しを開け、マリアベルにだけ、遠い日の思い出の欠片をひっそりと見せてくれたウィリアムは、最後には洒脱に肩を竦めて、皮肉るように口角を歪めた。その仕草は、幼い頃の悲しみの影を押し隠すみたいに、マリアベルには見えた。そうして、図書館で会うときのウィリアムの高慢は、おのれを監視する誰に見られるかもわからない場所ゆえの仮面なのかもしれないと、何となく思う。　明るくて、優しくて、素直な『ウィリアム』。　それは今日が、彼にとっての非日常だから覗いているものに過ぎず、来週図書館で顔を合わせたなら、きっと『ただのウィリアム』のふりをした『ウィリアム＝メディオフ・オルブライト』に戻ってしまうのだろう。あの、常闇の蔓延った昏い碧眼を嵌めて。　胸の裡でそう悟って、惜しいなと、改めてマリアベルは独白した。　青空の似合う、きれいな眸なのに、と。　太陽が真南を過ぎ、ある程度気温が落ち着くまで、ふたりでその茶寮にいた。　特段、何かについて話し込んだわけではなかった。路《みち》をゆく人々を眺めながら、図書館で話すような中身のないことを言い合ったり、普段なら口にしない思い出話を少しだけしたりして、けれどほとんどの時間は、心地好いざわめきと風の音、ふたりの間に降り積もる静寂に耳を澄まして、一刻半くらい安閑と過ごしていただけだった。　マリアベルがひそかに悪戦苦闘していたレスカの炭酸が抜けてしまう頃、揃って茶寮を出た。──なお、飲めないものをウィリアムが無理に勧めることはなく、もとよりマリアベルの最初の反応を面白がっていただけのようで、早々に冷やした紅茶を提供してくれたため、涼と休憩は十分に取れた。とはいえ、半分くらいは残してしまったレスカは勿体なかったし、茶寮の主人にも申し訳なかったと、マリアベルはこっそり溜息を吐く。機会があるのなら、次は飲みきれたらいいなと考えつつ。　ウィリアムは、目抜き通りへは戻らず、小路の奥へと歩いていった。王都の地理が把握できていないので定かではないが、恐らく一区方面へと進んでいる。街並みは、徐に、市庁舎やスヴェル広場周辺とは異なる風景へ切り替わってゆく。旧市街なのかもしれない、バーントシェンナの煉瓦で構築された家々は童話的で、これまでの区画とは、また情緒が異なっている。二区は本当に多彩な表情のあるところだ。マリアベルは背後へ日傘を反らすと、出窓から蔓を伸ばして、壁沿いに溢れている紅紫の花を見上げた。薄い花弁を透かして、刻々と黄昏に色を変えてゆく光が降っている。　後れ毛を攫う風も、気がつけば、微かにぬるくなってきていた。　最早どこを歩いているのか、マリアベルにはさっぱりわからなくなっていたが、路地裏の、花で装飾された拱門をくぐって階段を降りたところで、ウィリアムは立ち止まった。振り向いた彼に、ベル、と呼び掛けられて、マリアベルは小首を傾げる。「ここで少し待っていてくれる？」　マリアベルが返答する前に、ウィリアムはどこかへ身を翻した。　何だろうと思いながら、マリアベルは、とりあえず言われた通りにその場で待つことにした。大気中には熱気こそ未だに残っているが、体感としては大分呼吸がし易くなったような感じがする。風に煽られて、紅紫の花びらがいくつか舞い上がった。それに誘われてマリアベルがふっと視線を上げると、小路の出口だったらしく、開けた空間が一面見渡せた。目前には、油絵具で厚く塗りたくった夏の青さが剥がれ墜ちた空が広がっている。淡い紫と、一部では燃えるような緋《あか》が滲み出し、色彩が入り混じりながら棚引いていた。　そして、不穏な気配に染まる天空の真下には、中規模の聖堂が一堂、佇んでいる。　適当に目測してもスヴェル広場ほどではない、せいぜい、近隣住民が集会できる程度の聖堂前広場に、尖塔の黒い陰が延びている。マリアベルは拱門の壁際ぎりぎりまで下がり、日傘を深く差し直しておのれの顔が見えないようにすると、気配を潜めた。──聖堂の入口付近で、一人──否、二人、影が蠢いている。　──クロンクビスト現王は、『教会』及び教皇庁から離反し、政教の分離こそ宣言したが、国民に開かれた聖堂を鎖すことや、彼らが信仰することまでもを禁じたわけではないのは、公然たる事実だ。また、そのような判断に至った前教皇の腐敗という経緯を鑑み、理解ある支持者が少なくはないことを、各国を渡り歩いたマリアベルは知っている。　けれども決して、多いわけではないのだ。　特にクロンクビスト国内においては、各教区に聖職者が配置されなくなったことについて、当の聖職者や、貴族だけではなく、一般国民からの反発も大きいと聞く。即位から八年が経ち、背教者による弾圧だという非難の声こそあまり耳にしなくなったが、実際のところの彼らの心中など推し量れるはずもない。レックスは『反現王派』と呼称していたが──　聖堂近くにいた人影は、長居は無用であるとばかりに、数分のうちにはいなくなった。　マリアベルは眸を眇める。（……ジュードと名乗っていたかしら）　遠目には姿が見えないよう配慮していたのだろうが、聖堂の背後から鋭利に射した西陽が、一瞬、見覚えのあるモノクルを閃かせた。高い頬骨の横顔。肌も褐色であった。対面していた相手の容貌は判別できなかったが、女性のような印象がある。動きに俊敏さがなかったためだ。あれは、ドレスの裾を捌く所作だった。「ベル」　ウィリアムの声がして、マリアベルは顔を上げた。「どうしたの」　そんなに壁際まで下がって、とウィリアムは不思議そうに訊いてくる。日傘を浅い位置へと戻しながら、マリアベルは肩を竦めた。西陽が眩しかったのよと答える。「西陽？」「そう。──それより、どこへ行っていたの？」　待ちくたびれて一人で帰ろうかと思ったわ、素っ気ない物言いを付けると、それは困るなと、ウィリアムは眦を弛めて、微笑んだ。　そうして彼は、多分にそれを買いに行っていたのだろう、綺麗な包装のなされた縦長の小箱を差し出してきた。箱の真ん中で花結びされた、真白いレースのリボンが可愛らしい。マリアベルは目を瞬かせる。どうぞ、と、ウィリアムに品善く紳士然と贈られて、その遣り取りがあまりに普段のふたりと掛け離れたものだったせいで、少し、ほんの少しだけだけれども、らしくもなく緊張した。一度は躊躇した指先が、ゆっくりと小箱に触れる。「暑い中一日付き合ってもらったお礼と……お詫び」　自然な挙措でマリアベルの日傘を取って、それをこちらへと傾けながら、ウィリアムは開けるよう勧めてくる。マリアベルは箱に手を添えた。リボンは蓋箱の側にのみ付いていて、簡単に持ち上げられる。　中に入っていたのは、栞だった。　普通の一枚紙の栞ではなく、極限まで薄く平らに伸ばした、ステンドグラスの栞だ。細長く切り刻んだ緩衝材を下敷きに、壊れぬように仕舞われている。──栞だと気づけたのは、見慣れた形状と、上部一箇所に小さな丸穴が開けられていて、そこにやはり、真白いレースのリボンが結われていたからだった。　栞には、簡略化された青いレーアテルエが描かれている。澄んだ青は、光に翳せば、さぞ美しいだろうと思われた。　手のひらできらめく美妙で繊細な一輪を、マリアベルは、凝然と見つめた。「実用的ではないだろうけど、これならベルも気に入るかなって」「……ありがとう」　他に、巧い言葉を見つけられなかった。　今日の、今までの時間が、ひどく優しく脳裏を過ぎった。　街歩きでの気遣いや、振る舞われたレスカ、茶寮で零れ落ちた彼の昔日に、通り過ぎてゆく名も知らぬ人たちを眺めた柔らかなひととき、それから、この栞。他人に対して、丁寧に心を砕くことのできるウィリアムの為人を、どう言い表せばいいのか、マリアベルにはわからなかった。クロンクビストに来てから初めて、──ウィリアムに直接出逢ってから初めて、心臓が締めつけられるような痛みを憶えた。あぁ、と込み上げてきた嘆息を嚥下する。　──だから天使はここを指差したのだわ。　脳裏を去りゆく一日の出来事の終わり、追憶の中で、青と翡翠《みどり》が滲んでゆく。「……お詫び、って」　いつもなら何も考えずに口を衝く、斜に構えた一言も思いつかずに、マリアベルは緩慢に唇を触れ合わせた。こんな殊勝に謝られるようなことなどあったかしらと思う。　ウィリアムは、マリアベルを正面から見つめ返して、ややあって、眸を俯せた。　落とすように微笑む。「最初に会った日に礼を失した態度だったから、そのお詫び」　別に、君自身に腹を立てていたわけではなかったのだけど。　そう囁く声は静かだった。けれど、美しいものを拒絶するみたいな塗り潰された黒髪の下で、金の睫毛がごく微かに震えていた。一瞬の沈黙を挟み、僕はと、ウィリアムは抑揚を消して、呟く。「……銀色は嫌いなんだ。孤独なひとを思い出すから」　でもベルには何も関係がなかったよね、と言うので、マリアベルは、そうねと相槌を打った。それ以上の言葉は果たして何も思いつかなくて、日頃の悪態も儘ならず、小さな歯痒さだけが残滓になった。──与えられた名の通りの人間として生きることができたなら、どれほど善かっただろうかと、マリアベルは想う。　理想とする自分になるのは、とても難しい。人は、蛹から蝶へと華麗に生まれ変われる生き物ではない。（それでも）　募る感情に、ふと瞑目し、ゆるりとマリアベルは首を擡げた。ウィリアムを見る。栞を胸に抱き留めて、微笑んだ。「いいの。今日はわたしも楽しかった。誘ってくれてありがとう、ウィリアム」　日傘が空へと舞い上がったのは、一瞬の出来事だった。　帰ろうか、屋敷まで送るよ、と。ふたりで迎えの馬車が来る場所へ行く途中だった。不意を衝き、突き飛ばされたマリアベルは、事態の把握もできないまま無様に転倒する。石畳に頬を擦った。腕や脚を打撲した感覚。ベル、と叫ぶウィリアムの声が聞こえたかと思うと、複数人の跫音がけたたましく地面を叩く。騒然とする中で身体を起こして振り向くと、朝から密かに追従してきた近衛騎士の背に庇われたウィリアムと視線がぶつかった。引き離されている。瞠目した碧眼、青褪めた貌、それから彼の整ったままの身形を咄嗟に観察したマリアベルは、この強襲にウィリアムが一撃もされていないことに、無意識に震えた息を吐いた。　ウィリアムと彼の近衛──『オーウェン』を取り囲むように、十人──十一人、否、十二人の人間がいた。各々武器を持っているが、男女の区別は付かない。何せ、如何にも不届き者のお誂え向きに、文献でしか見たことがないような、古臭い意匠の異端審問官の頭巾を全員被っているからだ。抗議──というより、恫喝、或いは、背教者の狩りといったところだろう。剣を向ける『オーウェン』に護衛されている人物が誰であるのか、わかっているのは明白だった。　王のこの近衛の実力がどれほどのものかは知らないが、人数差を考えると恐らく分が悪いとマリアベルは判断した。「オーウェン──」　ウィリアムが近衛に向かって激しい言葉を投げつけるのを聞き流し、マリアベルは『オーウェン』を見た。近衛の瞳は平静だったが、マリアベルをどうするか決めあぐねているようだった。異端審問気取りの逆賊たちが距離を詰め、襲い掛かろうとする気配を見て取るや否や、マリアベルは考えるより先に大喝する。「──『『オーウェン』あなた、自分の仕事を履き違えるんじゃないわよ！』」　人は、緊急時ほど話し慣れた言語の方が口を衝くものだ。　後から振り返ると冷静にそう思うのだが、このときは気づかずに声に出していた。『オーウェン』がミルヴェーデン語を理解したのかどうかは知らない。だが彼は瞬時に身体の向きを変え、失礼をと言いながら、ウィリアムの首筋を強打する。近衛の手は的確に入ったのだろう、糸が切れた人形のようにウィリアムが体勢を崩すと、『オーウェン』は片腕であるじの身体を担ぎ上げた。──と、丁度具合よく、黒塗りのキャリッジが主従の近くで音を立てて停まり、『オーウェン』は道を塞ぐ逆賊の二人を容赦なく斬り捨てると、扉が開かれた馬車に飛び乗った。　扉が閉まる間際、一瞬、視線が捷ち合う。　マリアベルをその場に置いたまま、馬車は走り去る。生きている十人の内の何人かが追い掛けようとしたが、首領と思しき人間が止めたので、逆賊は全員その場に残った。マリアベルがようやく立ち上がるのと同時、彼らが振り返ってマリアベルを睨む。　──恐らく頬は血が滲んでいるし、手脚には青痣ができただろう。骨が折れた様子はないと思う。日傘は骨が折れたかもしれないと独りごち。「……どこの子犬か知らないけれど」　足許に、ウィリアムが贈ってくれた小箱が落ちている。形が少し拉げていた。中の栞は硝子製だから割れていないといいなと、埒もないことを考える。折角楽しい一日だったのに台無しだわ、そう残念がる自分がいる一方で、別のおのれが、冷ややかに牙を剥く。「大人しくおうちへ帰って、飼い主に伝えなさい」　転倒の拍子に崩れた銀灰の髪が、夜の匂いを連れた風に靡いてゆく。　夏なのに雪が降っている、とマリアベルは思った。音がしない。頭巾の人間たちの表情は窺えないが、しかし大したことはない。数匹の子犬如きが、わたしのこの喉笛へ、武器を向けられるはずがないのだから。静かだ。キンと凍んでゆく。──雪が降っている。　マリアベルはうつくしく、嗤笑した。「おまえたちにやる首などないわ。『王』を斃すのは、この私よ」]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-12-29T11:33:34+00:00</published><updated>2020-12-29T11:37:46+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>「……暑い」</p><p>「もうわかったから」</p><p><br></p><p>　一体何度目になるかわからないマリアベルの嘆息に、ウィリアムは苦笑をはいた。涼しいところで休憩しようかと言われ、眉間に皺を寄せていたマリアベルは、深く差した日傘の内で力なく頷いた。辛うじて、疲れたとは口にしていなかったが、はっきり言ってこの外気温での行動は苦行だった。身体がクロンクビストの暑さに慣れてくれないのだから仕方がない、と内心で自己弁護をする。自分がひたすら引き籠もり生活を送っていることは、棚に上げておいた。</p><p>　クロンクビストが王都、エイジェルステット。</p><p>　二区レンネゴードに立地する市庁舎、その眼前にある、ほとんど正方形に成形されたスヴェル広場を横切り、ウィリアムは歩き慣れた様子で、目抜き通りへと進んでゆく。ふと、マリアベルが視線を落とせば、通りの入口のためか、石畳に『ヴァリ』と銘が刻まれていた。マリアベルは日傘を傾けると、普段の美しい黄金の艶など見る影もない、ただの黒髪を風に流してゆくウィリアムの背中を追った。</p><p>　全く、とマリアベルは独りごちる。ウィリアムの気晴らしに付き合っているはずが、気温の上昇とともに黙り込んでゆくおのれの方が、余程ウィリアムに気遣われている。何をしに来たのだかと自身に呆れるばかりだが、それでも彼は、マリアベルの不満にも嫌な表情一つしなかった。苦笑だけで文句をあしらい、颯爽としているその立ち振る舞いこそが、ウィリアムの素顔なのかもしれない。──本来は穏やかな気性だと、レックスも言っていたではないか。</p><p>　暑さで鈍る思考でそんなことを考えていると、往来のざわめきの途中で、不意にウィリアムが振り返った。夏の空を映したきれいな碧眼が、マリアベルを捉える。その眸を見返して、正体が露見すると大事になるからと、すっかり黒染めした金髪を惜しいなとマリアベルは思った。建ち並ぶ商業施設、意匠を凝らした看板、街灯、色鮮やかに踊る貴婦人の日傘、行き交う人波の向こうに開けた青空と積雲に、彼の、眩い金髪ときれいな碧眼は、よく映えただろうから。</p><p>　──きれいだと、想う。</p><p>　普段対峙するあの昏い瞳ではなく、大空の下でほんの少しだけ、ひとときの自由を取り戻した、ただの『ウィリアム』であるこの双眸は。</p><p><br></p><p>「ベル？」</p><p><br></p><p>　大丈夫かと訊ねられ、マリアベルは小さく失笑した。ウィリアムが目を瞬く。</p><p><br></p><p>「何でもないわ」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　天然氷がグラスの中で涼やかな音を立てる。年中、国のどこかしらに氷雪のあるミルヴェーデンとは異なり、クロンクビストでは、冬季の間に切り出した氷を地下や洞窟などの氷室で融けないように保管して夏季を過ごすらしい。言っておくけれど高級品だから、とウィリアムに笑われながら、マリアベルは供された飲料に手を付けた。炭酸水に、皮ごと刻んだレユイと花蜜、少しの岩塩等を混ぜたものである。レスカというらしい。一口含めば、咽喉の奥で甘酸っぱさがしゅわっと刺激的に弾けた。</p><p><br></p><p>「美味しい？」</p><p><br></p><p>　日頃の装った無邪気さではなく、本当に少年のようなふうで、ウィリアムは悪戯っぽく訊いてくる。マリアベルが、炭酸水の名残で痺れる咽喉に手を遣ったからかもしれない。奢ってもらっておきながら不味いと返すほど性根は腐っていないつもりのマリアベルは、すっきりするわね、と答えた。紅茶の方が好きだけれども。でも、夏の炭酸水とレユイの組み合わせは、確かに爽快ではある。</p><p>　ウィリアムの方はといえば、温かいゾエの紅茶に、レユイの砂糖漬けだった。──そういえば、最初にラドフォードの屋敷で彼と相対したとき、執事が用意した紅茶もゾエだったと、マリアベルは朧気に思い出す。ゾエに特徴的な花の匂いが柔らかく薫る。ウィリアムがカップの持ち手に指を掛けるのを眺め、マリアベルはそれから、街並みの方へと視線を向けた。</p><p>　熱を孕み、祖国の夏より少し湿り気を帯びた風が、汗ばんだ首筋をふっと擽ってゆく。</p><p>　離れたところから風に乗ってやって来る、賑やかな喧噪に耳を澄まして、マリアベルは白緑の眸を細めた。</p><p>　勝手知ったるふうで、ウィリアムが迷いなくマリアベルを案内したのは、目抜き通りを横道に逸れ、やや入り組んだ小路にある高級茶寮の一つだった。何度か来たことがあるらしく、主人とも給仕とも顔見知りで、本来であれば付添人が取り次ぐだろうところを──とはいっても、今日は、表面上は、侍従の一人もいないのだが──ウィリアム自ら声を掛け、日陰で風通しのよいテラス席にマリアベルを座らせた。レスカを注文したのも彼である。昔は僕もよく飲んだんだよ、と言って、ウィリアムは笑った。</p><p>　──供を付けず、貴族の放蕩な次男坊のような体で、侯爵家へ迎えに来たウィリアムを見たときの、レックスの呆れた顔が甦った。</p><p>　あれは随分とやらかしてきた前科のある反応だったなと、マリアベルは思う。</p><p>　人のことは言えないが。</p><p>　目端に映る、ウィリアムの扮装は大したことがない。金髪を黒に染めたせいで、普段よりさらに全身が黒ずくめなだけだ。装飾のない絹の黒シャツ、同色のジレにズボンという恰好である。僕の姿を知っている者はみな、『金髪碧眼』という派手な見目でこちらのことを憶えているから、案外気づかれないんだ──というのが、ウィリアムの言い分だった。それに、堂々としていれば、人は却って見過ごすものさ、と。</p><p>　そんなものなのかもしれない。実際、王城の敷地に隣接する一区ヒュランデル、多くの貴族が邸宅を構える三区セーデンと四区リンデル、それらに囲まれる形で位置する王都中央部の二区レンネゴードは、国民のための行政機関や商業施設が軒を連ね、大貴族から中産階級、労働者まで、とにかく雑踏が忙しないのだが、スヴェル広場や目抜き通りを歩いても、ウィリアムが衆目を集めることはなかった。王の尊顔を直接拝せる立場など存在が限られているので、人通りが多ければなおのこと見逸れるのだろう。暑中の街歩きによるマリアベルの不満など百も承知で、貴族を気取って仰々しくあちこちに馬車で乗り付けなかったことも、ウィリアムにとっては、木を隠すなら森の中、という理由なのかもしれなかった。</p><p>　茶寮のある小路の人波は緩やかだ。街路に面した席であっても、屋根が深めに設営されているため、早々目立つ気配もなかった。</p><p>　頬杖をついたウィリアムは、何を話すこともなく、往来の人々を見ている。</p><p>　氷が解けて、カランと歌った。</p><p>　グラスの結露を指先で拭い、楽しそうで何よりだわ、とマリアベルは呟く。その声に、ウィリアムは眼差しを動かすと、汗の一滴も滲む様子のない玲瓏とした面持ちに、微苦笑を浮かべた。</p><p><br></p><p>「……ベルには暑い中付き合わせて悪かったと思っているよ」</p><p>「今のは厭味じゃないわよ、ウィリアム。本音」</p><p><br></p><p>　暑いのは嫌だけれどわたしも楽しいもの、と、マリアベルはレスカを飲む。</p><p>　居候している侯爵家の屋敷がある三区は、壮観だが退屈な大邸宅ばかりであるし、週に一度、国立図書館へ向かう道すがらに馬車窓から眺める一区は、何世紀も徹底して保全されている権威主義的な歴史的建造物が所狭しと凄んでいる。それらと比較して、二区は洒落っ気があり、鷹揚として、小気味よい。王の膝許であるヒュランデルや高級住宅街のセーデンほどの整然さには欠けるものの、新興の中産階級が設計したらしい施設の外観は目新しいし、路上で気鋭の画家たちが素描しているのを眺めるのも、流行の先端をゆく客たちが踊るように買い物をしている横を通り過ぎるのも、生き生きとして、華やかで好い。──白銀と沈黙こそが街の全てであった、ミルヴェーデンの首都サンダールとは、全く異なる『人の都』だ。</p><p>　レスカの咽喉を突く感覚にやはり首許を抑えながらマリアベルが感想を洩らせば、ウィリアムは一瞬きょとんとした表情をした後、面映ゆそうに破顔した。</p><p><br></p><p>「……そう」</p><p><br></p><p>　よかった、と。</p><p>　彼は静かに息を吐く。<br></p><p><br></p><p>「この茶寮にはよく来たの？」</p><p>「昔ね。ここは各地の茶葉の仕入れもしているから、時々家を抜け出して買いに来た。……姉が、紅茶好きだったから、喜んでもらいたくて」</p><p><br></p><p>　返事の後半は、話すことを少し躊躇うような調子だった。茶器を手のひらで包《くる》み、金の睫毛を伏せたウィリアムは、落とすように微笑する。家の者を使えばよかったし、そもそも行商を呼べば事足りたような買い物だったのだけれど、末っ子の僕は兄弟姉妹《きょうだい》の中で唯一気儘な子どもで、一方で、姉は特殊な環境にいて、自由のないひとだったから、この街の空気も一緒に彼女にあげたかったんだよね、と。</p><p>　きっと、彼女にとっては、何の価値もないことだったのだろうけれど。</p><p>　やめられなかったのだと、ウィリアムは吐息の隙間でわらった。</p><p><br></p><p>「莫迦だなあと思うよ。……僕ではだめだと、わかっていたのだけどね」</p><p><br></p><p>　記憶の引き出しを開け、マリアベルにだけ、遠い日の思い出の欠片をひっそりと見せてくれたウィリアムは、最後には洒脱に肩を竦めて、皮肉るように口角を歪めた。その仕草は、幼い頃の悲しみの影を押し隠すみたいに、マリアベルには見えた。そうして、図書館で会うときのウィリアムの高慢は、おのれを監視する誰に見られるかもわからない場所ゆえの仮面なのかもしれないと、何となく思う。</p><p>　明るくて、優しくて、素直な『ウィリアム』。</p><p>　それは今日が、彼にとっての非日常だから覗いているものに過ぎず、来週図書館で顔を合わせたなら、きっと『ただのウィリアム』のふりをした『ウィリアム＝メディオフ・オルブライト』に戻ってしまうのだろう。あの、常闇の蔓延った昏い碧眼を嵌めて。</p><p>　胸の裡でそう悟って、惜しいなと、改めてマリアベルは独白した。</p><p>　青空の似合う、きれいな眸なのに、と。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　太陽が真南を過ぎ、ある程度気温が落ち着くまで、ふたりでその茶寮にいた。</p><p>　特段、何かについて話し込んだわけではなかった。路《みち》をゆく人々を眺めながら、図書館で話すような中身のないことを言い合ったり、普段なら口にしない思い出話を少しだけしたりして、けれどほとんどの時間は、心地好いざわめきと風の音、ふたりの間に降り積もる静寂に耳を澄まして、一刻半くらい安閑と過ごしていただけだった。</p><p>　マリアベルがひそかに悪戦苦闘していたレスカの炭酸が抜けてしまう頃、揃って茶寮を出た。──なお、飲めないものをウィリアムが無理に勧めることはなく、もとよりマリアベルの最初の反応を面白がっていただけのようで、早々に冷やした紅茶を提供してくれたため、涼と休憩は十分に取れた。とはいえ、半分くらいは残してしまったレスカは勿体なかったし、茶寮の主人にも申し訳なかったと、マリアベルはこっそり溜息を吐く。機会があるのなら、次は飲みきれたらいいなと考えつつ。</p><p>　ウィリアムは、目抜き通りへは戻らず、小路の奥へと歩いていった。王都の地理が把握できていないので定かではないが、恐らく一区方面へと進んでいる。街並みは、徐に、市庁舎やスヴェル広場周辺とは異なる風景へ切り替わってゆく。旧市街なのかもしれない、バーントシェンナの煉瓦で構築された家々は童話的で、これまでの区画とは、また情緒が異なっている。二区は本当に多彩な表情のあるところだ。マリアベルは背後へ日傘を反らすと、出窓から蔓を伸ばして、壁沿いに溢れている紅紫の花を見上げた。薄い花弁を透かして、刻々と黄昏に色を変えてゆく光が降っている。</p><p>　後れ毛を攫う風も、気がつけば、微かにぬるくなってきていた。</p><p>　最早どこを歩いているのか、マリアベルにはさっぱりわからなくなっていたが、路地裏の、花で装飾された拱門をくぐって階段を降りたところで、ウィリアムは立ち止まった。振り向いた彼に、ベル、と呼び掛けられて、マリアベルは小首を傾げる。</p><p><br></p><p>「ここで少し待っていてくれる？」</p><p><br></p><p>　マリアベルが返答する前に、ウィリアムはどこかへ身を翻した。</p><p>　何だろうと思いながら、マリアベルは、とりあえず言われた通りにその場で待つことにした。大気中には熱気こそ未だに残っているが、体感としては大分呼吸がし易くなったような感じがする。風に煽られて、紅紫の花びらがいくつか舞い上がった。それに誘われてマリアベルがふっと視線を上げると、小路の出口だったらしく、開けた空間が一面見渡せた。目前には、油絵具で厚く塗りたくった夏の青さが剥がれ墜ちた空が広がっている。淡い紫と、一部では燃えるような緋《あか》が滲み出し、色彩が入り混じりながら棚引いていた。</p><p>　そして、不穏な気配に染まる天空の真下には、中規模の聖堂が一堂、佇んでいる。</p><p>　適当に目測してもスヴェル広場ほどではない、せいぜい、近隣住民が集会できる程度の聖堂前広場に、尖塔の黒い陰が延びている。マリアベルは拱門の壁際ぎりぎりまで下がり、日傘を深く差し直しておのれの顔が見えないようにすると、気配を潜めた。──聖堂の入口付近で、一人──否、二人、影が蠢いている。</p><p>　──クロンクビスト現王は、『教会』及び教皇庁から離反し、政教の分離こそ宣言したが、国民に開かれた聖堂を鎖すことや、彼らが信仰することまでもを禁じたわけではないのは、公然たる事実だ。また、そのような判断に至った前教皇の腐敗という経緯を鑑み、理解ある支持者が少なくはないことを、各国を渡り歩いたマリアベルは知っている。</p><p>　けれども決して、多いわけではないのだ。</p><p>　特にクロンクビスト国内においては、各教区に聖職者が配置されなくなったことについて、当の聖職者や、貴族だけではなく、一般国民からの反発も大きいと聞く。即位から八年が経ち、背教者による弾圧だという非難の声こそあまり耳にしなくなったが、実際のところの彼らの心中など推し量れるはずもない。レックスは『反現王派』と呼称していたが──</p><p>　聖堂近くにいた人影は、長居は無用であるとばかりに、数分のうちにはいなくなった。</p><p>　マリアベルは眸を眇める。</p><p><br></p><p>（……ジュードと名乗っていたかしら）</p><p><br></p><p>　遠目には姿が見えないよう配慮していたのだろうが、聖堂の背後から鋭利に射した西陽が、一瞬、見覚えのあるモノクルを閃かせた。高い頬骨の横顔。肌も褐色であった。対面していた相手の容貌は判別できなかったが、女性のような印象がある。動きに俊敏さがなかったためだ。あれは、ドレスの裾を捌く所作だった。</p><p><br></p><p>「ベル」</p><p><br></p><p>　ウィリアムの声がして、マリアベルは顔を上げた。</p><p><br></p><p>「どうしたの」</p><p><br></p><p>　そんなに壁際まで下がって、とウィリアムは不思議そうに訊いてくる。日傘を浅い位置へと戻しながら、マリアベルは肩を竦めた。西陽が眩しかったのよと答える。</p><p><br></p><p>「西陽？」</p><p>「そう。──それより、どこへ行っていたの？」</p><p><br></p><p>　待ちくたびれて一人で帰ろうかと思ったわ、素っ気ない物言いを付けると、それは困るなと、ウィリアムは眦を弛めて、微笑んだ。</p><p>　そうして彼は、多分にそれを買いに行っていたのだろう、綺麗な包装のなされた縦長の小箱を差し出してきた。箱の真ん中で花結びされた、真白いレースのリボンが可愛らしい。マリアベルは目を瞬かせる。どうぞ、と、ウィリアムに品善く紳士然と贈られて、その遣り取りがあまりに普段のふたりと掛け離れたものだったせいで、少し、ほんの少しだけだけれども、らしくもなく緊張した。一度は躊躇した指先が、ゆっくりと小箱に触れる。</p><p><br></p><p>「暑い中一日付き合ってもらったお礼と……お詫び」</p><p><br></p><p>　自然な挙措でマリアベルの日傘を取って、それをこちらへと傾けながら、ウィリアムは開けるよう勧めてくる。マリアベルは箱に手を添えた。リボンは蓋箱の側にのみ付いていて、簡単に持ち上げられる。</p><p>　中に入っていたのは、栞だった。</p><p>　普通の一枚紙の栞ではなく、極限まで薄く平らに伸ばした、ステンドグラスの栞だ。細長く切り刻んだ緩衝材を下敷きに、壊れぬように仕舞われている。──栞だと気づけたのは、見慣れた形状と、上部一箇所に小さな丸穴が開けられていて、そこにやはり、真白いレースのリボンが結われていたからだった。</p><p>　栞には、簡略化された青いレーアテルエが描かれている。澄んだ青は、光に翳せば、さぞ美しいだろうと思われた。</p><p>　手のひらできらめく美妙で繊細な一輪を、マリアベルは、凝然と見つめた。</p><p><br></p><p>「実用的ではないだろうけど、これならベルも気に入るかなって」</p><p>「……ありがとう」</p><p><br></p><p>　他に、巧い言葉を見つけられなかった。</p><p>　今日の、今までの時間が、ひどく優しく脳裏を過ぎった。</p><p>　街歩きでの気遣いや、振る舞われたレスカ、茶寮で零れ落ちた彼の昔日に、通り過ぎてゆく名も知らぬ人たちを眺めた柔らかなひととき、それから、この栞。他人に対して、丁寧に心を砕くことのできるウィリアムの為人を、どう言い表せばいいのか、マリアベルにはわからなかった。クロンクビストに来てから初めて、──ウィリアムに直接出逢ってから初めて、心臓が締めつけられるような痛みを憶えた。あぁ、と込み上げてきた嘆息を嚥下する。</p><p>　──だから天使はここを指差したのだわ。</p><p>　脳裏を去りゆく一日の出来事の終わり、追憶の中で、青と翡翠《みどり》が滲んでゆく。</p><p><br></p><p>「……お詫び、って」</p><p><br></p><p>　いつもなら何も考えずに口を衝く、斜に構えた一言も思いつかずに、マリアベルは緩慢に唇を触れ合わせた。こんな殊勝に謝られるようなことなどあったかしらと思う。</p><p>　ウィリアムは、マリアベルを正面から見つめ返して、ややあって、眸を俯せた。</p><p>　落とすように微笑む。</p><p><br></p><p>「最初に会った日に礼を失した態度だったから、そのお詫び」</p><p><br></p><p>　別に、君自身に腹を立てていたわけではなかったのだけど。</p><p>　そう囁く声は静かだった。けれど、美しいものを拒絶するみたいな塗り潰された黒髪の下で、金の睫毛がごく微かに震えていた。一瞬の沈黙を挟み、僕はと、ウィリアムは抑揚を消して、呟く。</p><p><br></p><p>「……銀色は嫌いなんだ。孤独なひとを思い出すから」</p><p><br></p><p>　でもベルには何も関係がなかったよね、と言うので、マリアベルは、そうねと相槌を打った。それ以上の言葉は果たして何も思いつかなくて、日頃の悪態も儘ならず、小さな歯痒さだけが残滓になった。──与えられた名の通りの人間として生きることができたなら、どれほど善かっただろうかと、マリアベルは想う。</p><p>　理想とする自分になるのは、とても難しい。人は、蛹から蝶へと華麗に生まれ変われる生き物ではない。</p><p><br></p><p>（それでも）</p><p><br></p><p>　募る感情に、ふと瞑目し、ゆるりとマリアベルは首を擡げた。ウィリアムを見る。栞を胸に抱き留めて、微笑んだ。</p><p><br></p><p>「いいの。今日はわたしも楽しかった。誘ってくれてありがとう、ウィリアム」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　日傘が空へと舞い上がったのは、一瞬の出来事だった。</p><p>　帰ろうか、屋敷まで送るよ、と。ふたりで迎えの馬車が来る場所へ行く途中だった。不意を衝き、突き飛ばされたマリアベルは、事態の把握もできないまま無様に転倒する。石畳に頬を擦った。腕や脚を打撲した感覚。ベル、と叫ぶウィリアムの声が聞こえたかと思うと、複数人の跫音がけたたましく地面を叩く。騒然とする中で身体を起こして振り向くと、朝から密かに追従してきた近衛騎士の背に庇われたウィリアムと視線がぶつかった。引き離されている。瞠目した碧眼、青褪めた貌、それから彼の整ったままの身形を咄嗟に観察したマリアベルは、この強襲にウィリアムが一撃もされていないことに、無意識に震えた息を吐いた。</p><p>　ウィリアムと彼の近衛──『オーウェン』を取り囲むように、十人──十一人、否、十二人の人間がいた。各々武器を持っているが、男女の区別は付かない。何せ、如何にも不届き者のお誂え向きに、文献でしか見たことがないような、古臭い意匠の異端審問官の頭巾を全員被っているからだ。抗議──というより、恫喝、或いは、背教者の狩りといったところだろう。剣を向ける『オーウェン』に護衛されている人物が誰であるのか、わかっているのは明白だった。</p><p>　王のこの近衛の実力がどれほどのものかは知らないが、人数差を考えると恐らく分が悪いとマリアベルは判断した。</p><p><br></p><p>「オーウェン──」</p><p><br></p><p>　ウィリアムが近衛に向かって激しい言葉を投げつけるのを聞き流し、マリアベルは『オーウェン』を見た。近衛の瞳は平静だったが、マリアベルをどうするか決めあぐねているようだった。異端審問気取りの逆賊たちが距離を詰め、襲い掛かろうとする気配を見て取るや否や、マリアベルは考えるより先に大喝する。</p><p><br></p><p>「──『『オーウェン』あなた、自分の仕事を履き違えるんじゃないわよ！』」</p><p><br></p><p>　人は、緊急時ほど話し慣れた言語の方が口を衝くものだ。</p><p>　後から振り返ると冷静にそう思うのだが、このときは気づかずに声に出していた。『オーウェン』がミルヴェーデン語を理解したのかどうかは知らない。だが彼は瞬時に身体の向きを変え、失礼をと言いながら、ウィリアムの首筋を強打する。近衛の手は的確に入ったのだろう、糸が切れた人形のようにウィリアムが体勢を崩すと、『オーウェン』は片腕であるじの身体を担ぎ上げた。──と、丁度具合よく、黒塗りのキャリッジが主従の近くで音を立てて停まり、『オーウェン』は道を塞ぐ逆賊の二人を容赦なく斬り捨てると、扉が開かれた馬車に飛び乗った。</p><p>　扉が閉まる間際、一瞬、視線が捷ち合う。</p><p>　マリアベルをその場に置いたまま、馬車は走り去る。生きている十人の内の何人かが追い掛けようとしたが、首領と思しき人間が止めたので、逆賊は全員その場に残った。マリアベルがようやく立ち上がるのと同時、彼らが振り返ってマリアベルを睨む。</p><p>　──恐らく頬は血が滲んでいるし、手脚には青痣ができただろう。骨が折れた様子はないと思う。日傘は骨が折れたかもしれないと独りごち。</p><p><br></p><p>「……どこの子犬か知らないけれど」</p><p><br></p><p>　足許に、ウィリアムが贈ってくれた小箱が落ちている。形が少し拉げていた。中の栞は硝子製だから割れていないといいなと、埒もないことを考える。折角楽しい一日だったのに台無しだわ、そう残念がる自分がいる一方で、別のおのれが、冷ややかに牙を剥く。</p><p><br></p><p>「大人しくおうちへ帰って、飼い主に伝えなさい」</p><p><br></p><p>　転倒の拍子に崩れた銀灰の髪が、夜の匂いを連れた風に靡いてゆく。</p><p>　夏なのに雪が降っている、とマリアベルは思った。音がしない。頭巾の人間たちの表情は窺えないが、しかし大したことはない。数匹の子犬如きが、わたしのこの喉笛へ、武器を向けられるはずがないのだから。静かだ。キンと凍んでゆく。──雪が降っている。</p><p>　マリアベルはうつくしく、嗤笑した。</p><p><br></p><p>「おまえたちにやる首などないわ。『王』を斃すのは、この私よ」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】12. 誰が為にメサイアは歌わず]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/11643489/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/11643489</id><summary><![CDATA[　曇りなく磨かれた擦り硝子を透かし、光の粒子が繊細に弾け踊るその最中で。　何を考えたのか、おのれの不意を衝き、ウィリアムは、睫毛の縁にキスをしてきた。　ほんの刹那のうちに瞬き、すぐに男を睨み上げたのだが、そうして見た彼の笑みは、一縷の隙もなく完璧に美しく──鬱くしく、マリアベルは非難することも忘れて、しばらく言葉を見失った。口撃しようとした唇は動きを止め、ただ、目を逸らせなくなってしまった。　見惚れたのでは、なく。　極夜のようなあの碧眼が、深く翳り、罅割れてゆく印象だけが、網膜に強く灼け遺った。　マリアベルは、レックスとウィリアムに話した通り、週に一度の頻度で、国立図書館へ通っていた。これは断じて、ウィリアムとの交流を深めようと思ってのことではなかったし、だから彼にも伝えたように、自らの来訪を知らせる段取りは何一つ取らなかったのだが──そもそも、一国の王に逐次連絡をする手筈など、得体の知れない外国人であるマリアベル個人では取りようがないのだけれども──、マリアベルが図書館へ到着してざっと気になった書籍を棚から選び出し、侯爵家の談話室と同様、定位置となった閲覧室の端のソファに腰掛けて半刻ほど経過すると、頃合いを読んだかのように、ウィリアムはマリアベルの前に現れた。恐らくはウィリアムの方が、マリアベルの動向を伝達するよう、部下に指示しているのだと思われるが──果たしてそこまでする必要があるのか甚だ疑問ではある──。そうして図書館へやって来た彼もまた、慣れた様子で、マリアベルの斜向かいにある同じ椅子に座るのだった。　ここで初めて会話をしてからの、最初の週の挨拶というより、すげなく言い放ったマリアベルの一言目は、あなた本当に来たの、だった。　その翌週からは、また来たの、がマリアベルの定型になった。　それに対するウィリアムの返答は、君の嫌がる顔が楽しいから、であり、その言葉も常套句となって、互いに『挨拶らしきもの』を交わした後は、本から目を離すことのないマリアベルの横で、ウィリアムが何かしら話し掛けてくるというのが、ふたりの間の決まり切った遣り取りになっていた。　会話の内容は、いつもたわいないものだ。「週末は快晴だったけど、王都には出掛けた？」「週末も屋敷で本を読んでいたわね」「うわ、引き籠もり」「わたしは暑いのが嫌いなの」「ミルヴェーデンにも夏はあるでしょう」「クロンクビストほど気温は上がらないわよ。短いし」「北方育ちなら、寧ろ晴れ間は有難いものなんじゃないの」「人によるでしょう。わたしは嫌い」「本ばっかり読んでいて飽きないわけ？　王都で遊ぶのも楽しいと思うよ」「本はわたしに自由をくれるの。というか、王都で遊びたいのはあなたの方でしょう」「遊びに行けるものならいくらでも行くけどね。……あ、今度一緒に行く？」「そうね、あなたにそんな暇があるのなら考えてもいいわ」「暇は作るものだよ、ベル」「作れそうにないから言っているのだけど。だってほら、今日ももうお迎えが来たわよ、ウィリアム」「……オーウェン」　たわいないどころか、殆ど中身がない、と言っていい。　ウィリアムが滞在する時間はいつも短く、半刻にも満たない。だから、会わない日の生活の様子とか、マリアベルが今は何を読んでいるのかとか、少し込み入ったことになってもその本の内容についてのいくつかの軽い談論とか、或いは単なる厭味の応酬であるとか、そんな程度のものだった。ごく稀に、ほんの少しではあるが、ウィリアムの仕事の愚痴もあった。けれど、どちらにとっても互いを深く知り過ぎないよう慎重に配慮された一線が、ウィリアムの提供する話題の折々には、常に意識的に引かれていた。その気配を察するたび、マリアベルは何とはなしに、彼の人柄を評したレックスの言葉を思い出した。　きっと本当に、スタインズ侯爵家での初対面のときのあの態度は、マリアベル自身のことが気に障ってのものではなかったのだろう。　マリアベルから見た『ウィリアム』は、どちらかといえば人懐こく、社交的で、明朗な人物だった。レックスの見方を借りれば、確かに、利発でもあった。どこからそんなふうにぽんぽんと話題が生まれるのかというくらいよく喋るし、よく笑いもする。欠点を挙げるのならば、穏やかな口調で容赦なく毒を吐くところだ。口の悪さに関しては、マリアベルの弟の方が余程汚かったので、乱暴で耳障りではないだけまだしも好いと言えなくも──否、やはり好くはない、と、たびたびマリアベルは独りごちる。　昏く長い、ミルヴェーデンの真冬に鎖されて育ち、贔屓目に見ても決して陽気な性質とは呼べないマリアベルが、彼の性格だけを一言で形容するのならば、クロンクビストのこの初夏のようだと言うだろう。　けれど、そうしていくら、ウィリアムの余所行きの顔だけを見つめても。　青く灼けつくように凍むり、極北の最中で、孤独に罅割れんとする極夜の碧眼が時折脳裏をちらつく今となっては、彼の胸の裡に棲むのがその『ウィリアム』だけではないのだと、マリアベルにはわかってしまっているのだった。マリアベルの中に、もう一人のおのれが今なお息づいているのと同じように。　マリアベルは、読書の隙間で、文章に目を落とすふりをして、白緑の眸を俯かせる。　ディンケラの凍土に最初に埋めた、あの日の雛鳥を想いながら。「……また来たの、ウィリアム」　ひと月が去って、初夏から真夏へと、空と風が走ってゆく時節の一週。図書館の閲覧室に嵌められた、分厚い玻璃越しでも陽射しが一層厳しくなってきていた。不慣れな暑さに、マリアベルは挨拶代わりのお決まりの一言を口にすることさえも億劫に感じ始めていたが、おざなりにもとりあえず呟けば、おのれの前に現れたウィリアムもまた、聞き飽きたことを言い返してくる。「ベルの嫌がる顔を見るのが楽しいからね」　本を読みながら、そう、とマリアベルが気のない相槌を打ち掛けたとき。　普段とは異なって、だって君、とウィリアムの言葉が続いた。「僕のこと嫌いでしょう」　それは笑い含みの声ではあったが。　マリアベルは、ページを捲る手を止めると、上目遣いに首を擡げた。　日頃は大抵、ウィリアムは軽口を叩きながらすぐに椅子へ腰を下ろすのだが、今日はマリアベルから数歩の距離を取ったところに未だ立っていた。この暑さでも相変わらず、他者を寄せ付けるのを拒むかのような黒の仕立ての服を着ている。陽光を弾き、眩く照る金髪の下、彼は口角を上げ微笑んでいた。けれど、些か、輪郭がいつもよりも強張っている。夏の輝きが色濃い影を落とすよう、碧眼は重く沈んで、不穏に、最果てで天を割る極光のような揺らめきを、ごく微かに帯びていた。　美しく擬態できている方だろう。マリアベルはそう思った。ウィリアムをよく知る者でなければ、心中を、恐らくは察せられないに違いない。事実、屈折する光にたゆたう絢爛な図書館の中、物憂げに佇む彼は、その美貌も相俟って一幅の肖像画の如くである。　けれど、瞳の、その陰翳に潜められたものを、皮肉にもマリアベルは知っていた。　目を逸らさないまま、静かに口を開く。「──嫌いよ、」　意識して、感情は消した。「嫌いよって、そう言ってほしいのよね、あなたは」「……ベルは本当に嫌な女だね」　完璧に吊り上げられていた、男の口の端が歪む。　マリアベルの眼差しから逃げ、憎々しそうに零したウィリアムに、今度こそ普段通りの素っ気ない相槌を打ち、マリアベルもまた、手許の本へと視線を戻した。そのまま、互いに何を取り繕うこともなく、沈黙する。　紙の。　乾いた音が、罅く。　どれくらい時が流れたのか、否、僅かな時間だったのかもしれない。マリアベルが十数ページ読み進めたあたりで、めずらしく荒っぽい所作で、ウィリアムはいつもと同じ椅子に腰掛けた。多弁な口は閉ざしたままであったが。そうしてやはり、殆ど静謐だけが舞い降りて、マリアベルが読書を続ける物音だけが耳朶を撫ぜていった。　無言《しじま》の隙間で、時折、館内のどこかで誰かが歩いている跫音がしては、消えた。　時は、黙って去ってゆく。そのうちに、秘めやかに平穏が流れ始める中でも、マリアベルは何も言わなかった。ウィリアムの動向を目端で確認することもない。ただ、いつものようにそこにいた。本性では繊細で傷つきやすいけものの裡で、不意に哄笑する狂気を遠ざける方法を、それしか知らないというのが本音ではあったけれども。虚勢に疲弊しながらも、おのれの爪で傷口をさらに広げざるを得ない、その痛みを和らげる休息が、今のウィリアムには必要なはずだった。　その証左に、これまでであれば、ウィリアムの近衛であるらしい『オーウェン』が見計らって姿を見せる頃合いになっても、あの青年は迎えに現れなかった。書架のその辺りにはいるに違いないが。つまりは、今日はウィリアムの小閑が許されているということなのだろうと思いながら、マリアベルは手許の本を畳んだ。浅薄な内容だったので、無意識に溜息でも吐いていたのかもしれない、ウィリアムが面白くなかったのかと訊いてきた。その声は平坦だった。　マリアベルは顔を上げた。ウィリアムを見ると、戯けたように軽く肩を竦めた。「そうね。論者の思い込みが激しくて、客観性に欠けていたわね」「何の本？」「フュルヒテゴット手稿に見る信仰と理性。著者は、グラウクス学の盲目の徒、という感じかしら。フュルヒテゴットは、聖書の読解に基づいて多様性に富んだ神学論を展開した哲学者として有名なのだけれど……ここで取り上げている手稿はね、理論的かつ概念的議論に終始するグラウクス学に偏重した叙述が多くて。経験知や実験観察も含めているところがフュルヒテゴットの特徴で、だからこの手稿が彼の真筆かどうかは怪しいのよね。わたしにとっては曲解もいいところだったわ。つまり駄作」「……ベルはつまらなかった本ほど饒舌に罵るよね」　ソファの上に積み上げた別の本に取り替えながら、つらつらと講評を述べるマリアベルに、呆れきった口調でウィリアムが相槌を打つ。罵倒はしていないと思うのだけれど、とマリアベルは小首を傾げた。至って素直な感想である。　ウィリアムは碧眼を瞬くと、少しだけ、困ったように笑った。「自由だね、ベルは」　羨望を滲ませたその響きには、聞き覚えがあった。　他でもなく、昔日のマリアベル自身が、そのように人を称賛したときの声音だった。　そうかしらと、マリアベルはつれなく答える。新しい本を開き、果てなく広がってゆく学問の海を泳ぐときは、確かに今のおのれは自由なのかもしれなかった。とはいえ、多大な犠牲を払って鳥籠の鍵を自ら壊し、歌えぬ鳥は羽ばたいたものの、その翼は力なく。結局失墜しかけたところで、どこまでも深い、碧き大海に呑まれただけとも言えるが。　ヨンナ＝エストバリ海上、客船レイアの船首で見上げた、水平線へと力強く滑空してゆくあの二羽の海鳥のようには未だ。　激しく眩い、真白な光だったと、今更ながらに思う。　マリアベルが思考の片隅でそんなことを取り留めもなく考えていると、不意に、ウィリアムが僅かにこちらへと身を乗り出してきた。視線を遣ると、いつになく真剣な瞳と搗ち合う。口許には悪戯っぽく笑みをはいていたが、幾分落ち着いたようには思われても、顔色はどこか青褪めているように見えた。今のウィリアムの表情は、何もかもがちぐはぐで、歪で、こうであると言い当てる巧い表現が見当たらない。強いて描出するのなら、中身は子どものまま、気づかず大人になってしまった人間、かもしれない。　深く呼吸をするみたいに。　慎重に、彼の色のない唇が動く。「……ねえベル、あのさ」「明後日、ウィリアムと出掛けることになったわ」　共に夕食を摂った後、侯爵家の談話室で、少しの蒸留酒を混ぜたナイトティーを嗜みながら、マリアベルはレックスに今日決まった予定を告げた。テラスへ続く硝子戸を開け放っているので、昼間の熱気を孕んだ、皮膚を舐めるような湿度の高い夜風が吹き込んでくる。騎士の証であるジェルヴェの葉を模して編まれたレースカーテンの裾が踊っている。夏虫の声を遠くに、斜向かいに座したレックスは、口許に寄せていた茶器を下ろすと、そうかと頷いた。そして、口角を吊り上げて笑う。「この国へ来てからあれだけ出不精だったのに、どういう風の吹き回しだ？」「あなたの方が余程オクセンシェルナの内情に詳しいのに、わざわざわたしに理由を訊く必要があるの？」　王《ウィリアム》と外出することではなく、マリアベルが外出することの方へ敢えて言及してくるのだから、当然この男は、マリアベルが知らないことも全て含めて、事を察しているのだろう。マリアベルは肩を竦める。屋敷の中にいるので、右耳側に寄せて緩く束ねただけの銀髪の一房が、頬を擽った。「たまには外を見ることも必要かしらと思っただけよ」　誰が、とは言わない。言わなくてもレックスはわかっているはずである。「何があったのかは、本人から訊いたのか？」「本人に話すつもりのないことを訊いてどうするの？　……いいのよ、別に。そんなことは知らなくても」　一人用ソファの肘掛けに不作法にも頬杖をつき、マリアベルはテラスの方──屋敷の外を見た。王城の方角である。目を凝らしたところで、城の門構えさえ見えるわけではなかったけれども。　延びてゆく夜空の闇は薄い。代わりに、鬱蒼と生い茂る街路の木々の陰翳は、厚塗りの黒の油絵具のようだった。水で溶かした薄墨色の雲が棚引き、その濃淡の合間で、いくつもの星が瞬いている。月は見えなかった。　レックスの声がする。祖国とは異なり、音は大気に凍んでゆくのではなく、打ち寄せる波のように滲んだ。「絆されたか？　それとも──」　同情したのか、と。　男はその言葉を続けなかったが。　マリアベルはレックスへ顔を向けないまま、ほんのりと嗤笑した。「レックス。あなた、一体誰に向かってそんなくだらない問いをしているの？」　ふっと一陣、強く吹き込んだ風が、噎せる花の匂いを連れてきた。花には全く詳しくないが、太陽の花《アニトラ》の季節にはまだ少しだけ早いので、時期的にはカプリスかもしれない。原因は解明されていないけれども、どうやら天気の様相で色彩を変えるらしい、気まぐれな毒花《カプリス》。雨の滴る日の見目は格別に美しいが──実際は、何の慰めにもならない花だ。死を招くとされている。　──『美しき聖母《マリアベル》』と名づけられながら。　おのれが決して、慈悲の聖母《ピエタ》などにはなれないのと同じだ。　体裁が悪いと思いながらも、姿勢を崩し、片頬を付けるようにソファに凭れて、マリアベルは目蓋を下ろした。裡に甦るのは、罅割れてゆく極夜の碧眼だった。背教者と謗りを受け、おのれが意志で血濡れた王冠と王笏を掴み取り、数多の裏切りに遭いながら、それでもなお、西に名高い大国の御座に、八年、君臨してきたそのひとの。　彼は、自ら選んでその道を来たのだ。だからこれは、同情ではない。けれど。　マリアベルは銀灰の睫毛をけぶらせ、そっと、自分の両手を見下ろした。　雪に悴んだ吐息に隠して、独りごちる。「本当に、王というのは孤独だわ、サディアス」]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-11-23T10:38:11+00:00</published><updated>2020-11-26T04:12:45+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　曇りなく磨かれた擦り硝子を透かし、光の粒子が繊細に弾け踊るその最中で。</p><p>　何を考えたのか、おのれの不意を衝き、ウィリアムは、睫毛の縁にキスをしてきた。</p><p>　ほんの刹那のうちに瞬き、すぐに男を睨み上げたのだが、そうして見た彼の笑みは、一縷の隙もなく完璧に美しく──鬱くしく、マリアベルは非難することも忘れて、しばらく言葉を見失った。口撃しようとした唇は動きを止め、ただ、目を逸らせなくなってしまった。</p><p>　見惚れたのでは、なく。</p><p>　極夜のようなあの碧眼が、深く翳り、罅割れてゆく印象だけが、網膜に強く灼け遺った。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　マリアベルは、レックスとウィリアムに話した通り、週に一度の頻度で、国立図書館へ通っていた。これは断じて、ウィリアムとの交流を深めようと思ってのことではなかったし、だから彼にも伝えたように、自らの来訪を知らせる段取りは何一つ取らなかったのだが──そもそも、一国の王に逐次連絡をする手筈など、得体の知れない外国人であるマリアベル個人では取りようがないのだけれども──、マリアベルが図書館へ到着してざっと気になった書籍を棚から選び出し、侯爵家の談話室と同様、定位置となった閲覧室の端のソファに腰掛けて半刻ほど経過すると、頃合いを読んだかのように、ウィリアムはマリアベルの前に現れた。恐らくはウィリアムの方が、マリアベルの動向を伝達するよう、部下に指示しているのだと思われるが──果たしてそこまでする必要があるのか甚だ疑問ではある──。そうして図書館へやって来た彼もまた、慣れた様子で、マリアベルの斜向かいにある同じ椅子に座るのだった。</p><p>　ここで初めて会話をしてからの、最初の週の挨拶というより、すげなく言い放ったマリアベルの一言目は、あなた本当に来たの、だった。</p><p>　その翌週からは、また来たの、がマリアベルの定型になった。</p><p>　それに対するウィリアムの返答は、君の嫌がる顔が楽しいから、であり、その言葉も常套句となって、互いに『挨拶らしきもの』を交わした後は、本から目を離すことのないマリアベルの横で、ウィリアムが何かしら話し掛けてくるというのが、ふたりの間の決まり切った遣り取りになっていた。</p><p>　会話の内容は、いつもたわいないものだ。</p><p><br></p><p>「週末は快晴だったけど、王都には出掛けた？」</p><p>「週末も屋敷で本を読んでいたわね」</p><p>「うわ、引き籠もり」</p><p>「わたしは暑いのが嫌いなの」</p><p>「ミルヴェーデンにも夏はあるでしょう」</p><p>「クロンクビストほど気温は上がらないわよ。短いし」</p><p>「北方育ちなら、寧ろ晴れ間は有難いものなんじゃないの」</p><p>「人によるでしょう。わたしは嫌い」</p><p>「本ばっかり読んでいて飽きないわけ？　王都で遊ぶのも楽しいと思うよ」</p><p>「本はわたしに自由をくれるの。というか、王都で遊びたいのはあなたの方でしょう」</p><p>「遊びに行けるものならいくらでも行くけどね。……あ、今度一緒に行く？」</p><p>「そうね、あなたにそんな暇があるのなら考えてもいいわ」</p><p>「暇は作るものだよ、ベル」</p><p>「作れそうにないから言っているのだけど。だってほら、今日ももうお迎えが来たわよ、ウィリアム」</p><p>「……オーウェン」</p><p><br></p><p>　たわいないどころか、殆ど中身がない、と言っていい。</p><p>　ウィリアムが滞在する時間はいつも短く、半刻にも満たない。だから、会わない日の生活の様子とか、マリアベルが今は何を読んでいるのかとか、少し込み入ったことになってもその本の内容についてのいくつかの軽い談論とか、或いは単なる厭味の応酬であるとか、そんな程度のものだった。ごく稀に、ほんの少しではあるが、ウィリアムの仕事の愚痴もあった。けれど、どちらにとっても互いを深く知り過ぎないよう慎重に配慮された一線が、ウィリアムの提供する話題の折々には、常に意識的に引かれていた。その気配を察するたび、マリアベルは何とはなしに、彼の人柄を評したレックスの言葉を思い出した。</p><p>　きっと本当に、スタインズ侯爵家での初対面のときのあの態度は、マリアベル自身のことが気に障ってのものではなかったのだろう。</p><p>　マリアベルから見た『ウィリアム』は、どちらかといえば人懐こく、社交的で、明朗な人物だった。レックスの見方を借りれば、確かに、利発でもあった。どこからそんなふうにぽんぽんと話題が生まれるのかというくらいよく喋るし、よく笑いもする。欠点を挙げるのならば、穏やかな口調で容赦なく毒を吐くところだ。口の悪さに関しては、マリアベルの弟の方が余程汚かったので、乱暴で耳障りではないだけまだしも好いと言えなくも──否、やはり好くはない、と、たびたびマリアベルは独りごちる。</p><p>　昏く長い、ミルヴェーデンの真冬に鎖されて育ち、贔屓目に見ても決して陽気な性質とは呼べないマリアベルが、彼の性格だけを一言で形容するのならば、クロンクビストのこの初夏のようだと言うだろう。</p><p>　けれど、そうしていくら、ウィリアムの余所行きの顔だけを見つめても。</p><p>　青く灼けつくように凍むり、極北の最中で、孤独に罅割れんとする極夜の碧眼が時折脳裏をちらつく今となっては、彼の胸の裡に棲むのがその『ウィリアム』だけではないのだと、マリアベルにはわかってしまっているのだった。マリアベルの中に、もう一人のおのれが今なお息づいているのと同じように。</p><p>　マリアベルは、読書の隙間で、文章に目を落とすふりをして、白緑の眸を俯かせる。</p><p>　ディンケラの凍土に最初に埋めた、あの日の雛鳥を想いながら。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「……また来たの、ウィリアム」</p><p><br></p><p>　ひと月が去って、初夏から真夏へと、空と風が走ってゆく時節の一週。図書館の閲覧室に嵌められた、分厚い玻璃越しでも陽射しが一層厳しくなってきていた。不慣れな暑さに、マリアベルは挨拶代わりのお決まりの一言を口にすることさえも億劫に感じ始めていたが、おざなりにもとりあえず呟けば、おのれの前に現れたウィリアムもまた、聞き飽きたことを言い返してくる。</p><p><br></p><p>「ベルの嫌がる顔を見るのが楽しいからね」</p><p><br></p><p>　本を読みながら、そう、とマリアベルが気のない相槌を打ち掛けたとき。</p><p>　普段とは異なって、だって君、とウィリアムの言葉が続いた。</p><p><br></p><p>「僕のこと嫌いでしょう」</p><p><br></p><p>　それは笑い含みの声ではあったが。</p><p>　マリアベルは、ページを捲る手を止めると、上目遣いに首を擡げた。</p><p>　日頃は大抵、ウィリアムは軽口を叩きながらすぐに椅子へ腰を下ろすのだが、今日はマリアベルから数歩の距離を取ったところに未だ立っていた。この暑さでも相変わらず、他者を寄せ付けるのを拒むかのような黒の仕立ての服を着ている。陽光を弾き、眩く照る金髪の下、彼は口角を上げ微笑んでいた。けれど、些か、輪郭がいつもよりも強張っている。夏の輝きが色濃い影を落とすよう、碧眼は重く沈んで、不穏に、最果てで天を割る極光のような揺らめきを、ごく微かに帯びていた。</p><p>　美しく擬態できている方だろう。マリアベルはそう思った。ウィリアムをよく知る者でなければ、心中を、恐らくは察せられないに違いない。事実、屈折する光にたゆたう絢爛な図書館の中、物憂げに佇む彼は、その美貌も相俟って一幅の肖像画の如くである。</p><p>　けれど、瞳の、その陰翳に潜められたものを、皮肉にもマリアベルは知っていた。</p><p>　目を逸らさないまま、静かに口を開く。</p><p><br></p><p>「──嫌いよ、」</p><p><br></p><p>　意識して、感情は消した。<br></p><p><br></p><p>「嫌いよって、そう言ってほしいのよね、あなたは」</p><p>「……ベルは本当に嫌な女だね」</p><p><br></p><p>　完璧に吊り上げられていた、男の口の端が歪む。</p><p>　マリアベルの眼差しから逃げ、憎々しそうに零したウィリアムに、今度こそ普段通りの素っ気ない相槌を打ち、マリアベルもまた、手許の本へと視線を戻した。そのまま、互いに何を取り繕うこともなく、沈黙する。</p><p>　紙の。</p><p>　乾いた音が、罅く。</p><p>　どれくらい時が流れたのか、否、僅かな時間だったのかもしれない。マリアベルが十数ページ読み進めたあたりで、めずらしく荒っぽい所作で、ウィリアムはいつもと同じ椅子に腰掛けた。多弁な口は閉ざしたままであったが。そうしてやはり、殆ど静謐だけが舞い降りて、マリアベルが読書を続ける物音だけが耳朶を撫ぜていった。</p><p>　無言《しじま》の隙間で、時折、館内のどこかで誰かが歩いている跫音がしては、消えた。</p><p>　時は、黙って去ってゆく。そのうちに、秘めやかに平穏が流れ始める中でも、マリアベルは何も言わなかった。ウィリアムの動向を目端で確認することもない。ただ、いつものようにそこにいた。本性では繊細で傷つきやすいけものの裡で、不意に哄笑する狂気を遠ざける方法を、それしか知らないというのが本音ではあったけれども。虚勢に疲弊しながらも、おのれの爪で傷口をさらに広げざるを得ない、その痛みを和らげる休息が、今のウィリアムには必要なはずだった。</p><p>　その証左に、これまでであれば、ウィリアムの近衛であるらしい『オーウェン』が見計らって姿を見せる頃合いになっても、あの青年は迎えに現れなかった。書架のその辺りにはいるに違いないが。つまりは、今日はウィリアムの小閑が許されているということなのだろうと思いながら、マリアベルは手許の本を畳んだ。浅薄な内容だったので、無意識に溜息でも吐いていたのかもしれない、ウィリアムが面白くなかったのかと訊いてきた。その声は平坦だった。</p><p>　マリアベルは顔を上げた。ウィリアムを見ると、戯けたように軽く肩を竦めた。</p><p><br></p><p>「そうね。論者の思い込みが激しくて、客観性に欠けていたわね」</p><p>「何の本？」</p><p>「フュルヒテゴット手稿に見る信仰と理性。著者は、グラウクス学の盲目の徒、という感じかしら。フュルヒテゴットは、聖書の読解に基づいて多様性に富んだ神学論を展開した哲学者として有名なのだけれど……ここで取り上げている手稿はね、理論的かつ概念的議論に終始するグラウクス学に偏重した叙述が多くて。経験知や実験観察も含めているところがフュルヒテゴットの特徴で、だからこの手稿が彼の真筆かどうかは怪しいのよね。わたしにとっては曲解もいいところだったわ。つまり駄作」</p><p>「……ベルはつまらなかった本ほど饒舌に罵るよね」</p><p><br></p><p>　ソファの上に積み上げた別の本に取り替えながら、つらつらと講評を述べるマリアベルに、呆れきった口調でウィリアムが相槌を打つ。罵倒はしていないと思うのだけれど、とマリアベルは小首を傾げた。至って素直な感想である。</p><p>　ウィリアムは碧眼を瞬くと、少しだけ、困ったように笑った。</p><p><br></p><p>「自由だね、ベルは」</p><p><br></p><p>　羨望を滲ませたその響きには、聞き覚えがあった。</p><p>　他でもなく、昔日のマリアベル自身が、そのように人を称賛したときの声音だった。</p><p>　そうかしらと、マリアベルはつれなく答える。新しい本を開き、果てなく広がってゆく学問の海を泳ぐときは、確かに今のおのれは自由なのかもしれなかった。とはいえ、多大な犠牲を払って鳥籠の鍵を自ら壊し、歌えぬ鳥は羽ばたいたものの、その翼は力なく。結局失墜しかけたところで、どこまでも深い、碧き大海に呑まれただけとも言えるが。</p><p>　ヨンナ＝エストバリ海上、客船レイアの船首で見上げた、水平線へと力強く滑空してゆくあの二羽の海鳥のようには未だ。</p><p>　激しく眩い、真白な光だったと、今更ながらに思う。</p><p>　マリアベルが思考の片隅でそんなことを取り留めもなく考えていると、不意に、ウィリアムが僅かにこちらへと身を乗り出してきた。視線を遣ると、いつになく真剣な瞳と搗ち合う。口許には悪戯っぽく笑みをはいていたが、幾分落ち着いたようには思われても、顔色はどこか青褪めているように見えた。今のウィリアムの表情は、何もかもがちぐはぐで、歪で、こうであると言い当てる巧い表現が見当たらない。強いて描出するのなら、中身は子どものまま、気づかず大人になってしまった人間、かもしれない。</p><p>　深く呼吸をするみたいに。</p><p>　慎重に、彼の色のない唇が動く。</p><p><br></p><p>「……ねえベル、あのさ」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「明後日、ウィリアムと出掛けることになったわ」</p><p><br></p><p>　共に夕食を摂った後、侯爵家の談話室で、少しの蒸留酒を混ぜたナイトティーを嗜みながら、マリアベルはレックスに今日決まった予定を告げた。テラスへ続く硝子戸を開け放っているので、昼間の熱気を孕んだ、皮膚を舐めるような湿度の高い夜風が吹き込んでくる。騎士の証であるジェルヴェの葉を模して編まれたレースカーテンの裾が踊っている。夏虫の声を遠くに、斜向かいに座したレックスは、口許に寄せていた茶器を下ろすと、そうかと頷いた。そして、口角を吊り上げて笑う。</p><p><br></p><p>「この国へ来てからあれだけ出不精だったのに、どういう風の吹き回しだ？」</p><p>「あなたの方が余程オクセンシェルナの内情に詳しいのに、わざわざわたしに理由を訊く必要があるの？」</p><p><br></p><p>　王《ウィリアム》と外出することではなく、マリアベルが外出することの方へ敢えて言及してくるのだから、当然この男は、マリアベルが知らないことも全て含めて、事を察しているのだろう。マリアベルは肩を竦める。屋敷の中にいるので、右耳側に寄せて緩く束ねただけの銀髪の一房が、頬を擽った。</p><p><br></p><p>「たまには外を見ることも必要かしらと思っただけよ」</p><p><br></p><p>　誰が、とは言わない。言わなくてもレックスはわかっているはずである。</p><p><br></p><p>「何があったのかは、本人から訊いたのか？」</p><p>「本人に話すつもりのないことを訊いてどうするの？　……いいのよ、別に。そんなことは知らなくても」</p><p><br></p><p>　一人用ソファの肘掛けに不作法にも頬杖をつき、マリアベルはテラスの方──屋敷の外を見た。王城の方角である。目を凝らしたところで、城の門構えさえ見えるわけではなかったけれども。</p><p>　延びてゆく夜空の闇は薄い。代わりに、鬱蒼と生い茂る街路の木々の陰翳は、厚塗りの黒の油絵具のようだった。水で溶かした薄墨色の雲が棚引き、その濃淡の合間で、いくつもの星が瞬いている。月は見えなかった。</p><p>　レックスの声がする。祖国とは異なり、音は大気に凍んでゆくのではなく、打ち寄せる波のように滲んだ。</p><p><br></p><p>「絆されたか？　それとも──」</p><p><br></p><p>　同情したのか、と。</p><p>　男はその言葉を続けなかったが。</p><p>　マリアベルはレックスへ顔を向けないまま、ほんのりと嗤笑した。</p><p><br></p><p>「レックス。あなた、一体誰に向かってそんなくだらない問いをしているの？」</p><p><br></p><p>　ふっと一陣、強く吹き込んだ風が、噎せる花の匂いを連れてきた。花には全く詳しくないが、太陽の花《アニトラ》の季節にはまだ少しだけ早いので、時期的にはカプリスかもしれない。原因は解明されていないけれども、どうやら天気の様相で色彩を変えるらしい、気まぐれな毒花《カプリス》。雨の滴る日の見目は格別に美しいが──実際は、何の慰めにもならない花だ。死を招くとされている。</p><p>　──『美しき聖母《マリアベル》』と名づけられながら。</p><p>　おのれが決して、慈悲の聖母《ピエタ》などにはなれないのと同じだ。</p><p>　体裁が悪いと思いながらも、姿勢を崩し、片頬を付けるようにソファに凭れて、マリアベルは目蓋を下ろした。裡に甦るのは、罅割れてゆく極夜の碧眼だった。背教者と謗りを受け、おのれが意志で血濡れた王冠と王笏を掴み取り、数多の裏切りに遭いながら、それでもなお、西に名高い大国の御座に、八年、君臨してきたそのひとの。</p><p>　彼は、自ら選んでその道を来たのだ。だからこれは、同情ではない。けれど。</p><p>　マリアベルは銀灰の睫毛をけぶらせ、そっと、自分の両手を見下ろした。</p><p>　雪に悴んだ吐息に隠して、独りごちる。</p><p><br></p><p>「本当に、王というのは孤独だわ、サディアス」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg?width=960" width="100%">
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】11. 死者は甦る]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/11493087/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/11493087</id><summary><![CDATA[　ウィリアムは、マリアベルの隣には座らなかった。彼女が本を退けた小さな調度を挟み、斜向かいの一人掛けの革張りソファに腰を下ろす。マリアベルは手許の本に視線を落としたままで、特段、ウィリアムの行動を気にした様子はなかった。　低卓に積み上げられた大量の書物へ、ウィリアムは目を遣った。それらの、時代や地域を匂わせる種々様々な装幀から、何かに拘って一律に選書したわけではないような印象を受ける。だがその中に通俗的な読み物は殆どなく、多くは学術書だった。題目から推察できるだけでも、文学、歴史学、社会学、法学、数学、哲学、それに神学──。アマルベルガが出版したものも混ざっている。大凡、中流の女性が読み慣れている本には思えない。否、特権階級の男性で高等教育を受けている者であっても、ここまで雑多に高度な書物を手に取るかどうか。それどころか、彼女は生粋のクロックではないというのに。　ミルヴェーデンは、確かに、北の大国ではあるが──「全部わたしの個人的な趣味」　唐突に、マリアベルの声がウィリアムの黙考を遮った。ウィリアムは顔を上げる。本の山の向こうで、彼女はこちらを見ないまま、眉間、と言葉を継いだ。「皺が寄っているわよ」「……僕を見ていないのによくわかるね」　指摘につられてつい額に手を当てたのち、ウィリアムは口の端を歪め、厭味っぽく言い返した。マリアベルは滑らかな仕草で本のページを捲りながら、雰囲気が少し前のレックスに似ているからと答える。オーベリで知り合ったときのあの男も、よくそうやって怪訝そうにわたしを見ていたんだもの、まるで珍獣を目撃しているみたいに。　淡々と、しかし微かに不服そうな響きを潜ませたマリアベルの言い草に、ウィリアムは瞬き、ややあって、小さく笑った。「そういえば、レックスが君はただのじゃじゃ馬だと言っていたな」「二人とも女性に失礼なところがそっくりだわ」　喰いつき気味の反駁に、ウィリアムは咽喉を鳴らした。そうして不意に、主従は似るものなのかしら、という、先日のミシェーラの秘密めいた独り言を思い出した。あれはウィリアムのことを揶揄した発言ではなかったが。　やはり、マリアベルはウィリアムが何者であるのかは、知っているのだろう。　自身の後見人が侯爵位に就いていることは当初から理解していたし、これだけの学術書を読み砕くことのできる明晰な人間が、侯爵《レックス》が畏まっているおのれの地位を汲み取らないはずがないだろう。もしかしたら、ラドフォードの屋敷で鉢合わせた瞬間にはもう、わかっていたのかもしれない。何せ、あのときのウィリアムは、何の変装もしていなかった。──この国では、金髪と碧眼は、王の系譜であることを何よりも確然と他者に顕示するものだ。況して、今、クロンクビスト王族の男子で生存が世間に公表されているのは、国王であるウィリアム＝メディオフ・オルブライトしかいないのだから。　積み上げた書物を観察しているウィリアムに気づき、個人的な趣味だと言い切ったのも、こちらに余計な疑心を抱かせないためであったのかもしれなかった。　ウィリアムは、微かに唇を引き結んだ。　うっすらとした警戒心が、毒牙を見せながら鎌首を擡げる一方で、飢餓を充たすように滲み出す感情がある。ウィリアムの立場を理解しているはずなのに、彼女はそれでも、臆さない。　最初から、何一つ。「……ねえ、ベル」　初めて呼び掛けた彼女の愛称、というより、皮肉を込めておのれが勝手に名づけたに等しいその二音に、舌先が痺れる。　それは、腐爛した果実を囓ったみたいな、鈍い痛みだった。「僕が『誰』なのか、わかっている？」　ウィリアムが無意識に口腔を湿らせながら訊ねたところで、返ってきた彼女の答えは、侯爵家の談話室での遣り取りと同様に素っ気なく、端的だった。「ウィリアム」「そうではなくて……」　だが、否定しかけて、ウィリアムは自らの言葉の接ぎ穂に窮した。──そうでなければ、何だ。　『王』だろうか。　それとも。（……僕は）（兄上にはなれない）（とても悲しいことにね）　いつの日か、おのれが吐いた言葉がどこかから聞こえた。　白い息が未だ棚引く、残雪の静謐に憧憬は凍んでゆく。胸倉を掴み対峙した男は、臆病で、残酷すぎるほどに優しい瞳の奥で、涙も流さずに泣いていた。ウィリアムはその碧眼を嘲笑って見返しながら、──『鳥籠』の窓辺で黙って眸を伏せた、異母姉の姿を想った。一条の月明かりも見えぬ常闇に沈み、ただ病んでゆくそのひとを。姉上。姉上、僕は。（ウィル、ウィリアム）（そういえば、兄様がね）（異国の御本を下さったの）（挿絵が美しくて……）（ふふ、でも難しくて、わたしには読めないのだけど）　花が綻ぶように。　兄を慕って、柔らかく微笑む貴女が、僕は好きだったから。（わたしたちだけの秘密よ、ウィル）　毀れてゆく光、踏み躙られる日々、追憶が端から剥がれ墜ちてゆく。泣き方さえ忘れたように、追い縋る言葉も失って、立ち尽くしている貴女を慰める術を、僕は何一つ持っていないから。姉上。だからせめて、僕は。僕は──例え、兄上のようには、なれなくても。　ウィリアムは俯き、おのれの手のひらを見下ろした。そうして溜息と共にその手を握り込むと、何でもない、と呟く。　全て覚悟でこの道を来たはずだ。感傷を振り切るように独りごちる。「よくわからないけれど」　沈鬱な思考に割って入ったマリアベルの声は、強い抑揚こそなかったが、ひどく明瞭だった。拒絶を許さず、まるで耳朶を撲つように。　ウィリアムが視線を上向ければ、日中の真白い光を透かす玻璃を背後に、相変わらず読書を続けているマリアベルの姿があった。伏せられた銀灰の睫毛の下で、うっすらと見える白緑の双眸がきらめいている。恐らく、おのれが嵌めた碧眼とは全くの対照的な清らかさで。「あなたはあなたよ。ウィリアム。それだけ。他の誰でもないわ」「……わかったようなことを言うね」「そうね。だってわたしは、自分が背負ったものが嫌で嫌で仕方なくて、家出してきた女ですもの」　だから言ったでしょう、家名はどこかに捨ててきたって、と。　逃げ出す道を選んだ自分を恥じ入る気配も、投げ棄てたものに対する名残惜しさも、悔恨もなく、マリアベルは言ってのける。「わたしはただのマリアベル。そして、わたしにとってあなたはただのウィリアム。あなたはあなたの名前しかわたしに名乗らなかったのだし、だからわたしはあなたのこと、何も知らないもの」「詭弁に聞こえるんだけど」「生憎だけど、自分で見て聞いて学んだことしか信じないことにしているの」　マリアベルはどこまでもさっぱりとしていた。甘えも媚びも知らないのではないかと思うほど。　ウィリアムは一瞬、口を噤み、次には唇を弓形に撓らせた。ソファの、マリアベル側の肘掛けに体重を載せ、彼女の方へ僅かに身を乗り出す。おのれへの阿諛追従の気も、畏縮のさまもまるでなく、だからといって存在全てを受け入れているわけでも拒否しているわけでもない、ただ単純に『会話をしている』だけの彼女の振る舞いが、少し可笑しくなってきてしまった。生まれゆえに、こういう類いの人間は、あまり身近にいたことがなかった所為かもしれない。　ただのウィリアムである、とは。　何て甘美な誘惑だろう。　だがきっと、裏切られるだけの言葉だと思う。その通りで在れるはずがないことはウィリアム自身が一番よくわかっている。だから、果たしてマリアベルの言葉がいつまで『それだけ』で済むのかどうか、曝いてみるのも一興ではないかと、胸中で嗤笑する。──そうだ、と思い立った。日々の間隙で甦る、死に至る病を持たぬあの男の予言が叶うか否か。試してみればいい。（次に殺すときにはこの身の裡に蓄積する、八年分の猛毒ごとだ）　脳裏をちらつく凍てる碧眼に憎悪を滾らせ。　それを押し殺し、ウィリアムは、なら、とマリアベルに話し掛けた。「僕とよく知り合ってみる？　ベル」　そこで初めて、マリアベルは顔を上げた。　緩慢に──　穢れない雪で白んだような緑の双眸が、真っ直ぐ、ウィリアムを見る。「……駆け引きは好きではないんだけど」　邪険にはしなかったが、明らかに億劫そうな返答だった。ウィリアムは笑う。「そんな高尚な社交の遊戯にはならないよ。僕は君に対して既に紳士ではないし、君も淑女のふりはしていないでしょう。だから言葉のまま。お互いによく知り合ってみるのは面白そうだと思っただけだ」「……本当に失礼なことしか言わないわね、あなた」「それは仕方がない。これが君の言うところの、ただのウィリアム、だからね」　無邪気を装ってにこりと笑みを整えれば、マリアベルは胡散臭そうに小さく眉を顰め、ややあってから溜息を吐いた。好きにすれば、と呟いて、彼女は視線を手許の本へと戻す。隠す気のない倦怠を滲ませた素振りがやはり可笑しく、ウィリアムは碧眼を眇めた。──と、その一息の間を衝いて、見計らったように、ウィリアム様、と声を掛けられる。振り向かずとも、それが近衛のオーウェンであるのは明らかだった。　オーウェン・アビーは、一年前、騎士団長《ヘイデン》と枢密顧問官《エリオット》が揃って遇しただけあって、騎士としてだけではなく従者としても優れた点が多い男だった。レックスに憤激して執務室を飛び出してきたにも関わらず、付かず離れずの距離で見失うことなく随行してきた上、場を汲み取って呼び掛けるあたり抜け目がない。　ウィリアムよりも若年であり、生家も取り立てて何があるわけでもない一子爵家ながら、過ぎた多言もなければ畏まり過ぎることもなく、必要であればこうして割って入ってくる──仮にも伯爵家の出身である侍従のアランとは大違いだ。ゆえに、出来過ぎだと考えることも、ウィリアムにはないわけではなかったが。　ウィリアムは肩を竦めると、素直に腰を上げた。多分に、このオーウェンを無視したが最後、エリオットが自ら迎えに来るだろうことが嫌に簡単に想像できたからである。原因はレックスの発言にあるとはいえ、政務を投げ出してきたのはウィリアム自身であるし──おのれを結婚させたがっているエリオットのことだ、色々と、それは御免蒙りたい。それならまだ、厭味の方がいい。間違いなく。　ウィリアムはマリアベルを見た。やはりこちらの動きにつられる様子もなく読書を続ける彼女に、残念だけど、と告げる。「今日は時間切れかな」　そう、と打たれる相槌の調子に変化はなく、特別な感情は何も聞こえない。　紙の縁を沿い、撫ぜる指先を何とはなしに眺めて、またここに来る予定があるかどうかウィリアムは訊いた。来ないというなら、気晴らしも兼ね、スタインズ侯爵家へ赴いても構わなかったが。しかし予期せず、そうね、と肯定の声がある。「一週間に一度くらいは来るつもり。ここの蔵書はわたしにとってとても魅力的だもの」　知らせなんてしないから、あなたがわたしの来館に気づくかどうかは知らないけれど、そう淡泊に補足するマリアベルに、ウィリアムは咽喉を鳴らした。そうして、ふと、マリアベルへと歩み寄る。おのれの影が彼女の上に落ちるところまで近づき、身を屈めた。マリアベルが反応するよりも早く。　燦々と降る陽射しにきらめく、伏せられた銀灰の睫毛の。　その少し上に。（おまえに一つ）　軽く、口づける。（呪いをあげようか、ウィリアム）　突然のキスに俯いたままはたりとマリアベルは眸を瞬かせ、それから睨めつけるようにウィリアムを仰ぎ見た。数拍置いて、なに、と彼女はそれまでになく低く唸る。ウィリアムはおのれの美貌を熟知した、極上の笑みを向ける。──耳にこびりついた残響、姿見えぬその亡霊を、おのれが手で再び殺さんが為に。　これが同じ轍だというのなら。「じゃあ、またここで。マリアベル」]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-11-13T00:11:45+00:00</published><updated>2020-11-13T00:11:46+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p>　ウィリアムは、マリアベルの隣には座らなかった。彼女が本を退けた小さな調度を挟み、斜向かいの一人掛けの革張りソファに腰を下ろす。マリアベルは手許の本に視線を落としたままで、特段、ウィリアムの行動を気にした様子はなかった。</p><p>　低卓に積み上げられた大量の書物へ、ウィリアムは目を遣った。それらの、時代や地域を匂わせる種々様々な装幀から、何かに拘って一律に選書したわけではないような印象を受ける。だがその中に通俗的な読み物は殆どなく、多くは学術書だった。題目から推察できるだけでも、文学、歴史学、社会学、法学、数学、哲学、それに神学──。アマルベルガが出版したものも混ざっている。大凡、中流の女性が読み慣れている本には思えない。否、特権階級の男性で高等教育を受けている者であっても、ここまで雑多に高度な書物を手に取るかどうか。それどころか、彼女は生粋のクロックではないというのに。</p><p>　ミルヴェーデンは、確かに、北の大国ではあるが──</p><p><br></p><p>「全部わたしの個人的な趣味」</p><p><br></p><p>　唐突に、マリアベルの声がウィリアムの黙考を遮った。ウィリアムは顔を上げる。本の山の向こうで、彼女はこちらを見ないまま、眉間、と言葉を継いだ。</p><p><br></p><p>「皺が寄っているわよ」</p><p>「……僕を見ていないのによくわかるね」</p><p><br></p><p>　指摘につられてつい額に手を当てたのち、ウィリアムは口の端を歪め、厭味っぽく言い返した。マリアベルは滑らかな仕草で本のページを捲りながら、雰囲気が少し前のレックスに似ているからと答える。オーベリで知り合ったときのあの男も、よくそうやって怪訝そうにわたしを見ていたんだもの、まるで珍獣を目撃しているみたいに。</p><p>　淡々と、しかし微かに不服そうな響きを潜ませたマリアベルの言い草に、ウィリアムは瞬き、ややあって、小さく笑った。</p><p><br></p><p>「そういえば、レックスが君はただのじゃじゃ馬だと言っていたな」</p><p>「二人とも女性に失礼なところがそっくりだわ」</p><p><br></p><p>　喰いつき気味の反駁に、ウィリアムは咽喉を鳴らした。そうして不意に、主従は似るものなのかしら、という、先日のミシェーラの秘密めいた独り言を思い出した。あれはウィリアムのことを揶揄した発言ではなかったが。</p><p>　やはり、マリアベルはウィリアムが何者であるのかは、知っているのだろう。</p><p>　自身の後見人が侯爵位に就いていることは当初から理解していたし、これだけの学術書を読み砕くことのできる明晰な人間が、侯爵《レックス》が畏まっているおのれの地位を汲み取らないはずがないだろう。もしかしたら、ラドフォードの屋敷で鉢合わせた瞬間にはもう、わかっていたのかもしれない。何せ、あのときのウィリアムは、何の変装もしていなかった。──この国では、金髪と碧眼は、王の系譜であることを何よりも確然と他者に顕示するものだ。況して、今、クロンクビスト王族の男子で生存が世間に公表されているのは、国王であるウィリアム＝メディオフ・オルブライトしかいないのだから。</p><p>　積み上げた書物を観察しているウィリアムに気づき、個人的な趣味だと言い切ったのも、こちらに余計な疑心を抱かせないためであったのかもしれなかった。</p><p>　ウィリアムは、微かに唇を引き結んだ。</p><p>　うっすらとした警戒心が、毒牙を見せながら鎌首を擡げる一方で、飢餓を充たすように滲み出す感情がある。ウィリアムの立場を理解しているはずなのに、彼女はそれでも、臆さない。</p><p>　最初から、何一つ。</p><p><br></p><p>「……ねえ、ベル」</p><p><br></p><p>　初めて呼び掛けた彼女の愛称、というより、皮肉を込めておのれが勝手に名づけたに等しいその二音に、舌先が痺れる。</p><p>　それは、腐爛した果実を囓ったみたいな、鈍い痛みだった。</p><p><br></p><p>「僕が『誰』なのか、わかっている？」</p><p><br></p><p>　ウィリアムが無意識に口腔を湿らせながら訊ねたところで、返ってきた彼女の答えは、侯爵家の談話室での遣り取りと同様に素っ気なく、端的だった。</p><p><br></p><p>「ウィリアム」</p><p>「そうではなくて……」</p><p><br></p><p>　だが、否定しかけて、ウィリアムは自らの言葉の接ぎ穂に窮した。──そうでなければ、何だ。</p><p>　『王』だろうか。</p><p>　それとも。</p><p><br></p><p>（……僕は）</p><p>（兄上にはなれない）</p><p>（とても悲しいことにね）</p><p><br></p><p>　いつの日か、おのれが吐いた言葉がどこかから聞こえた。</p><p>　白い息が未だ棚引く、残雪の静謐に憧憬は凍んでゆく。胸倉を掴み対峙した男は、臆病で、残酷すぎるほどに優しい瞳の奥で、涙も流さずに泣いていた。ウィリアムはその碧眼を嘲笑って見返しながら、──『鳥籠』の窓辺で黙って眸を伏せた、異母姉の姿を想った。一条の月明かりも見えぬ常闇に沈み、ただ病んでゆくそのひとを。姉上。姉上、僕は。</p><p><br></p><p>（ウィル、ウィリアム）</p><p>（そういえば、兄様がね）</p><p>（異国の御本を下さったの）</p><p>（挿絵が美しくて……）</p><p>（ふふ、でも難しくて、わたしには読めないのだけど）</p><p><br></p><p>　花が綻ぶように。</p><p>　兄を慕って、柔らかく微笑む貴女が、僕は好きだったから。</p><p><br></p><p>（わたしたちだけの秘密よ、ウィル）</p><p><br></p><p>　毀れてゆく光、踏み躙られる日々、追憶が端から剥がれ墜ちてゆく。泣き方さえ忘れたように、追い縋る言葉も失って、立ち尽くしている貴女を慰める術を、僕は何一つ持っていないから。姉上。だからせめて、僕は。僕は──例え、兄上のようには、なれなくても。</p><p>　ウィリアムは俯き、おのれの手のひらを見下ろした。そうして溜息と共にその手を握り込むと、何でもない、と呟く。</p><p>　全て覚悟でこの道を来たはずだ。感傷を振り切るように独りごちる。</p><p><br></p><p>「よくわからないけれど」</p><p><br></p><p>　沈鬱な思考に割って入ったマリアベルの声は、強い抑揚こそなかったが、ひどく明瞭だった。拒絶を許さず、まるで耳朶を撲つように。</p><p>　ウィリアムが視線を上向ければ、日中の真白い光を透かす玻璃を背後に、相変わらず読書を続けているマリアベルの姿があった。伏せられた銀灰の睫毛の下で、うっすらと見える白緑の双眸がきらめいている。恐らく、おのれが嵌めた碧眼とは全くの対照的な清らかさで。</p><p><br></p><p>「あなたはあなたよ。ウィリアム。それだけ。他の誰でもないわ」</p><p>「……わかったようなことを言うね」</p><p>「そうね。だってわたしは、自分が背負ったものが嫌で嫌で仕方なくて、家出してきた女ですもの」</p><p><br></p><p>　だから言ったでしょう、家名はどこかに捨ててきたって、と。</p><p>　逃げ出す道を選んだ自分を恥じ入る気配も、投げ棄てたものに対する名残惜しさも、悔恨もなく、マリアベルは言ってのける。</p><p><br></p><p>「わたしはただのマリアベル。そして、わたしにとってあなたはただのウィリアム。あなたはあなたの名前しかわたしに名乗らなかったのだし、だからわたしはあなたのこと、何も知らないもの」</p><p>「詭弁に聞こえるんだけど」</p><p>「生憎だけど、自分で見て聞いて学んだことしか信じないことにしているの」</p><p><br></p><p>　マリアベルはどこまでもさっぱりとしていた。甘えも媚びも知らないのではないかと思うほど。</p><p>　ウィリアムは一瞬、口を噤み、次には唇を弓形に撓らせた。ソファの、マリアベル側の肘掛けに体重を載せ、彼女の方へ僅かに身を乗り出す。おのれへの阿諛追従の気も、畏縮のさまもまるでなく、だからといって存在全てを受け入れているわけでも拒否しているわけでもない、ただ単純に『会話をしている』だけの彼女の振る舞いが、少し可笑しくなってきてしまった。生まれゆえに、こういう類いの人間は、あまり身近にいたことがなかった所為かもしれない。</p><p>　ただのウィリアムである、とは。</p><p>　何て甘美な誘惑だろう。</p><p>　だがきっと、裏切られるだけの言葉だと思う。その通りで在れるはずがないことはウィリアム自身が一番よくわかっている。だから、果たしてマリアベルの言葉がいつまで『それだけ』で済むのかどうか、曝いてみるのも一興ではないかと、胸中で嗤笑する。──そうだ、と思い立った。日々の間隙で甦る、死に至る病を持たぬあの男の予言が叶うか否か。試してみればいい。</p><p><br></p><p>（次に殺すときにはこの身の裡に蓄積する、八年分の猛毒ごとだ）</p><p><br></p><p>　脳裏をちらつく凍てる碧眼に憎悪を滾らせ。</p><p>　それを押し殺し、ウィリアムは、なら、とマリアベルに話し掛けた。</p><p><br></p><p>「僕とよく知り合ってみる？　ベル」</p><p><br></p><p>　そこで初めて、マリアベルは顔を上げた。</p><p>　緩慢に──</p><p>　穢れない雪で白んだような緑の双眸が、真っ直ぐ、ウィリアムを見る。</p><p><br></p><p>「……駆け引きは好きではないんだけど」</p><p><br></p><p>　邪険にはしなかったが、明らかに億劫そうな返答だった。ウィリアムは笑う。</p><p><br></p><p>「そんな高尚な社交の遊戯にはならないよ。僕は君に対して既に紳士ではないし、君も淑女のふりはしていないでしょう。だから言葉のまま。お互いによく知り合ってみるのは面白そうだと思っただけだ」</p><p>「……本当に失礼なことしか言わないわね、あなた」</p><p>「それは仕方がない。これが君の言うところの、ただのウィリアム、だからね」</p><p><br></p><p>　無邪気を装ってにこりと笑みを整えれば、マリアベルは胡散臭そうに小さく眉を顰め、ややあってから溜息を吐いた。好きにすれば、と呟いて、彼女は視線を手許の本へと戻す。隠す気のない倦怠を滲ませた素振りがやはり可笑しく、ウィリアムは碧眼を眇めた。──と、その一息の間を衝いて、見計らったように、ウィリアム様、と声を掛けられる。振り向かずとも、それが近衛のオーウェンであるのは明らかだった。</p><p>　オーウェン・アビーは、一年前、騎士団長《ヘイデン》と枢密顧問官《エリオット》が揃って遇しただけあって、騎士としてだけではなく従者としても優れた点が多い男だった。レックスに憤激して執務室を飛び出してきたにも関わらず、付かず離れずの距離で見失うことなく随行してきた上、場を汲み取って呼び掛けるあたり抜け目がない。</p><p>　ウィリアムよりも若年であり、生家も取り立てて何があるわけでもない一子爵家ながら、過ぎた多言もなければ畏まり過ぎることもなく、必要であればこうして割って入ってくる──仮にも伯爵家の出身である侍従のアランとは大違いだ。ゆえに、出来過ぎだと考えることも、ウィリアムにはないわけではなかったが。</p><p>　ウィリアムは肩を竦めると、素直に腰を上げた。多分に、このオーウェンを無視したが最後、エリオットが自ら迎えに来るだろうことが嫌に簡単に想像できたからである。原因はレックスの発言にあるとはいえ、政務を投げ出してきたのはウィリアム自身であるし──おのれを結婚させたがっているエリオットのことだ、色々と、それは御免蒙りたい。それならまだ、厭味の方がいい。間違いなく。</p><p>　ウィリアムはマリアベルを見た。やはりこちらの動きにつられる様子もなく読書を続ける彼女に、残念だけど、と告げる。</p><p><br></p><p>「今日は時間切れかな」</p><p><br></p><p>　そう、と打たれる相槌の調子に変化はなく、特別な感情は何も聞こえない。</p><p>　紙の縁を沿い、撫ぜる指先を何とはなしに眺めて、またここに来る予定があるかどうかウィリアムは訊いた。来ないというなら、気晴らしも兼ね、スタインズ侯爵家へ赴いても構わなかったが。しかし予期せず、そうね、と肯定の声がある。</p><p><br></p><p>「一週間に一度くらいは来るつもり。ここの蔵書はわたしにとってとても魅力的だもの」</p><p><br></p><p>　知らせなんてしないから、あなたがわたしの来館に気づくかどうかは知らないけれど、そう淡泊に補足するマリアベルに、ウィリアムは咽喉を鳴らした。そうして、ふと、マリアベルへと歩み寄る。おのれの影が彼女の上に落ちるところまで近づき、身を屈めた。マリアベルが反応するよりも早く。</p><p>　燦々と降る陽射しにきらめく、伏せられた銀灰の睫毛の。</p><p>　その少し上に。</p><p><br></p><p>（おまえに一つ）</p><p><br></p><p>　軽く、口づける。</p><p><br></p><p>（呪いをあげようか、ウィリアム）</p><p><br></p><p>　突然のキスに俯いたままはたりとマリアベルは眸を瞬かせ、それから睨めつけるようにウィリアムを仰ぎ見た。数拍置いて、なに、と彼女はそれまでになく低く唸る。ウィリアムはおのれの美貌を熟知した、極上の笑みを向ける。──耳にこびりついた残響、姿見えぬその亡霊を、おのれが手で再び殺さんが為に。</p><p>　これが同じ轍だというのなら。</p><p><br></p><p>「じゃあ、またここで。マリアベル」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】10. 横顔の肖像]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/11485470/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/11485470</id><summary><![CDATA[「おまえの目的は何だろうね、レックス」　先触れの通りの時刻に王城オクセンシェルナの執務室へ姿を見せた男には一瞥もくれず、手許の書類へ視線を落としたまま、ウィリアムは訊いた。一言の挨拶さえ挟ませずに不躾に投げたその問い掛けにも、しかし相手は一瞬の動揺もなく、普段と変わらない平坦な声で、特に何も、と答えた。「貴方やハーシェル公とは違い、私には一計を案じるような才気はありませんよ。所詮はただの狗《いぬ》ですからね」　どうだか、と口の端で嗤笑しながら、ウィリアムはペンを走らせる。──『大学における神学、聖師父学講義の開講に際し、教皇庁より聖務職者の派遣を依頼致したく』──否、聖師父学とは穏やかではないな、とその請願書に眸を眇めた。聖師父学とは即ち、神の使徒たる教父たちの著作を検討し、異端的思想や無神論に対抗するための学問である。　学閥は──アマルベルガ。　クロンクビストの北、数世紀前に併合された元自由都市国家カマルク発祥の大学群。　学問に制約を設けたくはないが、そう考えながらウィリアムは請願書を不承認の扱いにする。アマルベルガは、学生組合を祖とする自生的な大学群で、王や教皇が主導して設立した大学とは異なる。あらゆる面において自主性が重んじられているのだ。そこに誰がしか『教会』の人間を遣わせたとしたら。　一体何が起こるのか、あくまで見通しではあるが──昏い。（……火種は少ない方がいい）　ウィリアムは込み上げる溜息を殺した。　現教皇、ユストゥス七世は信用に足る人物だが、残念ながら彼の膝許にいる者全てがそうだとは限らない。──おのれが従える者たちと同様に。　クロンクビスト王位奪取のとき、『教会』と闘争を起こしたおのれが、人びとの間で『背教者』と呼ばれていることをウィリアムは知っている。神から王権を授からず、聖職者を追放し、世俗の我欲に塗れた王である、と。聖師父学の名の下に人びとが集い、何を議論するのかはわからない。だが、万が一にでも、国民を巻き込み反現王派を振り翳されては困るのだ。　血濡れた道を歩むことを、自らの意志で選びはしたけれど。　ウィリアムは悟られぬよう、微かに眸を伏せる。（無益な争いをしたいわけじゃない）　今更そんなことを言ったところで、誰が信じるとも思えなかったが。　アマルベルガの請願書を含めた書類の束を続き部屋の秘書官へ渡すようにと、ウィリアムは傍らに控えたアランへ託す。他は、くだらない議案事項ばかりで殆どが棄却や差し戻しなのだが。この場で書類ごと破棄しても構わないというのが本音ではある。「……ただの狗が、近衛騎士の長にまで上り詰めたとは恐れ入る」「ただの狗に過ぎなかったからこそ戴けた地位なのだと、私は思っておりますが」　カツ、と靴の音が鳴る。「先般は、家出娘《マリアベル》の当家在留をご許可下さいましてありがとうございました、陛下」　そこでようやく、ウィリアムは顔を上げた。　深い黒眸と目が合う。　鉄紺のシャツに同色のジレという、王に拝謁するとは思えない軽装で、レックスはそこに──日頃、エリオットが立ち塞がっている場所よりは少し遠いところに──起立していた。その格好は、見る者が見れば眉を顰めるのだろうが、おのれへの対抗手段の一つとして断じてジュストコールを脱がないエリオットに比べれば、ウィリアムにとってはまだしも好いものではあった。　ウィリアムは空いている左手で頬杖をつく。「可愛がっている警戒心の強い狗がめずらしく拾ってきたものだから。おまえが責任を持つと言うし、まあいいかなって」　あの口喧しいエリオットもめずらしく何も言わなかったし、と何の気もなく付け加えれば、そうですかとレックスはうっすらと瞳の奥を緩めた。ウィリアムは瞬く。長く鉄面皮の下に隠していた、騎士団長の職責を担っていたときの烈しさの影が、男の中から薄れているように見えた。　ごく微かに、ではあるが。「……貴方が公を信頼なさっているようで安心しました」　見知った男の表現し難いやんわりとした変化にウィリアムが言葉を探していると、それよりも早く発言があった。こちらを真っ直ぐに見つめてくる黒の双眸を凝然と見返し、ややあって、ウィリアムは視線を逸らした。そうかな、と呼吸の隙間でさざめく。右手に持ったままのペンを無造作に回した。「ハーシェル公爵家の忠誠に猜疑する余地はないし、家長のエリオット・ミラーは文句の付けようもなく優秀な人材だ。排斥せず傍らに置いているのは、ただそれだけの理由かもしれない」「では、公の背信をお疑いになられることもある、と？」　指先で遊ばせていたペンの動きを止め。　それはないけどね、とウィリアムは失笑した。「あれにとって、兄上の命令は絶対だから」　だから単に、エリオット・ミラーという男はウィリアムの部下ではない、という、それだけの話だ。　ウィリアムは表情を読ませぬように眸を伏せ、肘を机に立てたまま、口許を左手で隠した。　──例えば、である。　王《おのれ》が絶対的権力を以て下す厳命よりも、それどころか或いは自身の命よりも、何を差し置いてでも優先すべき事項がエリオットの胸底にはあって、それは兄以外の誰にも覆せない。──エリオットが兄から戴いた下命が何であるのか、ウィリアムは知る由もないが。　ウィリアムは手のひらの裡で、小さく嗤う。「……大したことじゃない。あの人は僕と違って愚かすぎるくらい優しいから、そういうことはないとわかっている」　それゆえに、王の諮問機関である枢密院、その顧問官の筆頭にエリオットを据えているのだ。　エリオットがおのれの従順な手脚にはならなくとも、耳障りの好い甘言もせず、裏切りを予感することもないだけ、他の連中を侍らせるよりはずっといい。ウィリアムはそう思っている。──そう思う、ことにしている。　独白のように話をすれば、少しの間を空けて、そうですか、とレックスは相槌を打った。抑揚のない声音からはウィリアムの言い分に納得したのかどうかわからなかったが、男がそれ以上のことを訊いてくることはなかった。　こちら側に踏み込むか否かのその線引きは、『狗』独特の嗅覚であったのかもしれない。八年前も、ウィリアムに付き従いはしたものの、与えられた任務を遂行する以上のことは何もしなかった男であるから。　しばらくして、アランが新たな書類の束を持って隣室から戻ってきた。ウィリアムは伏していた眼差しを上向けると、改めて机上に向き直った。「用件はそれだけ？　レックス」　それには、是の返答がある。「ご多用のところお時間を頂き感謝申し上げます、陛下」　御前失礼をと、レックスは一礼して踵を返した。ウィリアムは、アランから書類を受け取りながらその背を目端で見送ろうとして──ふと、レックス、と男を呼び止めた。習い性で未だ靴底に武器を仕込んでいるのだろう、嫌に重い跫音が止まる。「……一計を案じる才気などないと、おまえは言ったが」　墨の入った瓶にペン先を浸しながら、ウィリアムは呟く。　もしも本当にそれが真実であるというのであれば。「銀髪に緑眸の娘を僕の前へ連れてくることを、おまえは躊躇わなかったのか？」　スタインズ侯爵レックス・ラドフォードは、家督を継ぐ以前の若年の頃から頭角を現し、長きに渡り父王ダグラスに仕えた、強剛の元近衛騎士だ。この男を目前にして、一体誰が『ただの狗』などと卑下するものか。──あの風貌の女をおのれの目に触れさせたなら、勘気を蒙るだろうことは、レックスは百も承知であったはずである。　それでもなお、あの娘をクロンクビストへと連れてきた。　レックスの返答は、端的だった。「私は頼まれたから彼女をここへ連れてきただけですよ、陛下」　ラドフォードの屋敷での説明をレックスは繰り返す。しかし続けて、それに、と加えた。「容姿は持って産まれたものに過ぎず、彼女という人間の本質を現すものではありません。……ウィリアム様ならおわかり下さるでしょう」　俄然、ウィリアムは鋭く視線を投げつけた。　レックスはこちらを振り返り、ひどく静かな眸でウィリアムを見ている。　罪業の血に呪われた肉体のどこかから湧き上がる、どろどろに澱みきった感情を寸前のところで抑えつけ、どういう意味だと低く質せば、他意はございません、とやはり何の波風もなく男は答えた。彼女とお会いになって頂ければ貴方はきっとご理解下さる、その程度の意味です、と。「ただのじゃじゃ馬ですよ、マリアは」　リーラ様とは。　似ても似つかぬ。　──ガシャン、と激しい音を立て、手許から硝子瓶が飛んだ。背後で一瞬、小さな悲鳴を上げたのはアランだろう。机に広げた書類が文字の一欠片も残さずに墨に沈んでゆく。それどころか、床や壁にも黒は勢いよく飛び散って、惨憺と、それはまるで凝固した血痕のようになった。　だがそれでも、レックスは居竦むこともない。──本当に、この男のどこが『ただの狗』だと言うのか。　乱暴な仕草で椅子から立ち上がったウィリアムは、ぽたぽたと机の縁から落ちる黒い雫を踏み、執務机を回り込むと、正面に立つレックスの方へと歩いてゆく。「おまえがそこまで言うのなら」　常闇の滲んだ。　昏く翳る碧眼を嵌め。　ウィリアムは、レックスの傍らを通り抜ける。「連れてきたんだろう。──どこだ」　金の残影を置いて去ってゆくウィリアムに対し、王の図書室に、とレックスは言った。　父はかつて、一羽の鳥を飼っていた。　世にも美しい、銀の鳥だった。　人目に触れさせず、厳重な籠の中に閉じ込めてこよなく愛したその鳥が、あるときに病を患い死んでしまうと、父は、誰にも気づかれないまま少しずつ、少しずつ狂れていった。年月にして、八年である。銀の鳥が失われてから八年後、父は、──『父』ではないものに、なった。　城の庭園から。　異母姉が、『鳥籠』の窓辺に佇んでいるのを、何度も見た。　父が政務でその部屋を不在にしている昼間、北方特有の刺繍が施された古びたブランケットを肩に掛け、胸の前で掻き合わせて、彼女は窓の外を眺めていた。否、本当に外を見ていたのかは、知らない。青と翡翠のあわいの色をしたうつくしい碧眼は、日がな一日、ただそうしてどこか彼方へ眼差しを向け、時が過ぎ去ると、いつも黙って俯いた。　幼い頃、憧憬と共にあいした、何よりも清らかだった光が潰えてゆくのを。　見ているしかできなかったあの言葉にできない息苦しさを。　掻き毟って血を流してもなお、拭えない胸の痛みを。（どうして忘れ去れる）　王城を抜け、リンドブロム主宮の回廊を通り、ウィリアムは跫音荒く国立図書館へと入ってゆく。身分を偽る方策を何も講じず飛び出してきたがゆえに、行く道でおのれとすれ違う者たちは様々な反応をしていたが、いずれも全て無視した。といっても、胸中で凄まじく荒れ狂うものを全く隠蔽せずに闊歩していたので、話し掛けられるようなことはなかったが。　前触れなく現れたウィリアムに、司書が青褪め対応しようとするのさえも視野から追い出し、館内を進む。　広大なはずの図書館の中で、しかし不思議と、目的の人物はすぐに見つかった。　採光用の窓が最も多く設置された空間の、一番片隅にある二人掛けのソファに腰を下ろして、彼女──マリアベルは本を読んでいた。スタインズ侯爵家で会ったときとは異なり、中流階級のワンピースではなく、飾り気はないけれど綺麗な緑青色のドレスに身を包んで、先日は下ろしていた銀灰の髪をきちんと後頭部で束ね上げている。そのために、すらりとした輪郭が露わになって、彼女の白い頬に伏せた睫毛の影が落ちているのがよく見えた。　手許の本に夢中になっているらしく、マリアベルは、周囲の様子にはまるで頓着していない。　窓から降り注ぐ陽射しを負って。　ひどくきれいに。　銀が、小さく光を弾いている。　その光景を見た途端、ウィリアムは、おのれの裡を占拠していた激情が急速に凋んでゆくのを感じた。寧ろ、自分は一体何をしに来たのかと、心底うんざりするほど冷静になった。額を押さえると、身体の膿を出し切らんとばかりに、果てしなく長い溜息が自ずと溢れた。　──容姿は持って産まれたものに過ぎず。　──彼女という人間の本質を現すものではありません。（……当たり前だ）　レックスの進言が耳許で甦る。ウィリアムは眉を顰めると、奥歯を噛み締め、強く碧眼を閉ざした。目蓋の裡には、闇が、凝っている。　あの日の嘲笑が。　毒になって、蓄積してゆく。（おまえはわかっているのだろう）（わかっていて、なお）（同じ轍を）（罪深き王位を）「──何をしているの？」　図書館の静謐を突如として罅割ったその声に、ウィリアムは顔を上げた。視線を動かせば、片隅のソファに座しているマリアベルと目が合う。彼女の手許の本はたたまれていた。「そんなところに立ったままどうしたの、あなた」　二度、三度と唇を触れ合わせた後、小さく頭を振ってウィリアムは言葉を濁した。マリアベルは白緑の眸を瞬かせると小首を傾げ、レックスがわたしがここにいることをあなたに話したのね、と独りごちる。まあ別にいいけれど、と、侯爵家で見えたときと何も変わらず、彼女の反応は素っ気なかった。　ウィリアムの正体を知らないのか、──『侯爵《レックス》が話をする相手』と認知しているということは、知っているがどうでもいいと思っているのか、その口調からは判断できなかったが。　ウィリアムが口を開く前に、マリアベルは、自身が腰掛けているソファの空いたところに積み上げた本の山を手近な机の上へ退け、どうぞ、と躊躇なく手を延べてきた。「とりあえず座ったら？」「……いや」「でも、わたしの勘違いでなければ、わたしに会いに来たんでしょう？　レックスが何を言ったのかは知らないけれど」　通路のそんなところに突っ立っていられるのも邪魔だし、そう言いながら、マリアベルはそれまで手にしていたのとは違う本を開き、読み出した。やけに分厚い書物だ。よくよく観察すれば、彼女が書棚から出したのだと思われる本の山は、どれも軽微な鈍器になりそうな厚みのものばかりである。王位に就いてからのウィリアムでさえ、好んで読もうとは思わないような──　では誰がと訊かれたなら、兄が。（……兄上みたいだな）　ウィリアムの隣を勧めておきながら、マリアベルは既に読書に没頭し始めていた。会話をする気があるのかも怪しい。暫時呆気に取られてそのさまを見つめ、ウィリアムは知らず微苦笑をはいた。理性では去ろうと思うも──ただやはり、伏せられた銀灰の睫毛、それが弾く光がひどくきれいに感じられて。　背後の玻璃から射し込む陽光に溶けてゆく、本を読む彼女の姿が美しくて。　それがあまりに、遠くの昔日を思わせたものだから。　抗いきれずに足を踏み出した。]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-11-12T10:48:00+00:00</published><updated>2020-11-12T10:48:01+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p>「おまえの目的は何だろうね、レックス」</p><p><br></p><p>　先触れの通りの時刻に王城オクセンシェルナの執務室へ姿を見せた男には一瞥もくれず、手許の書類へ視線を落としたまま、ウィリアムは訊いた。一言の挨拶さえ挟ませずに不躾に投げたその問い掛けにも、しかし相手は一瞬の動揺もなく、普段と変わらない平坦な声で、特に何も、と答えた。</p><p><br></p><p>「貴方やハーシェル公とは違い、私には一計を案じるような才気はありませんよ。所詮はただの狗《いぬ》ですからね」</p><p><br></p><p>　どうだか、と口の端で嗤笑しながら、ウィリアムはペンを走らせる。──『大学における神学、聖師父学講義の開講に際し、教皇庁より聖務職者の派遣を依頼致したく』──否、聖師父学とは穏やかではないな、とその請願書に眸を眇めた。聖師父学とは即ち、神の使徒たる教父たちの著作を検討し、異端的思想や無神論に対抗するための学問である。</p><p>　学閥は──アマルベルガ。</p><p>　クロンクビストの北、数世紀前に併合された元自由都市国家カマルク発祥の大学群。</p><p>　学問に制約を設けたくはないが、そう考えながらウィリアムは請願書を不承認の扱いにする。アマルベルガは、学生組合を祖とする自生的な大学群で、王や教皇が主導して設立した大学とは異なる。あらゆる面において自主性が重んじられているのだ。そこに誰がしか『教会』の人間を遣わせたとしたら。</p><p>　一体何が起こるのか、あくまで見通しではあるが──昏い。</p><p><br></p><p>（……火種は少ない方がいい）</p><p><br></p><p>　ウィリアムは込み上げる溜息を殺した。</p><p>　現教皇、ユストゥス七世は信用に足る人物だが、残念ながら彼の膝許にいる者全てがそうだとは限らない。──おのれが従える者たちと同様に。</p><p>　クロンクビスト王位奪取のとき、『教会』と闘争を起こしたおのれが、人びとの間で『背教者』と呼ばれていることをウィリアムは知っている。神から王権を授からず、聖職者を追放し、世俗の我欲に塗れた王である、と。聖師父学の名の下に人びとが集い、何を議論するのかはわからない。だが、万が一にでも、国民を巻き込み反現王派を振り翳されては困るのだ。</p><p>　血濡れた道を歩むことを、自らの意志で選びはしたけれど。</p><p>　ウィリアムは悟られぬよう、微かに眸を伏せる。</p><p><br></p><p>（無益な争いをしたいわけじゃない）</p><p><br></p><p>　今更そんなことを言ったところで、誰が信じるとも思えなかったが。</p><p>　アマルベルガの請願書を含めた書類の束を続き部屋の秘書官へ渡すようにと、ウィリアムは傍らに控えたアランへ託す。他は、くだらない議案事項ばかりで殆どが棄却や差し戻しなのだが。この場で書類ごと破棄しても構わないというのが本音ではある。</p><p><br></p><p>「……ただの狗が、近衛騎士の長にまで上り詰めたとは恐れ入る」</p><p>「ただの狗に過ぎなかったからこそ戴けた地位なのだと、私は思っておりますが」</p><p><br></p><p>　カツ、と靴の音が鳴る。</p><p><br></p><p>「先般は、家出娘《マリアベル》の当家在留をご許可下さいましてありがとうございました、陛下」</p><p><br></p><p>　そこでようやく、ウィリアムは顔を上げた。</p><p>　深い黒眸と目が合う。</p><p>　鉄紺のシャツに同色のジレという、王に拝謁するとは思えない軽装で、レックスはそこに──日頃、エリオットが立ち塞がっている場所よりは少し遠いところに──起立していた。その格好は、見る者が見れば眉を顰めるのだろうが、おのれへの対抗手段の一つとして断じてジュストコールを脱がないエリオットに比べれば、ウィリアムにとってはまだしも好いものではあった。</p><p>　ウィリアムは空いている左手で頬杖をつく。</p><p><br></p><p>「可愛がっている警戒心の強い狗がめずらしく拾ってきたものだから。おまえが責任を持つと言うし、まあいいかなって」</p><p><br></p><p>　あの口喧しいエリオットもめずらしく何も言わなかったし、と何の気もなく付け加えれば、そうですかとレックスはうっすらと瞳の奥を緩めた。ウィリアムは瞬く。長く鉄面皮の下に隠していた、騎士団長の職責を担っていたときの烈しさの影が、男の中から薄れているように見えた。</p><p>　ごく微かに、ではあるが。</p><p><br></p><p>「……貴方が公を信頼なさっているようで安心しました」</p><p><br></p><p>　見知った男の表現し難いやんわりとした変化にウィリアムが言葉を探していると、それよりも早く発言があった。こちらを真っ直ぐに見つめてくる黒の双眸を凝然と見返し、ややあって、ウィリアムは視線を逸らした。そうかな、と呼吸の隙間でさざめく。右手に持ったままのペンを無造作に回した。</p><p><br></p><p>「ハーシェル公爵家の忠誠に猜疑する余地はないし、家長のエリオット・ミラーは文句の付けようもなく優秀な人材だ。排斥せず傍らに置いているのは、ただそれだけの理由かもしれない」</p><p>「では、公の背信をお疑いになられることもある、と？」</p><p><br></p><p>　指先で遊ばせていたペンの動きを止め。</p><p>　それはないけどね、とウィリアムは失笑した。</p><p><br></p><p>「あれにとって、兄上の命令は絶対だから」</p><p><br></p><p>　だから単に、エリオット・ミラーという男はウィリアムの部下ではない、という、それだけの話だ。</p><p>　ウィリアムは表情を読ませぬように眸を伏せ、肘を机に立てたまま、口許を左手で隠した。</p><p>　──例えば、である。</p><p>　王《おのれ》が絶対的権力を以て下す厳命よりも、それどころか或いは自身の命よりも、何を差し置いてでも優先すべき事項がエリオットの胸底にはあって、それは兄以外の誰にも覆せない。──エリオットが兄から戴いた下命が何であるのか、ウィリアムは知る由もないが。</p><p>　ウィリアムは手のひらの裡で、小さく嗤う。</p><p><br></p><p>「……大したことじゃない。あの人は僕と違って愚かすぎるくらい優しいから、そういうことはないとわかっている」</p><p><br></p><p>　それゆえに、王の諮問機関である枢密院、その顧問官の筆頭にエリオットを据えているのだ。</p><p>　エリオットがおのれの従順な手脚にはならなくとも、耳障りの好い甘言もせず、裏切りを予感することもないだけ、他の連中を侍らせるよりはずっといい。ウィリアムはそう思っている。──そう思う、ことにしている。</p><p>　独白のように話をすれば、少しの間を空けて、そうですか、とレックスは相槌を打った。抑揚のない声音からはウィリアムの言い分に納得したのかどうかわからなかったが、男がそれ以上のことを訊いてくることはなかった。</p><p>　こちら側に踏み込むか否かのその線引きは、『狗』独特の嗅覚であったのかもしれない。八年前も、ウィリアムに付き従いはしたものの、与えられた任務を遂行する以上のことは何もしなかった男であるから。</p><p>　しばらくして、アランが新たな書類の束を持って隣室から戻ってきた。ウィリアムは伏していた眼差しを上向けると、改めて机上に向き直った。</p><p><br></p><p>「用件はそれだけ？　レックス」</p><p><br></p><p>　それには、是の返答がある。</p><p><br></p><p>「ご多用のところお時間を頂き感謝申し上げます、陛下」</p><p><br></p><p>　御前失礼をと、レックスは一礼して踵を返した。ウィリアムは、アランから書類を受け取りながらその背を目端で見送ろうとして──ふと、レックス、と男を呼び止めた。習い性で未だ靴底に武器を仕込んでいるのだろう、嫌に重い跫音が止まる。</p><p><br></p><p>「……一計を案じる才気などないと、おまえは言ったが」</p><p><br></p><p>　墨の入った瓶にペン先を浸しながら、ウィリアムは呟く。</p><p>　もしも本当にそれが真実であるというのであれば。</p><p><br></p><p>「銀髪に緑眸の娘を僕の前へ連れてくることを、おまえは躊躇わなかったのか？」</p><p><br></p><p>　スタインズ侯爵レックス・ラドフォードは、家督を継ぐ以前の若年の頃から頭角を現し、長きに渡り父王ダグラスに仕えた、強剛の元近衛騎士だ。この男を目前にして、一体誰が『ただの狗』などと卑下するものか。──あの風貌の女をおのれの目に触れさせたなら、勘気を蒙るだろうことは、レックスは百も承知であったはずである。</p><p>　それでもなお、あの娘をクロンクビストへと連れてきた。</p><p>　レックスの返答は、端的だった。</p><p><br></p><p>「私は頼まれたから彼女をここへ連れてきただけですよ、陛下」</p><p><br></p><p>　ラドフォードの屋敷での説明をレックスは繰り返す。しかし続けて、それに、と加えた。</p><p><br></p><p>「容姿は持って産まれたものに過ぎず、彼女という人間の本質を現すものではありません。……ウィリアム様ならおわかり下さるでしょう」</p><p><br></p><p>　俄然、ウィリアムは鋭く視線を投げつけた。</p><p>　レックスはこちらを振り返り、ひどく静かな眸でウィリアムを見ている。</p><p>　罪業の血に呪われた肉体のどこかから湧き上がる、どろどろに澱みきった感情を寸前のところで抑えつけ、どういう意味だと低く質せば、他意はございません、とやはり何の波風もなく男は答えた。彼女とお会いになって頂ければ貴方はきっとご理解下さる、その程度の意味です、と。</p><p><br></p><p>「ただのじゃじゃ馬ですよ、マリアは」</p><p><br></p><p>　リーラ様とは。</p><p>　似ても似つかぬ。</p><p>　──ガシャン、と激しい音を立て、手許から硝子瓶が飛んだ。背後で一瞬、小さな悲鳴を上げたのはアランだろう。机に広げた書類が文字の一欠片も残さずに墨に沈んでゆく。それどころか、床や壁にも黒は勢いよく飛び散って、惨憺と、それはまるで凝固した血痕のようになった。</p><p>　だがそれでも、レックスは居竦むこともない。──本当に、この男のどこが『ただの狗』だと言うのか。</p><p>　乱暴な仕草で椅子から立ち上がったウィリアムは、ぽたぽたと机の縁から落ちる黒い雫を踏み、執務机を回り込むと、正面に立つレックスの方へと歩いてゆく。</p><p><br></p><p>「おまえがそこまで言うのなら」</p><p><br></p><p>　常闇の滲んだ。</p><p>　昏く翳る碧眼を嵌め。</p><p>　ウィリアムは、レックスの傍らを通り抜ける。</p><p><br></p><p>「連れてきたんだろう。──どこだ」</p><p><br></p><p>　金の残影を置いて去ってゆくウィリアムに対し、王の図書室に、とレックスは言った。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　父はかつて、一羽の鳥を飼っていた。</p><p>　世にも美しい、銀の鳥だった。</p><p>　人目に触れさせず、厳重な籠の中に閉じ込めてこよなく愛したその鳥が、あるときに病を患い死んでしまうと、父は、誰にも気づかれないまま少しずつ、少しずつ狂れていった。年月にして、八年である。銀の鳥が失われてから八年後、父は、──『父』ではないものに、なった。</p><p>　城の庭園から。</p><p>　異母姉が、『鳥籠』の窓辺に佇んでいるのを、何度も見た。</p><p>　父が政務でその部屋を不在にしている昼間、北方特有の刺繍が施された古びたブランケットを肩に掛け、胸の前で掻き合わせて、彼女は窓の外を眺めていた。否、本当に外を見ていたのかは、知らない。青と翡翠のあわいの色をしたうつくしい碧眼は、日がな一日、ただそうしてどこか彼方へ眼差しを向け、時が過ぎ去ると、いつも黙って俯いた。</p><p>　幼い頃、憧憬と共にあいした、何よりも清らかだった光が潰えてゆくのを。</p><p>　見ているしかできなかったあの言葉にできない息苦しさを。</p><p>　掻き毟って血を流してもなお、拭えない胸の痛みを。</p><p><br></p><p>（どうして忘れ去れる）</p><p><br></p><p>　王城を抜け、リンドブロム主宮の回廊を通り、ウィリアムは跫音荒く国立図書館へと入ってゆく。身分を偽る方策を何も講じず飛び出してきたがゆえに、行く道でおのれとすれ違う者たちは様々な反応をしていたが、いずれも全て無視した。といっても、胸中で凄まじく荒れ狂うものを全く隠蔽せずに闊歩していたので、話し掛けられるようなことはなかったが。</p><p>　前触れなく現れたウィリアムに、司書が青褪め対応しようとするのさえも視野から追い出し、館内を進む。</p><p>　広大なはずの図書館の中で、しかし不思議と、目的の人物はすぐに見つかった。</p><p>　採光用の窓が最も多く設置された空間の、一番片隅にある二人掛けのソファに腰を下ろして、彼女──マリアベルは本を読んでいた。スタインズ侯爵家で会ったときとは異なり、中流階級のワンピースではなく、飾り気はないけれど綺麗な緑青色のドレスに身を包んで、先日は下ろしていた銀灰の髪をきちんと後頭部で束ね上げている。そのために、すらりとした輪郭が露わになって、彼女の白い頬に伏せた睫毛の影が落ちているのがよく見えた。</p><p>　手許の本に夢中になっているらしく、マリアベルは、周囲の様子にはまるで頓着していない。</p><p>　窓から降り注ぐ陽射しを負って。</p><p>　ひどくきれいに。</p><p>　銀が、小さく光を弾いている。</p><p>　その光景を見た途端、ウィリアムは、おのれの裡を占拠していた激情が急速に凋んでゆくのを感じた。寧ろ、自分は一体何をしに来たのかと、心底うんざりするほど冷静になった。額を押さえると、身体の膿を出し切らんとばかりに、果てしなく長い溜息が自ずと溢れた。</p><p>　──容姿は持って産まれたものに過ぎず。</p><p>　──彼女という人間の本質を現すものではありません。</p><p><br></p><p>（……当たり前だ）</p><p><br></p><p>　レックスの進言が耳許で甦る。ウィリアムは眉を顰めると、奥歯を噛み締め、強く碧眼を閉ざした。目蓋の裡には、闇が、凝っている。</p><p>　あの日の嘲笑が。</p><p>　毒になって、蓄積してゆく。</p><p><br></p><p>（おまえはわかっているのだろう）</p><p>（わかっていて、なお）</p><p>（同じ轍を）</p><p>（罪深き王位を）</p><p><br></p><p>「──何をしているの？」</p><p><br></p><p>　図書館の静謐を突如として罅割ったその声に、ウィリアムは顔を上げた。視線を動かせば、片隅のソファに座しているマリアベルと目が合う。彼女の手許の本はたたまれていた。</p><p><br></p><p>「そんなところに立ったままどうしたの、あなた」</p><p><br></p><p>　二度、三度と唇を触れ合わせた後、小さく頭を振ってウィリアムは言葉を濁した。マリアベルは白緑の眸を瞬かせると小首を傾げ、レックスがわたしがここにいることをあなたに話したのね、と独りごちる。まあ別にいいけれど、と、侯爵家で見えたときと何も変わらず、彼女の反応は素っ気なかった。</p><p>　ウィリアムの正体を知らないのか、──『侯爵《レックス》が話をする相手』と認知しているということは、知っているがどうでもいいと思っているのか、その口調からは判断できなかったが。</p><p>　ウィリアムが口を開く前に、マリアベルは、自身が腰掛けているソファの空いたところに積み上げた本の山を手近な机の上へ退け、どうぞ、と躊躇なく手を延べてきた。</p><p><br></p><p>「とりあえず座ったら？」</p><p>「……いや」</p><p>「でも、わたしの勘違いでなければ、わたしに会いに来たんでしょう？　レックスが何を言ったのかは知らないけれど」</p><p><br></p><p>　通路のそんなところに突っ立っていられるのも邪魔だし、そう言いながら、マリアベルはそれまで手にしていたのとは違う本を開き、読み出した。やけに分厚い書物だ。よくよく観察すれば、彼女が書棚から出したのだと思われる本の山は、どれも軽微な鈍器になりそうな厚みのものばかりである。王位に就いてからのウィリアムでさえ、好んで読もうとは思わないような──</p><p>　では誰がと訊かれたなら、兄が。</p><p><br></p><p>（……兄上みたいだな）</p><p><br></p><p>　ウィリアムの隣を勧めておきながら、マリアベルは既に読書に没頭し始めていた。会話をする気があるのかも怪しい。暫時呆気に取られてそのさまを見つめ、ウィリアムは知らず微苦笑をはいた。理性では去ろうと思うも──ただやはり、伏せられた銀灰の睫毛、それが弾く光がひどくきれいに感じられて。</p><p>　背後の玻璃から射し込む陽光に溶けてゆく、本を読む彼女の姿が美しくて。</p><p>　それがあまりに、遠くの昔日を思わせたものだから。</p><p>　抗いきれずに足を踏み出した。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】09. 鳥籠の不在証明論]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10668005/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10668005</id><summary><![CDATA[　侯爵家へ居候し始めて数日後には定位置となった、談話室から庭へと通じる窓辺に普段通り椅子を置き、外から吹き込むぬるい風を感じながら── 一歩敷居を跨げばそこにテラスがあるのだが、陽射しが暑くて嫌なので室内にいる──、これもまた普段通りにマリアベルが本を読んでいたところ、オトウサマから、マリア、と呼び掛けられた。レックスもマリアベルを愛称で呼ぶのが大分習慣付いたようである。会話の端緒で彼が呼名に一瞬口ごもる回数も、マリアベルがそれを指摘する回数も、随分と減った。手許の本に視線を落としたまま、なに、とマリアベルは応える。　二十以上も年下である、レックスから見れば小娘に過ぎない人間のぞんざいな振る舞いにも小言を言うことなく──諦念を憶えたのかもしれないが──、談話室へと入ってきたレックスはそのままマリアベルへと近づいてきて、本の間に一枚の紙を落とした。一目で高級紙とわかるそれには、末筆に、青墨の署名が記してある。　貴女の当家での在留権について陛下から正式に許可が下りた、とレックスは言った。「出生が詳《つまび》らかではないため、スタインズ侯爵令嬢の身分は与えないが、国内でラドフォードの家名を名乗ることは許して下さるそうだ」　レックスが持参した紙──認可状を拾い、ざっとその文面に目を通して、マリアベルは顔を上げた。レックスを見返して、瞬く。 「案外あっさりだったわ」 　思わず零した感想に対し、意外か、とレックスが訊ねるので、しばらく考えて、そうね、とマリアベルは小首を傾げた。先日この屋敷で、図らずも目通りしたときのマリアベルの印象では、口頭ではあのように言っていても、後日調査のあれこれにとやかく理由を付け、多少は許可を渋るのではないかと考えていたのが、正直なところだ。 　マリアベルが差し出した認可状を受け取ったレックスは、めずらしく微苦笑をはいた。話をし易い距離感の、手近なソファに腰掛ける。 「まあ、あの方は、……貴女自身が気に障って、ああいう物言いをしたわけではないだろうから。生来は、自制心が強く物事を客観視することに長けた、冷静なお人だ」 　不躾に誰何して、舌打ちを重ね、この女呼ばわりするような、あれが？
　初対面のときの態度を思い出し、マリアベルはつい、眉を顰めた。 「とてもそうは見えなかったけれど」 　声音は低く、自覚できるくらいに不服そうな響きになった。仕方がない。あのときの『ウィリアム』はどう考えても本当に失礼極まりなかった。 　マリアベルの反駁に、レックスは黒眸を丸くさせ、それからこれもまためずらしく、おかしそうに咽喉を鳴らした。なに、とマリアベルが怪訝に眦を吊ると、いや、とレックスは右手を丸めた拳で自身の口許を隠す。明らかに笑っている。今の会話の一体何が愉快だったのか、マリアベルには皆目見当が付かない。 　しかし、強く睨めつければ却って逆効果のような気がして、マリアベルは浅い溜息と同時に目線を本へと戻した。 　さぁ、と── 　庭に植栽された花木を小さく騒がせて、風が吹き抜けてゆく。 　その風は窓際を飾るレースのカーテンを踊らせ、後頭部で軽く一つに結わえただけの銀灰の髪を揺らして、微かに汗の滲んだマリアベルの首筋を撫ぜて去っていった。 「……穏やかなご気性の方でしたよ」 　室内に吹き込んで消えてしまう風を惜しむように、ぽつり、レックスはささめいた。 　敬語はだめだと言っているでしょう、マリアベルは男にそう注意しようとして、ふと、その言葉を飲み下した。マリアベルの目端に引っ掛かったレックスはこちらを見ておらず、常には毅然と伸ばしている大きな背を少しだけ丸め、前傾になった身体の内側で両手を組み、俯きがちにそれを見つめていた。マリアベルは首を擡げる。　臣下である私の目から見ても、陛下の御子の中では最も王座に関心がなく、万事が平静であることを望まれていた、お優しい殿下でした──レックスは独白のように言う。マリアベルは人生の年輪を重ねた壮年の男の横顔を見つめ、何も問わず、黙ってその話を聞いていた。 「あの方も頭がよく優秀ではありましたが、歳の離れた兄君が王位に就かれることこそが最良であるとお考えだったと思います。それは優れた頭脳や才覚ではなく、人が人を信ずるに足るものを、王の御子の中でお持ちになっているのは、ただ一人、兄のサディアス様だけだと──」 　ひどく静かなその声は。　泣いているみたいだとマリアベルは思った。 「……齢十三に過ぎなかったのです」 　あの方もまた。 　幼く柔らかなお心の、成長の途中だった。 　レックスはそう呟いて、さらに言葉を継ごうとしてそれを躊躇ったのち、結局口を閉ざした。滲み出た感情を抑えるかの如くに目蓋を下ろす。今もなお、身体の前で組み合わせた両手は祈りの形を成していたが、マリアベルには懺悔のような気もしたし、何の意味もないもののような気もした。──意味がないと感じるのは、マリアベルの裡に巣喰うもう一人の自分が、祈りや懺悔といった行為にひどく否定的であるからなのかもしれなかった。 　手にした本の柔くかさついた手触りとは反対に、指先が凝り、引き攣る。土と雪と血の感触が混濁する。 　剥がれ墜ちてきた天空の欠片で湿ってゆく銀灰の髪を掴み上げ、ほら、と嗤笑う声がする。（ここがこの世の果てですよ、マリア） （今の貴女にできることは） （私の傀儡になる以外、何もないのですから） 　マリアベルはレックスから顔を背けて、窓の外を見遣った。晴れ渡る青空、網膜を灼くほどの光が溢れている。気紛れな風が、本の紙の端をぺらぺらと捲る。庭園では花びらを揶揄って── 　風の足跡を追い掛け、マリアベルは白緑の眸を細めた。 　全てを殺す、凍てる雪の代わりに。 　花びらが降り注ぐ。 　──清らかぶったマリアベルの手を、今にも手折れそうにひどく華奢な手が掬う。癒えぬ傷だらけであったのに、指を絡め、触れたその手のひらはあたたかかった。昨日のことのように甦る。脳裏を掠めてゆく、深緑と花の、静謐。　その向こうから、雪白で澱んだこの眸を見つめた深い碧眼を思い出して、マリアベルはひっそりと溜息を吐いた。爪先まで力を籠める。眸を伏せ、手許の本を見た。 「話は終わりかしら、レックス。わたし、読書を続けてもよくて？」 　普段通りの調子で、声を吐くことができた。大丈夫、と胸中で独りごちる。 　歌えぬ鳥は羽ばたいた。籠の中にはいない。 　ふ、と静かな視線を投げてくる気配があり、それはそのまま穏やかに空気を緩めた。義父は、苦笑したのかもしれない。面と向かって表情を見なくとも、それくらいの機微を察することはできた。……生活をともにすることで誰かと親しんでゆくことを、今はもう、恐ろしいとは感じない。　そろそろ屋敷の蔵書を全部読破しそうだな、と言いながら、レックスはソファから立ち上がった。 「書物が好きなところはあの方と同じだな。雛は育ての親に似るのか」 「あれは親ではないしわたしも雛ではないわ。それからあいつと一緒にしないでくれる？　あれは異常よ、異常」 　人ではないのよあれは、脳の構造がどうなっているのか一度解剖してもらいたいものだわ、とマリアベルが渋面になって吐き捨てると、そうか、とレックスはただ相槌を打った。カーテンが揺れ動き、木漏れ日のように、光が舞い踊る。 　読み物がなくなったら国立図書館を案内しよう、半身を出入口の方へと向けながら、レックスは提案をした。マリアベルは思わず、子どものようにぱっと顔を上げてしまう。交わした視線の先で、黒眸を嵌めた眦が柔く綻び、やはりよく似ていると囁きかけてきたような気がした。 「長く武官の一族だから元より然程蔵書もない屋敷だ、そちらの方が貴女は楽しいだろう？」 「……ありがとう」 　おのれの無邪気さが露呈した気恥ずかしさに、礼を述べる声は小さくなってしまったが。 　銀灰の髪と戯れてゆくクロンクビストのぬるい初夏の風を、そのときようやく、マリアベルは少しだけ心地好く思った。 　レックスと交わした約束は、数日後には果たされることになった。 　国立図書館は三区セーデンの北東に接する一区ヒュランデル内に建造されており、三区に建ち並ぶ貴族の屋敷とは異なる方角で、王城オクセンシェルナ、とりわけクロンクビスト王族の城館であるリンドブロム主宮に至近している。名称こそ国立図書館とは言うものの、収書の大半は歴代のクロンクビスト王による個人的な蒐集物で、今でも『王の図書室』の異名を取り、入館に際しては確固たる身分証明が必要だった。先立って国王の許可を受けていなければ、例えスタインズ侯爵本人が同伴したところで、外国人であるマリアベルが足を踏み入れることはできなかっただろう。 　ラドフォードの家名に因って入館した国立図書館のさまは、圧巻だった。 　書物を司る異教の神に導かれ、象眼細工の施された大扉を潜ると、連続する丸天井の下に高級木材《スウィテニア》で作られた書棚が天地隙間なく据え置かれている。直線に伸びた歩廊は長く、最奥が暗がりに消えているため、さも果てがないように続く。柱頭を黄金で装飾した大理石の柱に、歴史上の偉人の彫刻。歩廊の半ばに設けられた大間《ホール》は円蓋になっており、マリアベルでも知っている著名な工房の画家の手による聖書の一場面を切り取った天井画が、所狭しと描かれていた。　所蔵が傷まないようにだろう、窓の数はあまり多くなかったが、それでもきちんと採光できるよう計算された大窓もまた陽光を透かして美しく、一筋一筋が射すように閲覧用の机を照らしている。 　マリアベルの目から見れば、図書館内の設えは絢爛すぎるきらいはあったけれども、これもクロンクビストが築いてきた栄華であるということなのだろう。しかし、とにかく想像以上に蔵書が多い。ミルヴェーデンでおのれが棲み家にしていたところの比ではなかった。何万冊収蔵されているのか、どこの書棚から見てみようかと、湧き上がる好奇心が抑えられない。 　すごいわ、と、マリアベルは声をひそめながらも感嘆する。 「今日初めて、クロンクビストに来てよかったと思ったわ！」 　身分確認を要する場所へ行くのにさすがに見窄らしい踝丈のワンピースでは疑わしいだろうと、已むなく着用した緑青色のドレスの裾をくるくると踊らせて、マリアベルはレックスの隣を歩いてゆく。レックスは微苦笑をはき、迷子になるなよ、と一所に留まれない子どもへ向けるみたいな忠告をする。 「禁帯出以外の本は借りられる。貸出期限や冊数は、司書に相談すれば融通を利かせてくれるはずだ。家令にはこのことを伝えておいたから、来たければ毎日ここまで来ても構わないが」 　三区側から王城に近い侯爵家と、一区側から主宮に近い国立図書館は、広大な城の敷地の端から端まで移動していることに等しい。図々しい居候の自覚のあるマリアベルでも、毎日通うのは侯爵家の従者には負担だろうと思った。それに、毎日の馬車移動はどう考えても時間の無駄である。 「借りられるだけ借りて、一週間に一度くらいの頻度で来ることにするわ」 「屋敷に引き籠もる気しかないな、貴女は」 　やれやれとレックスが肩を竦めるので、クロンクビストが暑すぎるのが悪いのよ、とマリアベルは反論した。街を歩いてみたい気持ちもないわけではないのだが、洋上の客船からエイジェルステットへやって来た日のことを思い返すと、ものの数分で嫌になる想像しかできない。けれどその点、国立図書館は涼しくてよい。一週間に一度は外出してもいいと思える程度には。 　レックスの取り計らいで、マリアベルは司書長の老人と、図書館長の任に就く某という中年の伯爵に会い、挨拶をした。後者に関しては恐らく名誉職であろうし、マリアベルの本音を言えばかなりどうでもよかったが、快適に図書館を利用するため背に腹は替えられないので、仕方なくである。クロンクビストの政情を鑑みれば、この顔は覚えられないに越したことはないのだけれど、先方が矢鱈と観察してきたので、残念ながら願い通りにはなっていないだろう。 　一通り館内を案内してもらった後、王城へ顔を出すというレックスとは一度別れることになった。少しでも不審を感じたら首を突っ込まずにその場を去ってくれと言われたので、善処するとだけマリアベルは答えた。場所が場所だけに、努力義務、とするしかない。 　静かな環境で、少数の人の跫音が響く。 　侯爵家の書棚と違い、端から一冊ずつ見てゆくのは困難だったので、マリアベルはとりあえず目に付いた本のところで立ち止まった。 「──おや、これは」 　マリアベルが青い背表紙の一冊を手に取り、不作法にも棚を前に立ったまま中を読み始めたところ、声を掛けられた。 「見慣れないお嬢さんがいらっしゃる」 　聞こえなかったことにして、無視──とはいかないようだった。 　マリアベルは本を持ったまま、顔だけを声の主の方へと向ける。そこにいたのは、褐色の肌に黒髪、やや骨張った輪郭の男だった。日陰のせいか、第一印象は若いとも老いているとも付かない。平素、貴族が身に着けているジュストコールとは趣を異にする、体格の判別し辛い、赤──否、緋色の着衣を纏っている。瞳は鳥羽色で、片目にモノクルを掛けていた。男の年齢が不詳に思われるのはそのためかもしれない。 　マリアベルは、視線を遣る以外の反応は何もせずに、相手の挙動を待った。男は気分を害した様子もなく、初めましてですかな、と微笑んだ。 「王の図書室にご令嬢がお出でになるのはめずらしいので、つい。お一人のようにお見受けするが、ご挨拶しても失礼には当たらないかね」 「……マリアベルと申しますわ、閣下」 　先に名乗られては困る。男が話している間にすかさず本を書棚へと返し、マリアベルはドレスの裾を抓むと、正しく淑女の礼を取った。 　閣下とは、と男はくぐもった笑い声を洩らした。 「私はそのように畏まられるほど大層な身分ではないよ、お嬢さん。──ジュードという。貴女はどうやら、とても本がお好きなようだ」 　これはまた随分と難しい書棚の前におられる、そう言って、男は天井まで達する棚を眺める。マリアベルは素知らぬ顔で、そうでしょうか、と相槌を打った。些か為損なった感は否めない。浮き足立っていたので、適当に棚を選びすぎた。マリアベルが読む本は、普通の令嬢が読むには嫌に堅苦しいのだ。 　だが、余計な補完は墓穴を掘るだけである。口数を少なくし、人見知りを装えばいい。レックスが言うには、自分は引き籠もりだそうだから。 　そうしてそれ以上一言も口を開かずにいると、男はマリアベルの方へ向き直り、まるで道化師のように首を竦めた。 「いや、お嬢さんの読書のお邪魔をして悪かった。お若い女性の読み物には縁がないので、少し興味があってね」 　どうぞごゆっくり、と男は胸に手を当て、室内のため下げる帽子がなく、ささやかに腰を折って礼をした。ありがとうございます、とだけ、マリアベルは返答した。 　マリアベルの隣を摺り抜け、そのまま歩廊を去ってゆくかと思われた男は、しかし、何かを思い出したかのように振り返ってもう一度マリアベルを見た。男の姿が見えなくなるまで本に手を伸ばす気のなかったマリアベルは、再び男と対面する形になる。どこからか射し込んだか細い光が、男のモノクルの銀縁を罅割っている。 　言い忘れましたな、と。 　男は、わらった。 「銀髪に緑眸とは何とお美しい。また是非ともお会いしたいと思いますよ、マリアベル」 ]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-10-07T10:56:13+00:00</published><updated>2020-10-07T11:18:19+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p data-placeholder=""><br></p><p>　侯爵家へ居候し始めて数日後には定位置となった、談話室から庭へと通じる窓辺に普段通り椅子を置き、外から吹き込むぬるい風を感じながら── 一歩敷居を跨げばそこにテラスがあるのだが、陽射しが暑くて嫌なので室内にいる──、これもまた普段通りにマリアベルが本を読んでいたところ、オトウサマから、マリア、と呼び掛けられた。レックスもマリアベルを愛称で呼ぶのが大分習慣付いたようである。会話の端緒で彼が呼名に一瞬口ごもる回数も、マリアベルがそれを指摘する回数も、随分と減った。手許の本に視線を落としたまま、なに、とマリアベルは応える。<br></p><p>　二十以上も年下である、レックスから見れば小娘に過ぎない人間のぞんざいな振る舞いにも小言を言うことなく──諦念を憶えたのかもしれないが──、談話室へと入ってきたレックスはそのままマリアベルへと近づいてきて、本の間に一枚の紙を落とした。一目で高級紙とわかるそれには、末筆に、青墨の署名が記してある。</p><p>　貴女の当家での在留権について陛下から正式に許可が下りた、とレックスは言った。<br></p><p><br></p><p>「出生が詳《つまび》らかではないため、スタインズ侯爵令嬢の身分は与えないが、国内でラドフォードの家名を名乗ることは許して下さるそうだ」<br></p><p><br></p><p>　レックスが持参した紙──認可状を拾い、ざっとその文面に目を通して、マリアベルは顔を上げた。レックスを見返して、瞬く。&nbsp;</p><p><br></p><p>「案外あっさりだったわ」&nbsp;</p><p><br></p><p>　思わず零した感想に対し、意外か、とレックスが訊ねるので、しばらく考えて、そうね、とマリアベルは小首を傾げた。先日この屋敷で、図らずも目通りしたときのマリアベルの印象では、口頭ではあのように言っていても、後日調査のあれこれにとやかく理由を付け、多少は許可を渋るのではないかと考えていたのが、正直なところだ。&nbsp;</p><p>　マリアベルが差し出した認可状を受け取ったレックスは、めずらしく微苦笑をはいた。話をし易い距離感の、手近なソファに腰掛ける。&nbsp;</p><p><br></p><p>「まあ、あの方は、……貴女自身が気に障って、ああいう物言いをしたわけではないだろうから。生来は、自制心が強く物事を客観視することに長けた、冷静なお人だ」&nbsp;</p><p><br></p><p>　不躾に誰何して、舌打ちを重ね、この女呼ばわりするような、あれが？
　初対面のときの態度を思い出し、マリアベルはつい、眉を顰めた。&nbsp;</p><p><br></p><p>「とてもそうは見えなかったけれど」&nbsp;</p><p><br></p><p>　声音は低く、自覚できるくらいに不服そうな響きになった。仕方がない。あのときの『ウィリアム』はどう考えても本当に失礼極まりなかった。&nbsp;</p><p>　マリアベルの反駁に、レックスは黒眸を丸くさせ、それからこれもまためずらしく、おかしそうに咽喉を鳴らした。なに、とマリアベルが怪訝に眦を吊ると、いや、とレックスは右手を丸めた拳で自身の口許を隠す。明らかに笑っている。今の会話の一体何が愉快だったのか、マリアベルには皆目見当が付かない。&nbsp;</p><p>　しかし、強く睨めつければ却って逆効果のような気がして、マリアベルは浅い溜息と同時に目線を本へと戻した。&nbsp;</p><p>　さぁ、と──&nbsp;</p><p>　庭に植栽された花木を小さく騒がせて、風が吹き抜けてゆく。&nbsp;</p><p>　その風は窓際を飾るレースのカーテンを踊らせ、後頭部で軽く一つに結わえただけの銀灰の髪を揺らして、微かに汗の滲んだマリアベルの首筋を撫ぜて去っていった。&nbsp;</p><p><br></p><p>「……穏やかなご気性の方でしたよ」&nbsp;</p><p><br></p><p>　室内に吹き込んで消えてしまう風を惜しむように、ぽつり、レックスはささめいた。&nbsp;</p><p>　敬語はだめだと言っているでしょう、マリアベルは男にそう注意しようとして、ふと、その言葉を飲み下した。マリアベルの目端に引っ掛かったレックスはこちらを見ておらず、常には毅然と伸ばしている大きな背を少しだけ丸め、前傾になった身体の内側で両手を組み、俯きがちにそれを見つめていた。マリアベルは首を擡げる。</p><p>　臣下である私の目から見ても、陛下の御子の中では最も王座に関心がなく、万事が平静であることを望まれていた、お優しい殿下でした──レックスは独白のように言う。マリアベルは人生の年輪を重ねた壮年の男の横顔を見つめ、何も問わず、黙ってその話を聞いていた。&nbsp;</p><p><br></p><p>「あの方も頭がよく優秀ではありましたが、歳の離れた兄君が王位に就かれることこそが最良であるとお考えだったと思います。それは優れた頭脳や才覚ではなく、人が人を信ずるに足るものを、王の御子の中でお持ちになっているのは、ただ一人、兄のサディアス様だけだと──」&nbsp;</p><p><br></p><p>　ひどく静かなその声は。</p><p>　泣いているみたいだとマリアベルは思った。&nbsp;</p><p><br></p><p>「……齢十三に過ぎなかったのです」&nbsp;</p><p><br></p><p>　あの方もまた。&nbsp;</p><p>　幼く柔らかなお心の、成長の途中だった。&nbsp;</p><p>　レックスはそう呟いて、さらに言葉を継ごうとしてそれを躊躇ったのち、結局口を閉ざした。滲み出た感情を抑えるかの如くに目蓋を下ろす。今もなお、身体の前で組み合わせた両手は祈りの形を成していたが、マリアベルには懺悔のような気もしたし、何の意味もないもののような気もした。──意味がないと感じるのは、マリアベルの裡に巣喰うもう一人の自分が、祈りや懺悔といった行為にひどく否定的であるからなのかもしれなかった。&nbsp;</p><p>　手にした本の柔くかさついた手触りとは反対に、指先が凝り、引き攣る。土と雪と血の感触が混濁する。&nbsp;</p><p>　剥がれ墜ちてきた天空の欠片で湿ってゆく銀灰の髪を掴み上げ、ほら、と嗤笑う声がする。</p><p><br></p><p>（ここがこの世の果てですよ、マリア）&nbsp;</p><p>（今の貴女にできることは）&nbsp;</p><p>（私の傀儡になる以外、何もないのですから）&nbsp;</p><p><br></p><p>　マリアベルはレックスから顔を背けて、窓の外を見遣った。晴れ渡る青空、網膜を灼くほどの光が溢れている。気紛れな風が、本の紙の端をぺらぺらと捲る。庭園では花びらを揶揄って──&nbsp;</p><p>　風の足跡を追い掛け、マリアベルは白緑の眸を細めた。&nbsp;</p><p>　全てを殺す、凍てる雪の代わりに。&nbsp;</p><p>　花びらが降り注ぐ。&nbsp;</p><p>　──清らかぶったマリアベルの手を、今にも手折れそうにひどく華奢な手が掬う。癒えぬ傷だらけであったのに、指を絡め、触れたその手のひらはあたたかかった。昨日のことのように甦る。脳裏を掠めてゆく、深緑と花の、静謐。</p><p>　その向こうから、雪白で澱んだこの眸を見つめた深い碧眼を思い出して、マリアベルはひっそりと溜息を吐いた。爪先まで力を籠める。眸を伏せ、手許の本を見た。&nbsp;</p><p><br></p><p>「話は終わりかしら、レックス。わたし、読書を続けてもよくて？」&nbsp;</p><p><br></p><p>　普段通りの調子で、声を吐くことができた。大丈夫、と胸中で独りごちる。&nbsp;</p><p>　歌えぬ鳥は羽ばたいた。籠の中にはいない。&nbsp;</p><p>　ふ、と静かな視線を投げてくる気配があり、それはそのまま穏やかに空気を緩めた。義父は、苦笑したのかもしれない。面と向かって表情を見なくとも、それくらいの機微を察することはできた。……生活をともにすることで誰かと親しんでゆくことを、今はもう、恐ろしいとは感じない。</p><p>　そろそろ屋敷の蔵書を全部読破しそうだな、と言いながら、レックスはソファから立ち上がった。&nbsp;</p><p><br></p><p>「書物が好きなところはあの方と同じだな。雛は育ての親に似るのか」&nbsp;</p><p>「あれは親ではないしわたしも雛ではないわ。それからあいつと一緒にしないでくれる？　あれは異常よ、異常」&nbsp;</p><p><br></p><p>　人ではないのよあれは、脳の構造がどうなっているのか一度解剖してもらいたいものだわ、とマリアベルが渋面になって吐き捨てると、そうか、とレックスはただ相槌を打った。カーテンが揺れ動き、木漏れ日のように、光が舞い踊る。&nbsp;</p><p>　読み物がなくなったら国立図書館を案内しよう、半身を出入口の方へと向けながら、レックスは提案をした。マリアベルは思わず、子どものようにぱっと顔を上げてしまう。交わした視線の先で、黒眸を嵌めた眦が柔く綻び、やはりよく似ていると囁きかけてきたような気がした。&nbsp;</p><p><br></p><p>「長く武官の一族だから元より然程蔵書もない屋敷だ、そちらの方が貴女は楽しいだろう？」&nbsp;</p><p>「……ありがとう」&nbsp;</p><p><br></p><p>　おのれの無邪気さが露呈した気恥ずかしさに、礼を述べる声は小さくなってしまったが。&nbsp;</p><p>　銀灰の髪と戯れてゆくクロンクビストのぬるい初夏の風を、そのときようやく、マリアベルは少しだけ心地好く思った。&nbsp;</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　レックスと交わした約束は、数日後には果たされることになった。&nbsp;</p><p>　国立図書館は三区セーデンの北東に接する一区ヒュランデル内に建造されており、三区に建ち並ぶ貴族の屋敷とは異なる方角で、王城オクセンシェルナ、とりわけクロンクビスト王族の城館であるリンドブロム主宮に至近している。名称こそ国立図書館とは言うものの、収書の大半は歴代のクロンクビスト王による個人的な蒐集物で、今でも『王の図書室』の異名を取り、入館に際しては確固たる身分証明が必要だった。先立って国王の許可を受けていなければ、例えスタインズ侯爵本人が同伴したところで、外国人であるマリアベルが足を踏み入れることはできなかっただろう。&nbsp;</p><p>　ラドフォードの家名に因って入館した国立図書館のさまは、圧巻だった。&nbsp;</p><p>　書物を司る異教の神に導かれ、象眼細工の施された大扉を潜ると、連続する丸天井の下に高級木材《スウィテニア》で作られた書棚が天地隙間なく据え置かれている。直線に伸びた歩廊は長く、最奥が暗がりに消えているため、さも果てがないように続く。柱頭を黄金で装飾した大理石の柱に、歴史上の偉人の彫刻。歩廊の半ばに設けられた大間《ホール》は円蓋になっており、マリアベルでも知っている著名な工房の画家の手による聖書の一場面を切り取った天井画が、所狭しと描かれていた。</p><p>　所蔵が傷まないようにだろう、窓の数はあまり多くなかったが、それでもきちんと採光できるよう計算された大窓もまた陽光を透かして美しく、一筋一筋が射すように閲覧用の机を照らしている。&nbsp;</p><p>　マリアベルの目から見れば、図書館内の設えは絢爛すぎるきらいはあったけれども、これもクロンクビストが築いてきた栄華であるということなのだろう。しかし、とにかく想像以上に蔵書が多い。ミルヴェーデンでおのれが棲み家にしていたところの比ではなかった。何万冊収蔵されているのか、どこの書棚から見てみようかと、湧き上がる好奇心が抑えられない。&nbsp;</p><p>　すごいわ、と、マリアベルは声をひそめながらも感嘆する。&nbsp;</p><p><br></p><p>「今日初めて、クロンクビストに来てよかったと思ったわ！」&nbsp;</p><p><br></p><p>　身分確認を要する場所へ行くのにさすがに見窄らしい踝丈のワンピースでは疑わしいだろうと、已むなく着用した緑青色のドレスの裾をくるくると踊らせて、マリアベルはレックスの隣を歩いてゆく。レックスは微苦笑をはき、迷子になるなよ、と一所に留まれない子どもへ向けるみたいな忠告をする。&nbsp;</p><p><br></p><p>「禁帯出以外の本は借りられる。貸出期限や冊数は、司書に相談すれば融通を利かせてくれるはずだ。家令にはこのことを伝えておいたから、来たければ毎日ここまで来ても構わないが」&nbsp;</p><p><br></p><p>　三区側から王城に近い侯爵家と、一区側から主宮に近い国立図書館は、広大な城の敷地の端から端まで移動していることに等しい。図々しい居候の自覚のあるマリアベルでも、毎日通うのは侯爵家の従者には負担だろうと思った。それに、毎日の馬車移動はどう考えても時間の無駄である。&nbsp;</p><p><br></p><p>「借りられるだけ借りて、一週間に一度くらいの頻度で来ることにするわ」&nbsp;</p><p>「屋敷に引き籠もる気しかないな、貴女は」&nbsp;</p><p><br></p><p>　やれやれとレックスが肩を竦めるので、クロンクビストが暑すぎるのが悪いのよ、とマリアベルは反論した。街を歩いてみたい気持ちもないわけではないのだが、洋上の客船からエイジェルステットへやって来た日のことを思い返すと、ものの数分で嫌になる想像しかできない。けれどその点、国立図書館は涼しくてよい。一週間に一度は外出してもいいと思える程度には。&nbsp;</p><p>　レックスの取り計らいで、マリアベルは司書長の老人と、図書館長の任に就く某という中年の伯爵に会い、挨拶をした。後者に関しては恐らく名誉職であろうし、マリアベルの本音を言えばかなりどうでもよかったが、快適に図書館を利用するため背に腹は替えられないので、仕方なくである。クロンクビストの政情を鑑みれば、この顔は覚えられないに越したことはないのだけれど、先方が矢鱈と観察してきたので、残念ながら願い通りにはなっていないだろう。&nbsp;</p><p>　一通り館内を案内してもらった後、王城へ顔を出すというレックスとは一度別れることになった。少しでも不審を感じたら首を突っ込まずにその場を去ってくれと言われたので、善処するとだけマリアベルは答えた。場所が場所だけに、努力義務、とするしかない。&nbsp;</p><p>　静かな環境で、少数の人の跫音が響く。&nbsp;</p><p>　侯爵家の書棚と違い、端から一冊ずつ見てゆくのは困難だったので、マリアベルはとりあえず目に付いた本のところで立ち止まった。&nbsp;</p><p><br></p><p>「──おや、これは」&nbsp;</p><p><br></p><p>　マリアベルが青い背表紙の一冊を手に取り、不作法にも棚を前に立ったまま中を読み始めたところ、声を掛けられた。&nbsp;</p><p><br></p><p>「見慣れないお嬢さんがいらっしゃる」&nbsp;</p><p><br></p><p>　聞こえなかったことにして、無視──とはいかないようだった。&nbsp;</p><p>　マリアベルは本を持ったまま、顔だけを声の主の方へと向ける。そこにいたのは、褐色の肌に黒髪、やや骨張った輪郭の男だった。日陰のせいか、第一印象は若いとも老いているとも付かない。平素、貴族が身に着けているジュストコールとは趣を異にする、体格の判別し辛い、赤──否、緋色の着衣を纏っている。瞳は鳥羽色で、片目にモノクルを掛けていた。男の年齢が不詳に思われるのはそのためかもしれない。&nbsp;</p><p>　マリアベルは、視線を遣る以外の反応は何もせずに、相手の挙動を待った。男は気分を害した様子もなく、初めましてですかな、と微笑んだ。&nbsp;</p><p><br></p><p>「王の図書室にご令嬢がお出でになるのはめずらしいので、つい。お一人のようにお見受けするが、ご挨拶しても失礼には当たらないかね」&nbsp;</p><p>「……マリアベルと申しますわ、閣下」&nbsp;</p><p><br></p><p>　先に名乗られては困る。男が話している間にすかさず本を書棚へと返し、マリアベルはドレスの裾を抓むと、正しく淑女の礼を取った。&nbsp;</p><p>　閣下とは、と男はくぐもった笑い声を洩らした。&nbsp;</p><p><br></p><p>「私はそのように畏まられるほど大層な身分ではないよ、お嬢さん。──ジュードという。貴女はどうやら、とても本がお好きなようだ」&nbsp;</p><p><br></p><p>　これはまた随分と難しい書棚の前におられる、そう言って、男は天井まで達する棚を眺める。マリアベルは素知らぬ顔で、そうでしょうか、と相槌を打った。些か為損なった感は否めない。浮き足立っていたので、適当に棚を選びすぎた。マリアベルが読む本は、普通の令嬢が読むには嫌に堅苦しいのだ。&nbsp;</p><p>　だが、余計な補完は墓穴を掘るだけである。口数を少なくし、人見知りを装えばいい。レックスが言うには、自分は引き籠もりだそうだから。&nbsp;</p><p>　そうしてそれ以上一言も口を開かずにいると、男はマリアベルの方へ向き直り、まるで道化師のように首を竦めた。&nbsp;</p><p><br></p><p>「いや、お嬢さんの読書のお邪魔をして悪かった。お若い女性の読み物には縁がないので、少し興味があってね」&nbsp;</p><p><br></p><p>　どうぞごゆっくり、と男は胸に手を当て、室内のため下げる帽子がなく、ささやかに腰を折って礼をした。ありがとうございます、とだけ、マリアベルは返答した。&nbsp;</p><p>　マリアベルの隣を摺り抜け、そのまま歩廊を去ってゆくかと思われた男は、しかし、何かを思い出したかのように振り返ってもう一度マリアベルを見た。男の姿が見えなくなるまで本に手を伸ばす気のなかったマリアベルは、再び男と対面する形になる。どこからか射し込んだか細い光が、男のモノクルの銀縁を罅割っている。&nbsp;</p><p>　言い忘れましたな、と。&nbsp;</p><p>　男は、わらった。&nbsp;</p><p><br></p><p>「銀髪に緑眸とは何とお美しい。また是非ともお会いしたいと思いますよ、マリアベル」&nbsp;<br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】08. 陰翳]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10626806/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10626806</id><summary><![CDATA[　首尾の報告が一区切り付くや否や、ウィリアムは乱雑に文書を机上へ放り投げた。ヘイデンとニーナを除いて、政務官、侍従、そして近衛騎士らの全てを人払いした執務室の中で、殆ど叩きつけるようだったその物音は存外大きく響いた。文書──父、ダグラス王の十番目の王女、オフィーリアについての報告書を鬱陶しげに一瞥して、ウィリアムは溜息を吐く。「姉上どころか、デイナと比較するのも烏滸がましい痴れ者が」　あの女はどこまで頭が悪いんだ、と忌々しく罵る。エリオットもそれには同意しているのか、特に口を挟まなかったが。「あら、バカな子ほどかわいいとは言いませんこと、ウィリアム様」　机を挟み、ウィリアムの眼前に例の如く直立するエリオットの背後で、来客用のソファに腰掛けた女が、可笑しそうに反駁した。可笑しそうにといっても、それは言葉が持つ意味合いだけのことで、声音は冷淡なものではあったけれども。　眉間に皺を寄せていたウィリアムは女の物言いで微かにそれを解くと、机に頬杖をついた。エリオット越しに彼女を見遣る。　女は、世間的には未亡人であるというのに、相変わらず金茶色の長い髪を頭部半分だけ大まかに括り上げ、残りは首から背に掛けて流していた。髪を滑らせる首筋の先では、殆ど開いていない襟刳りからほんの僅かにデコルテが覗く。暗色のドレスの意匠は実に簡素で、蝋燭の火を反射してうっすらと艶めく光沢感のある生地のみが飾りのようなものだった。その他の装飾品の類いは一切ない。だが、奢侈とは程遠いその禁欲さが、却って婀娜めかしく見える。──夫の処刑と共に地位を失い、清貧と貞潔を掲げる修道院へ入れられたことになっている元王妃には、到底思えようもなかった。　元近衛騎士団長、スタインズ侯爵レックス・ラドフォード同様、先王の粛清の後に全ての地位を返上した元王妃、アシュバートン公爵令嬢──このように呼ばれるのも心底厭っていた彼女にとっては、寧ろ長年の煩わしさから解放されすっきりしたようだが──ミシェーラ・マガリッジ、改め、養父母のカトラル姓へ戻したミシェーラ・カトラルは、ウィリアムの視線など素知らぬふりで、ニーナが新しい紅茶を用意するのを待っていた。そうしてニーナがそれをし終わると、あなたも座りなさいと口にして、彼女を困惑させている。　ミシェーラの代わりに、ニーナが苦笑をはいてちらとこちらへ目を向けるのに笑い、ウィリアムは軽く手を振った。ミシェーラの好きにさせればいい。口喧しくそれを咎める人間はここには誰もいないのだ。　ややあってニーナがミシェーラの傍らに控えめに腰を下ろしたのを見て、ミラがあれを好いていたとは知らなかったな、とウィリアムは言った。　すると、だって、とわざとらしい我が儘ぶった口調の答《いら》えが返ってくる。「事ある毎にあの方を貶めるのですもの。けれどあの方はお優しいから、私が代わりに相手をして、可愛がって差し上げていただけですわ。着飾ることしか能のない、お花畑のフー、とね」　フーとはオフィーリアの愛称だ。当の本人がそのように呼ばれるのをひどく嫌っていたので、城内で耳にしたことはないに等しいが。「今でも自分が最も美しい娘だと妄信しているのね。嫌だわ、見目ですらあの方の足許にも及ばぬのに……本当にバカで可愛らしいこと」　舌先だけで嘲笑ったミシェーラは、卓の上の茶器を手に取った。隣に座ったニーナはやはり困った表情で小さく笑っている。ミシェーラの言う『あの方』──異母姉の侍女であったニーナがあのように失笑するのであれば、ミシェーラとオフィーリアの当時の遣り合いは、想像するだに、それなりのものだったのだろう。　つんと取り澄ました気位な横顔にウィリアムは肩を竦め、それからエリオットへ向き直った。「オフィーリアの件は暫く泳がせておけばいい。どうせそのうち襤褸が出るだろう？」「──だといいですが」　エリオットの返答は、含みのある言い方だった。　なに、とウィリアムは片眉を上げる。「気になることでもあるの」　エリオットはその問いに対し、一瞬、薄い唇をごく微かに歪ませた。だが、いえ、とすぐに首を振ろうとする。それを遮ったのはミシェーラだった。「確かに、フー自身は取るに足りない存在だけれど、きっと何事もなくとはいかなくてよ、ウィリアム様。閣下はそれを懸念されているのでしょう」　言いながら、ミシェーラはカップの縁に付いた口紅の痕を親指で拭き取る。「オフィーリア王女の降嫁先を決めたのは、他でもないあの男ですから」　するりと落ちたその声は、研磨した短剣で男の寝首を掻き斬るような響きだった。　しかし次の瞬きにはもう、彼女は洒脱に笑うと、現実を直視する能力のないあのお花畑のおバカさんはすっかり曲解しているようですけれど、と色を落としたばかりだというのにカップに口を寄せ、供された紅茶を改めて飲み始めた。その咽喉が小さく上下するのを、一時、何も言い返せずに見つめ──ウィリアムは盛大に顔を顰めた。　ハーシェル公爵、と呼ばう声には怒気が籠もる。だが、エリオットは勘気を予断していたのか欠片も動じるふうを見せず、ですからミシェーラ嬢にもご同席頂いて、たった今、王女の動向についてご報告申し上げました、としれっと宣った。喰えない男だ。先程言い止《さ》したのもこれが理由か。おのれが放っておけと指示を出したら、以後は何も報告せずに事を始末する腹積もりだったに違いない。　──兄には全ての情報を開示して、逐一指示を仰いでいた癖に。　ウィリアムがそれに迫ろうとするよりも早く、嫌だ、とミシェーラが口を挟んだ。「私、令嬢《レディ》という歳ではないのだけど、エリー」「陛下の御前でご婦人を呼び捨てにするのは気が引けるので」「所構わず女性を口説いて、これでもかと殿下の手を焼かせた社交界の貴公子とは思えないお言葉ね」「あれと違ってこの方は大層潔癖なのでこんな私でも一応気を遣っているのですよ、ミラ嬢」「あのエリオット・ミラーが？　それは大変ですわね」「ええ本当に。自分でも心底そう思いますね」「……そういう話はしていない！」　お互いに至極真面目な表情をして、ぽんぽんと打っては返す軽口の応酬をするエリオットとミシェーラに、ウィリアムは声を荒げた。示し合わせたようにぴたりと二人の声が止む。　そうして先に視線をウィリアムへ投げてきたのは、入室して挨拶を交わすなり、許可を得るよりも先にさっさと着座して、以降一度もこちらを見なかったミシェーラの方だった。萌葱色の双眸がウィリアムを捉える。素顔に近いほどの薄化粧だが、生来のくっきりとした目鼻立ちのためか、美貌を繕った若い令嬢たちよりも余程華やかで気の強い面は、ひどく静かだった。　あの男のことなら、そうミシェーラは囁くように言う。「他の誰よりも私が存じておりましてよ、ウィリアム様。オフィーリア王女や、それこそ……きっとあの方よりも」　仄かに色を落とした、妖艶な唇が孤を描いた。「私たち、同類ですもの」　ミラ、とウィリアムが渋く嘆息を吐けば、私はフーが大嫌いですの、と嫌にうつくしい微笑みが返ってくる。浅慮で傲慢、自らの血筋と驕奢に耽溺し、おのれの金満な美貌にこそ皆が平伏すと思っている。幼少の頃から何人の諫言も耳にせず、それどころか甘言に唆されてお育ちになられた、暗愚の偶像のような王女。「このオクセンシェルナにおいてあれほど愚昧で在れたことは、王の子でない私ですらいっそ尊敬に値すると感じ入るほどだわ」　莫迦な子ほど可愛いとはよく言ったものだ。　あの男も同じようにオフィーリアを断じていたに違いないのよ、とミシェーラは呟く。声量に反して、瞳は毅いままだ。おのれの裡に、揺るがぬ何かを勝ち得た者の眼差しだった。ミシェーラは、同類だと共鳴しながらあれと同じところへ墜ちることなく、あの日違えた道を今日まで歩いてきた女性なのだ。　ウィリアムは無意識に奥歯を噛み締めた。　胸の中で何かが滲み出す気配がある。「着飾ることしか能のない姫君には興味がない──これこそ正しく、私の前に初めて現れたときのあの男の言葉なのだから」　無言になったウィリアムに対し、ミシェーラは、医者の手らしい、爪を短く研いだ指先を顎に当て、ほとりと小首を傾げた。「けれどもあの男のことだもの、手駒の一つとして残しておくには善いとでも考えたのでしょう。不遇を許容できないあの矜恃の高さを利用して、優しげな言葉を囁き、その身の上を憐れんでやれば、容易く扱える人形程度にはなるだろう、とね。フー自身に何かを期待したわけではないと思うわ。彼女が踊って役に立つならば善し、そうでなくとも退屈凌ぎにはなる──」　殿下を国外へと追い出すそのときに。　敢えて、田舎の小国、その深窓の姫君でしかなかったクラリッサ様を宛がったのと同じように。「あの男にとっては、舞台の脚本を書くようなことだったのかもしれませんわ。或いは……盤上でどのように駒を運べば、王手を指すことができるのか」　おのれの手のひらの上で、どれほどの人間を踊らせることができるのか。　それは、まるで。　唯一執着した、世にも稀に見る麗しい『鳥』を愛憎に因って縊り殺す、その序でに思いついたとでもいうような──　本当に嫌らしい男、とミシェーラが無感動にささめくのを、果たして耳にしたのかどうか。がた、と音を立ててウィリアムは立ち上がった。机上についた手、強く握り込んだ拳の内に冷たい汗が滲んでいる。身体の内側で蜷局を巻いているのは何だ。叫び出したいのに咽喉を真綿で封じられたようなもどかしさに急き立てられている。あの男。あの──『兄』を、殺しても、殺しても殺しても、殺し足りない気がするのは何故だ。八年経ってもなおおのれが油断した折に、その間隙から甦る。嘲笑が聞こえる。（さて、この杯の礼に）（おまえに一つ、呪いをあげようか、ウィリアム）　畏れるものなど何もない、愉悦に嗤う碧眼が、ウィリアムを見ている。　追い詰めたのはおのれのはずだった。『惨劇』に乗じて生じた簒奪者を粛清する、その目的は果たしたはずであったのに。（……にいさま）　泣いている、のは。　強く目蓋を閉じれば銀花が揺れる。揺れる。月明かりさえ射さぬ真夜中の暗闇で、揺れる。　ウィリアム、と嗤笑する。未だ何者にも成れずにいるおのれを、あの日の毒で死に至らしめようとしている。　──毒、とは。　誰がもたらしたものであっただろう。　カチャ、と。　間近で陶磁器の小さな音がして、ウィリアムは目を開けた。　視界には、白い湯気の棚引く紅茶が差し出されていた。鼻腔を掠めた匂いは瑞々しい果実を想起させる、ゾエの紅茶のそれだった。深い紅水が揺らめく茶器は、青いレーアテルエの描かれたレンノのオードリー。茶請けにレユイの砂糖漬けが添えられている。　ウィリアムが顔を上げると、普段なら微動だにしないエリオットが一歩下がったところにいて、その代わりにニーナが近くに立っていた。エリオットのように真正面からではなかったが、榛色の瞳を少しだけ細めて、ウィリアムの様子を見つめている。淹れた紅茶を勧めるわけでもなく、視線を交わして何かを言うわけでもなく、ただじっと、そこで待っている。（ニーナのね）（淹れてくれる紅茶はとても美味しいのよ、ウィル）（あなたもここで休んでいく？）　みんなには内緒ね、と。　遠い日の異母姉が悪戯っぽく微笑む。　力を籠めた手を開けば小刻みに震えて、ウィリアムはまたすぐにそれを握り込んだ。何かを言おうとして、けれども言葉にできずに溜息だけを嚥下する。「──というわけですので」　容赦なく空気を切り裂いたのは、やはりエリオットだった。声音にぶれはなかった。──兄からどんな仕事を振られても飄々と乗り越えてきたこの切れ者の懐剣を御すには、おのれでは力不足なのかもしれないとの思いが一層過ぎるのは、こんなときだ。「一先ずは、陛下の仰るように様子見するつもりですが。ヘドボリからお一人であのオフィーリア王女が戻られたとは考えにくいですし、彼女の夫には不審死の曰くもありますので、手は割きます。以前のように油断して背後から一撃されては堪りませんからね」　わかった、そう頷くことは辛うじてできた。一方で、政務官たちを追い出しておいてよかったと場違いなことを考える。この醜態を曝さずに済んでよかった。余計な風聞を立てられては困る、恐らくはエリオットもそう考えていたのだろう。ただでさえ信任が薄いところに火種は作れない。　それから、とエリオットは続けようとしたが。　公爵の持ち出す案件がオフィーリアから離れようとするのを察したのか、ミシェーラが腰を上げた。フーの話ではないのなら私はもう必要ないですわね、と。「エリー、デイナ様は貴方の私室においでに？」「いや……息子の顔が見たいと言って、一人で屋敷に帰りましたが」　それはエリオットにとって予想外の質問だったのだろう、彼は珍しく驚いた顔をした。何です、とエリオットが訊き返せば、ミシェーラは肩を竦める。「デイナ様も、貴方の部下も報告していないことが、きっとあるのではないかしらと思って」「は？」「フーのことだから、相当陰湿な意地悪を言ったでしょうねということ。報告書にも書けないような、ね」　女性のことに関しては手練れだと思っていたけれど貴方もまだまだね、それともやはり主従は似るものなのかしら、とミシェーラは落とすように小さく笑った。　ニーナがウィリアムの傍を離れ、部屋の片隅に置かれたミシェーラの荷物と外套を取りにゆく。それらを持って歩み寄ったニーナに礼を言いながら、ミシェーラは釈然としないエリオットにひらと手を振って踵を返した。既にヘイデンが扉の前に立っている。「ミラ嬢」「では、御前失礼致します。ウィリアム様、閣下」　執務室を出てゆく寸前に振り返り、暗色のドレスを鮮やかに捌いて一礼したミシェーラは、言葉で追い縋ることすら善しとせずに立ち去った。ヘイデンとニーナが頭《こうべ》を垂れて見送るさまを呆気に取られて眺め、ややあってウィリアムはエリオットへ目を遣った。エリオットは怪訝そうな表情していたが、すぐにウィリアムの視線に気づき、姿勢を改める。ミシェーラの思わせ振りな言動には、その後、特には触れようとはしなかった。　何となく、急に肩の力が抜けた気がして、ウィリアムは椅子に腰を下ろした。鈍い動作でニーナが用意した紅茶を引き寄せると、カップを持ち上げ、一口飲む。少し冷めていたが美味しかった。　陛下、とエリオットが話し掛けてくる。「例の女性の件ですが」　ウィリアムははたりと眸を瞬かせる。例の女性──　ああ、と頷いた。「マリアベル、だっけ」　レックスが帰国したと聞きスタインズ侯爵家へ足を運んだところ、不意打ちで顔を合わせる羽目に陥った相手だ。レックスに会う気でいた所為で金髪を隠す変装もろくにしていなかった上、彼女の容姿が容姿だったので、我ながら非道い態度を取ってしまった。そのことについては、一匙程度の反省はしている。　彼女の後見についてはエリオットに申し出ろと、レックスに指示を出していたのだったか。「そうです。レックス様から調書を取り、一応こちらでも消息を確認しましたが、目立って不審な点はなかったかと」「出身は？　詳細にはわからなかった？」「ミルヴェーデン人なのは間違いなさそうですが、家柄までは判りかねました。レックス様が初めてお会いになったというオーベリでは、一般的な中流家庭で生活していたようです。彼女の知人のご自宅だというのは、その家人から証言が取れています。そこで話していた言語はミルヴェーデン語だったそうですが、どこの地域の訛りもない綺麗な話し言葉だったらしいので、少なくとも良い家の令嬢なのでしょう。レックス様と本人曰く、家出娘、とのことですから」　我が国に関連しそうな事実は特段見当たりませんでした、とエリオットは報告を纏める。そう、とウィリアムは相槌を打った。レックスが責任を負うとおのれの面前で宣誓したほどであったので、彼女の経歴を大して怪しんでいたわけではなかった。　ただ──彼女の。　血液の透ける薄桃色の皮膚、紅を剥いたような赤い唇、それから。（雪で白んだような、緑の眸に──）　あの。　澱みなく美しい、銀灰色の、髪。　思い出す彼女の風貌、それが何ら珍しくはない北方出身者特有のものだとわかってはいても、ウィリアムには、想起せざるを得ないものがあったのだ。　ウィリアムは椅子に深く座り込んで、僅かに目を伏せた。耳朶を撫ぜてゆくのはおのれが発した問いと、その返答だった。それらは、努めて静謐を保とうとしていた水面に石が投げられて、否応なしに波紋が広がってゆくような感覚に近かった。──知らないわね、と笑う、退屈そうなその声と淡々とした眼差し。彼女の振る舞いが不愉快に感じられなかったからこそ。　脳裏で、銀がちらついている。　気づいてはならない何かが襲い来る予感に、ウィリアムは紅茶と共に、それを咽喉の奥へと流し込んだ。]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-10-06T13:03:32+00:00</published><updated>2020-10-06T13:03:53+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　首尾の報告が一区切り付くや否や、ウィリアムは乱雑に文書を机上へ放り投げた。ヘイデンとニーナを除いて、政務官、侍従、そして近衛騎士らの全てを人払いした執務室の中で、殆ど叩きつけるようだったその物音は存外大きく響いた。文書──父、ダグラス王の十番目の王女、オフィーリアについての報告書を鬱陶しげに一瞥して、ウィリアムは溜息を吐く。</p><p><br></p><p>「姉上どころか、デイナと比較するのも烏滸がましい痴れ者が」</p><p><br></p><p>　あの女はどこまで頭が悪いんだ、と忌々しく罵る。エリオットもそれには同意しているのか、特に口を挟まなかったが。</p><p><br></p><p>「あら、バカな子ほどかわいいとは言いませんこと、ウィリアム様」</p><p><br></p><p>　机を挟み、ウィリアムの眼前に例の如く直立するエリオットの背後で、来客用のソファに腰掛けた女が、可笑しそうに反駁した。可笑しそうにといっても、それは言葉が持つ意味合いだけのことで、声音は冷淡なものではあったけれども。</p><p>　眉間に皺を寄せていたウィリアムは女の物言いで微かにそれを解くと、机に頬杖をついた。エリオット越しに彼女を見遣る。</p><p>　女は、世間的には未亡人であるというのに、相変わらず金茶色の長い髪を頭部半分だけ大まかに括り上げ、残りは首から背に掛けて流していた。髪を滑らせる首筋の先では、殆ど開いていない襟刳りからほんの僅かにデコルテが覗く。暗色のドレスの意匠は実に簡素で、蝋燭の火を反射してうっすらと艶めく光沢感のある生地のみが飾りのようなものだった。その他の装飾品の類いは一切ない。だが、奢侈とは程遠いその禁欲さが、却って婀娜めかしく見える。──夫の処刑と共に地位を失い、清貧と貞潔を掲げる修道院へ入れられたことになっている元王妃には、到底思えようもなかった。</p><p>　元近衛騎士団長、スタインズ侯爵レックス・ラドフォード同様、先王の粛清の後に全ての地位を返上した元王妃、アシュバートン公爵令嬢──このように呼ばれるのも心底厭っていた彼女にとっては、寧ろ長年の煩わしさから解放されすっきりしたようだが──ミシェーラ・マガリッジ、改め、養父母のカトラル姓へ戻したミシェーラ・カトラルは、ウィリアムの視線など素知らぬふりで、ニーナが新しい紅茶を用意するのを待っていた。そうしてニーナがそれをし終わると、あなたも座りなさいと口にして、彼女を困惑させている。</p><p>　ミシェーラの代わりに、ニーナが苦笑をはいてちらとこちらへ目を向けるのに笑い、ウィリアムは軽く手を振った。ミシェーラの好きにさせればいい。口喧しくそれを咎める人間はここには誰もいないのだ。</p><p>　ややあってニーナがミシェーラの傍らに控えめに腰を下ろしたのを見て、ミラがあれを好いていたとは知らなかったな、とウィリアムは言った。</p><p>　すると、だって、とわざとらしい我が儘ぶった口調の答《いら》えが返ってくる。</p><p><br></p><p>「事ある毎にあの方を貶めるのですもの。けれどあの方はお優しいから、私が代わりに相手をして、可愛がって差し上げていただけですわ。着飾ることしか能のない、お花畑のフー、とね」</p><p><br></p><p>　フーとはオフィーリアの愛称だ。当の本人がそのように呼ばれるのをひどく嫌っていたので、城内で耳にしたことはないに等しいが。</p><p><br></p><p>「今でも自分が最も美しい娘だと妄信しているのね。嫌だわ、見目ですらあの方の足許にも及ばぬのに……本当にバカで可愛らしいこと」</p><p><br></p><p>　舌先だけで嘲笑ったミシェーラは、卓の上の茶器を手に取った。隣に座ったニーナはやはり困った表情で小さく笑っている。ミシェーラの言う『あの方』──異母姉の侍女であったニーナがあのように失笑するのであれば、ミシェーラとオフィーリアの当時の遣り合いは、想像するだに、それなりのものだったのだろう。</p><p>　つんと取り澄ました気位な横顔にウィリアムは肩を竦め、それからエリオットへ向き直った。</p><p><br></p><p>「オフィーリアの件は暫く泳がせておけばいい。どうせそのうち襤褸が出るだろう？」</p><p>「──だといいですが」</p><p><br></p><p>　エリオットの返答は、含みのある言い方だった。</p><p>　なに、とウィリアムは片眉を上げる。</p><p><br></p><p>「気になることでもあるの」</p><p><br></p><p>　エリオットはその問いに対し、一瞬、薄い唇をごく微かに歪ませた。だが、いえ、とすぐに首を振ろうとする。それを遮ったのはミシェーラだった。</p><p><br></p><p>「確かに、フー自身は取るに足りない存在だけれど、きっと何事もなくとはいかなくてよ、ウィリアム様。閣下はそれを懸念されているのでしょう」</p><p><br></p><p>　言いながら、ミシェーラはカップの縁に付いた口紅の痕を親指で拭き取る。</p><p><br></p><p>「オフィーリア王女の降嫁先を決めたのは、他でもないあの男ですから」</p><p><br></p><p>　するりと落ちたその声は、研磨した短剣で男の寝首を掻き斬るような響きだった。</p><p>　しかし次の瞬きにはもう、彼女は洒脱に笑うと、現実を直視する能力のないあのお花畑のおバカさんはすっかり曲解しているようですけれど、と色を落としたばかりだというのにカップに口を寄せ、供された紅茶を改めて飲み始めた。その咽喉が小さく上下するのを、一時、何も言い返せずに見つめ──ウィリアムは盛大に顔を顰めた。</p><p>　ハーシェル公爵、と呼ばう声には怒気が籠もる。だが、エリオットは勘気を予断していたのか欠片も動じるふうを見せず、ですからミシェーラ嬢にもご同席頂いて、たった今、王女の動向についてご報告申し上げました、としれっと宣った。喰えない男だ。先程言い止《さ》したのもこれが理由か。おのれが放っておけと指示を出したら、以後は何も報告せずに事を始末する腹積もりだったに違いない。</p><p>　──兄には全ての情報を開示して、逐一指示を仰いでいた癖に。</p><p>　ウィリアムがそれに迫ろうとするよりも早く、嫌だ、とミシェーラが口を挟んだ。</p><p><br></p><p>「私、令嬢《レディ》という歳ではないのだけど、エリー」</p><p>「陛下の御前でご婦人を呼び捨てにするのは気が引けるので」</p><p>「所構わず女性を口説いて、これでもかと殿下の手を焼かせた社交界の貴公子とは思えないお言葉ね」</p><p>「あれと違ってこの方は大層潔癖なのでこんな私でも一応気を遣っているのですよ、ミラ嬢」</p><p>「あのエリオット・ミラーが？　それは大変ですわね」</p><p>「ええ本当に。自分でも心底そう思いますね」</p><p>「……そういう話はしていない！」</p><p><br></p><p>　お互いに至極真面目な表情をして、ぽんぽんと打っては返す軽口の応酬をするエリオットとミシェーラに、ウィリアムは声を荒げた。示し合わせたようにぴたりと二人の声が止む。</p><p>　そうして先に視線をウィリアムへ投げてきたのは、入室して挨拶を交わすなり、許可を得るよりも先にさっさと着座して、以降一度もこちらを見なかったミシェーラの方だった。萌葱色の双眸がウィリアムを捉える。素顔に近いほどの薄化粧だが、生来のくっきりとした目鼻立ちのためか、美貌を繕った若い令嬢たちよりも余程華やかで気の強い面は、ひどく静かだった。</p><p>　あの男のことなら、そうミシェーラは囁くように言う。</p><p><br></p><p>「他の誰よりも私が存じておりましてよ、ウィリアム様。オフィーリア王女や、それこそ……きっとあの方よりも」</p><p><br></p><p>　仄かに色を落とした、妖艶な唇が孤を描いた。</p><p><br></p><p>「私たち、同類ですもの」</p><p><br></p><p>　ミラ、とウィリアムが渋く嘆息を吐けば、私はフーが大嫌いですの、と嫌にうつくしい微笑みが返ってくる。浅慮で傲慢、自らの血筋と驕奢に耽溺し、おのれの金満な美貌にこそ皆が平伏すと思っている。幼少の頃から何人の諫言も耳にせず、それどころか甘言に唆されてお育ちになられた、暗愚の偶像のような王女。</p><p><br></p><p>「このオクセンシェルナにおいてあれほど愚昧で在れたことは、王の子でない私ですらいっそ尊敬に値すると感じ入るほどだわ」</p><p><br></p><p>　莫迦な子ほど可愛いとはよく言ったものだ。</p><p>　あの男も同じようにオフィーリアを断じていたに違いないのよ、とミシェーラは呟く。声量に反して、瞳は毅いままだ。おのれの裡に、揺るがぬ何かを勝ち得た者の眼差しだった。ミシェーラは、同類だと共鳴しながらあれと同じところへ墜ちることなく、あの日違えた道を今日まで歩いてきた女性なのだ。</p><p>　ウィリアムは無意識に奥歯を噛み締めた。</p><p>　胸の中で何かが滲み出す気配がある。</p><p><br></p><p>「着飾ることしか能のない姫君には興味がない──これこそ正しく、私の前に初めて現れたときのあの男の言葉なのだから」</p><p><br></p><p>　無言になったウィリアムに対し、ミシェーラは、医者の手らしい、爪を短く研いだ指先を顎に当て、ほとりと小首を傾げた。</p><p><br></p><p>「けれどもあの男のことだもの、手駒の一つとして残しておくには善いとでも考えたのでしょう。不遇を許容できないあの矜恃の高さを利用して、優しげな言葉を囁き、その身の上を憐れんでやれば、容易く扱える人形程度にはなるだろう、とね。フー自身に何かを期待したわけではないと思うわ。彼女が踊って役に立つならば善し、そうでなくとも退屈凌ぎにはなる──」</p><p><br></p><p>　殿下を国外へと追い出すそのときに。</p><p>　敢えて、田舎の小国、その深窓の姫君でしかなかったクラリッサ様を宛がったのと同じように。</p><p><br></p><p>「あの男にとっては、舞台の脚本を書くようなことだったのかもしれませんわ。或いは……盤上でどのように駒を運べば、王手を指すことができるのか」</p><p><br></p><p>　おのれの手のひらの上で、どれほどの人間を踊らせることができるのか。</p><p>　それは、まるで。</p><p>　唯一執着した、世にも稀に見る麗しい『鳥』を愛憎に因って縊り殺す、その序でに思いついたとでもいうような──</p><p>　本当に嫌らしい男、とミシェーラが無感動にささめくのを、果たして耳にしたのかどうか。がた、と音を立ててウィリアムは立ち上がった。机上についた手、強く握り込んだ拳の内に冷たい汗が滲んでいる。身体の内側で蜷局を巻いているのは何だ。叫び出したいのに咽喉を真綿で封じられたようなもどかしさに急き立てられている。あの男。あの──『兄』を、殺しても、殺しても殺しても、殺し足りない気がするのは何故だ。八年経ってもなおおのれが油断した折に、その間隙から甦る。嘲笑が聞こえる。</p><p><br></p><p>（さて、この杯の礼に）</p><p>（おまえに一つ、呪いをあげようか、ウィリアム）</p><p><br></p><p>　畏れるものなど何もない、愉悦に嗤う碧眼が、ウィリアムを見ている。</p><p>　追い詰めたのはおのれのはずだった。『惨劇』に乗じて生じた簒奪者を粛清する、その目的は果たしたはずであったのに。</p><p><br></p><p>（……にいさま）</p><p><br></p><p>　泣いている、のは。</p><p>　強く目蓋を閉じれば銀花が揺れる。揺れる。月明かりさえ射さぬ真夜中の暗闇で、揺れる。</p><p>　ウィリアム、と嗤笑する。未だ何者にも成れずにいるおのれを、あの日の毒で死に至らしめようとしている。</p><p>　──毒、とは。</p><p>　誰がもたらしたものであっただろう。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　カチャ、と。</p><p>　間近で陶磁器の小さな音がして、ウィリアムは目を開けた。</p><p>　視界には、白い湯気の棚引く紅茶が差し出されていた。鼻腔を掠めた匂いは瑞々しい果実を想起させる、ゾエの紅茶のそれだった。深い紅水が揺らめく茶器は、青いレーアテルエの描かれたレンノのオードリー。茶請けにレユイの砂糖漬けが添えられている。</p><p>　ウィリアムが顔を上げると、普段なら微動だにしないエリオットが一歩下がったところにいて、その代わりにニーナが近くに立っていた。エリオットのように真正面からではなかったが、榛色の瞳を少しだけ細めて、ウィリアムの様子を見つめている。淹れた紅茶を勧めるわけでもなく、視線を交わして何かを言うわけでもなく、ただじっと、そこで待っている。</p><p><br></p><p>（ニーナのね）</p><p>（淹れてくれる紅茶はとても美味しいのよ、ウィル）</p><p>（あなたもここで休んでいく？）</p><p><br></p><p>　みんなには内緒ね、と。</p><p>　遠い日の異母姉が悪戯っぽく微笑む。</p><p>　力を籠めた手を開けば小刻みに震えて、ウィリアムはまたすぐにそれを握り込んだ。何かを言おうとして、けれども言葉にできずに溜息だけを嚥下する。</p><p><br></p><p>「──というわけですので」</p><p><br></p><p>　容赦なく空気を切り裂いたのは、やはりエリオットだった。声音にぶれはなかった。──兄からどんな仕事を振られても飄々と乗り越えてきたこの切れ者の懐剣を御すには、おのれでは力不足なのかもしれないとの思いが一層過ぎるのは、こんなときだ。</p><p><br></p><p>「一先ずは、陛下の仰るように様子見するつもりですが。ヘドボリからお一人であのオフィーリア王女が戻られたとは考えにくいですし、彼女の夫には不審死の曰くもありますので、手は割きます。以前のように油断して背後から一撃されては堪りませんからね」</p><p><br></p><p>　わかった、そう頷くことは辛うじてできた。一方で、政務官たちを追い出しておいてよかったと場違いなことを考える。この醜態を曝さずに済んでよかった。余計な風聞を立てられては困る、恐らくはエリオットもそう考えていたのだろう。ただでさえ信任が薄いところに火種は作れない。</p><p>　それから、とエリオットは続けようとしたが。</p><p>　公爵の持ち出す案件がオフィーリアから離れようとするのを察したのか、ミシェーラが腰を上げた。フーの話ではないのなら私はもう必要ないですわね、と。</p><p><br></p><p>「エリー、デイナ様は貴方の私室においでに？」</p><p>「いや……息子の顔が見たいと言って、一人で屋敷に帰りましたが」</p><p><br></p><p>　それはエリオットにとって予想外の質問だったのだろう、彼は珍しく驚いた顔をした。何です、とエリオットが訊き返せば、ミシェーラは肩を竦める。</p><p><br></p><p>「デイナ様も、貴方の部下も報告していないことが、きっとあるのではないかしらと思って」</p><p>「は？」</p><p>「フーのことだから、相当陰湿な意地悪を言ったでしょうねということ。報告書にも書けないような、ね」</p><p><br></p><p>　女性のことに関しては手練れだと思っていたけれど貴方もまだまだね、それともやはり主従は似るものなのかしら、とミシェーラは落とすように小さく笑った。</p><p>　ニーナがウィリアムの傍を離れ、部屋の片隅に置かれたミシェーラの荷物と外套を取りにゆく。それらを持って歩み寄ったニーナに礼を言いながら、ミシェーラは釈然としないエリオットにひらと手を振って踵を返した。既にヘイデンが扉の前に立っている。</p><p><br></p><p>「ミラ嬢」</p><p>「では、御前失礼致します。ウィリアム様、閣下」</p><p><br></p><p>　執務室を出てゆく寸前に振り返り、暗色のドレスを鮮やかに捌いて一礼したミシェーラは、言葉で追い縋ることすら善しとせずに立ち去った。ヘイデンとニーナが頭《こうべ》を垂れて見送るさまを呆気に取られて眺め、ややあってウィリアムはエリオットへ目を遣った。エリオットは怪訝そうな表情していたが、すぐにウィリアムの視線に気づき、姿勢を改める。ミシェーラの思わせ振りな言動には、その後、特には触れようとはしなかった。</p><p>　何となく、急に肩の力が抜けた気がして、ウィリアムは椅子に腰を下ろした。鈍い動作でニーナが用意した紅茶を引き寄せると、カップを持ち上げ、一口飲む。少し冷めていたが美味しかった。</p><p>　陛下、とエリオットが話し掛けてくる。</p><p><br></p><p>「例の女性の件ですが」</p><p><br></p><p>　ウィリアムははたりと眸を瞬かせる。例の女性──</p><p>　ああ、と頷いた。</p><p><br></p><p>「マリアベル、だっけ」</p><p><br></p><p>　レックスが帰国したと聞きスタインズ侯爵家へ足を運んだところ、不意打ちで顔を合わせる羽目に陥った相手だ。レックスに会う気でいた所為で金髪を隠す変装もろくにしていなかった上、彼女の容姿が容姿だったので、我ながら非道い態度を取ってしまった。そのことについては、一匙程度の反省はしている。</p><p>　彼女の後見についてはエリオットに申し出ろと、レックスに指示を出していたのだったか。</p><p><br></p><p>「そうです。レックス様から調書を取り、一応こちらでも消息を確認しましたが、目立って不審な点はなかったかと」</p><p>「出身は？　詳細にはわからなかった？」</p><p>「ミルヴェーデン人なのは間違いなさそうですが、家柄までは判りかねました。レックス様が初めてお会いになったというオーベリでは、一般的な中流家庭で生活していたようです。彼女の知人のご自宅だというのは、その家人から証言が取れています。そこで話していた言語はミルヴェーデン語だったそうですが、どこの地域の訛りもない綺麗な話し言葉だったらしいので、少なくとも良い家の令嬢なのでしょう。レックス様と本人曰く、家出娘、とのことですから」</p><p><br></p><p>　我が国に関連しそうな事実は特段見当たりませんでした、とエリオットは報告を纏める。そう、とウィリアムは相槌を打った。レックスが責任を負うとおのれの面前で宣誓したほどであったので、彼女の経歴を大して怪しんでいたわけではなかった。</p><p>　ただ──彼女の。</p><p>　血液の透ける薄桃色の皮膚、紅を剥いたような赤い唇、それから。</p><p><br></p><p>（雪で白んだような、緑の眸に──）</p><p><br></p><p>　あの。</p><p>　澱みなく美しい、銀灰色の、髪。</p><p>　思い出す彼女の風貌、それが何ら珍しくはない北方出身者特有のものだとわかってはいても、ウィリアムには、想起せざるを得ないものがあったのだ。</p><p>　ウィリアムは椅子に深く座り込んで、僅かに目を伏せた。耳朶を撫ぜてゆくのはおのれが発した問いと、その返答だった。それらは、努めて静謐を保とうとしていた水面に石が投げられて、否応なしに波紋が広がってゆくような感覚に近かった。──知らないわね、と笑う、退屈そうなその声と淡々とした眼差し。彼女の振る舞いが不愉快に感じられなかったからこそ。</p><p>　脳裏で、銀がちらついている。</p><p>　気づいてはならない何かが襲い来る予感に、ウィリアムは紅茶と共に、それを咽喉の奥へと流し込んだ。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg?width=960" width="100%">
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】07. 菫を啄むのは誰か]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10589590/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10589590</id><summary><![CDATA[　カツ、と華奢な靴の音が響いた。　首筋に滲んでいた汗がすうと引いてゆく。　踏み入った礼拝堂は、息苦しさを憶えるほど静かだった。ここへ来るまでの道程も以前と寸分違わず寥々たるものだったが、俗世を遠く離れたこの地──暗澹たる深い森の奥に佇むこの礼拝堂の寂寞さといったら、おのれにはとても表現しようがないほどのものだ。色彩豊かな夏の気配さえまるで寄せつけていない。閉め切った空間は黴臭く、手燭に火を灯しても、決して消し去ることのできない濃い影だけが落ちてゆく。　傷んだ床の上で、踵が気高く音を鳴らす。　ここを訪れるたび身体の裡で燃え上がる感情に何と名前をつけたなら、おのれは諒解することができるのだろう。　誰にも顧みられることのない、この、途方もない孤独について。　礼拝堂を所管していた聖職者は疾うに叙任を解かれ、人の手が入らなくなったこの場所は、国民の忘却の彼方で朽ちてゆく一方だ。せめて私的な墓守くらい置ければよいのに、極めて変則的に巡察が行われる状況ではそうもゆかず、またこうして監視の隙を突いて参じた折でさえ痕跡が残るとしもべに諫められるので、少しの埃を清めることすらできないままだ。何一つ満足にできない口惜しさに、幾度唇を噛みしめたことだろう。　──けれどそれも、今日が最後だ。　聖母子像の一つさえ飾られぬ祭壇の前に立ち、足を止めた。　祈りのゆくべき先のない祭壇には、銘も刻まれぬ黒い柩が一つだけ、安置されている。　自慢の金髪を美しく結い上げ、その上に被った小さなトークハット。そこに縫い止められた繊細なチュールレースを透かして柩を見つめ、ひどくゆっくりと碧眼を細めた。　帽子同様、生地から装飾に至るまで全てを黒で統一したドレスを捌き、膝を折る。そうして、腕に抱いていた純白のリッリの花束を、柩の上へとそっと手向けた。ようやくあなたを悼んでこの花を捧げることができた、と。安堵すると同時に込み上げてくるものがある。美しく微笑もうとした唇が、不恰好に歪んだ。　──八年、花の一輪さえ献じることが許されなかった。　謂われなき罪、汚名を着せられ、誰の目に留まるともなく処刑され。　国葬もなく、骨の一匙さえ遺せず、せめてもの情けといえばこの銘なき黒い柩だけ。それでさえこのような、国の辺縁にある奥深い森へと打ち棄てられた。　誰よりも高貴であった、あなたが。「お兄様……」　幼少のみぎりより思慕してきたひとへの仕打ち、その身に降り懸かった悲劇に想いを馳せれば、戦慄かずにはいられなかった。眉をたわめると骸なき柩へと縋りつく。その冷たい肌触りに、愛してやまなかった怜悧な碧の双眸が甦った。──極上に美しい宝玉。王城に出入りするどんな宝石商であっても、あの双眸よりも凄艶な碧をおのれの前に揃えることはできなかった。クロンクビスト王族随一の血統を示す、冷たく甘美で、蠱惑的な、碧眼。　おのれを見つめたあの眸を思い出すだけで陶然とする。国外の、下等な貴族へ嫁ぐことが決まった不幸な身上を憐れんで声を掛けてくれたのは、あのひとだけだった。不釣り合いな結婚生活の只中においても、決してその存在を忘れたことはなかった。愛しいお兄様。わたくしの。わたくしの、誇り高く美しいお兄様──　けれど、至高で在ったそのひとを。　八年前、狡賢い異母弟の謀略により、永遠に喪ってしまった。（泣くものか）　涙の代わりに、凍えた吐息が溢れた。　こんな暴虐が罷り通り、あのひとこそが相応しかったこの大国の王の御座に、卑小な器の異母弟が座しているなど。腹の底から青い焔が燃え上がる。空の柩に耳を澄ませば、あのひとの深い悲歎の声が聞こえる。あぁ、と柩に回した腕に力が漲った。赦されるものか──赦してはならない。意地悪く薄汚い盗人の王子、絶対に赦すものか。赦すものか。必ず、復讐を果たさねばならない。　ざらついた柩の表面に緩慢に頬擦りをし、繊細な指先で縁を撫ぜ、ゆっくりと顔を上げた。手向けたリッリの馨しい香りがする。傅く誰もが美姫と褒めそやす貌を綻ばせ、今度こそうつくしく、微笑んだ。「見ていて下さいませ、お兄様」　美しいひとには美しいものを。　あなたにこそ似合いのこの大国の王冠を、必ずや。　かた、と物音がして弾かれたように振り向く。おのれの従順なるしもべは常日頃から決して物音を立てず、まるで影のように傍らに控えているので、突然のその音源がこの礼拝堂に招かれざる者であるというのはすぐに察せられた。素早く視線を走らせたところには、従者を連れた人間が一人、立っていた。丈の長い外套を羽織り、目深に被ったフードで顔は窺えないが──女である。外套の裾から見窄らしい鈍色のドレスが覗いている。　眉を顰めると、オフィーリア、と聞き覚えのある気弱そうな声が耳朶を掠めた。首許に手を遣った女が頭巾だけを取り去る。　そうしてこちらを見つめていたのは、水で溶いたような、不明瞭な色味の碧眼だった。「オフィーリア……」　それは同腹の姉だった。デイナ＝ロス・オルブライト──今は、ハーシェル公爵夫人デイナ・ミラーか。　昔から俯きがちな、気概のない瞳が、おのれを見つめて悲しげに歪んでいる。「あなた、ここで……なにを」「──お姉様こそ」　姉の、ぼそぼそと、吐息に紛らせて小声で話すところは相変わらずだった。おのれの艶めかしい髪とはまるで比較にもならない、暗がりに滲んで見えなくなってしまう程度の金髪を冷ややかに見遣って、何の御用かしら、とあしらう。　物理的にも立場的にも、ここへ独断で来られる姉ではない。姉自身が自覚しているかどうかは別として、彼女が誰かの差し金なのは明白だった。「旦那様がお亡くなりになってしばらくして、あなたが、ヘドボリのお屋敷から姿を消したと聞いて……」「あんな男、わたくしの夫でも何でもありませんわ。虫唾が走ることを仰らないで」　ぴしゃりと言い切る。イェイエル河以東の、何の取り柄もない田舎の小国ヘドボリに嫁がされた過去は思い出したくもない。況してあの十も年上で好色な、醜い貴族のことなど。大国の王女としてみなに伏侍され敬われ、気高く生きてきたおのれにとって、あれほどの恥辱が存在しただろうか！　脳裏を過ぎった日々に一瞬憤然としたが、オフィーリア様、と囁いたしもべの声に、さっと冷静さを取り戻した。息を吐く。この気弱な姉如きに取り乱すとは。見苦しい。自らを律すると昂然と胸を反らし、忍ばせていた扇を手に取りばさりと開いた。　わたくしあなたを心配して、と視線を落とす姉を、扇の内で嘲笑した。「お姉様に気に懸けていただくようなことは何一つございませんわ、ええ、何一つとして」「オフィーリア」「大体、人の心配をしている余裕がお有りですの？　デイナお姉様こそ、ハーシェル公のご機嫌取りに勤しまれた方がよろしいのではなくて？」　だって、と。　眸を弓形に撓らせる。「お姉様は、公にとって所詮ただの身代わりなのですもの」　その一言で、明らかに姉は全身を強張らせた。それどころか見る見るうちに顔色を青褪めさせてゆく。とても滑稽だった。　いい気味だわ、と内心で侮蔑する。──デイナは凡庸な姉だ。クロンクビスト王族の血を引き、紛うことなき金髪碧眼を持ってはいたが、幼い頃より根暗で目立たない王女だった。これが同腹の姉であることは、生誕のときより王女の手本であったおのれにとっては、長年の恥ずべき事柄だった。その、突出して何が秀でているでもない、王の系譜である以外には取り柄のない存在であった姉が、社交界の貴公子であった公爵の伴侶となれたのには、理由があるのだ。　そうでなければ何故、おのれが矮小な外国貴族へ嫁がねばならず、何段も見劣るこの姉が国の大公爵家の一つへ嫁げたというのだろう。「──あの穢らわしい異母妹《いもうと》の代わりの、デイナお姉様？」　『兄』が大層可愛がっていた、一つ下の異母妹。　父を誑し込んで禁を犯し、弑逆した挙げ句、王家から離籍されてなおのうのうと生き延びたあの。「『お兄様』のご学友でいらっしゃった公が、わたくしたち姉妹の誰に長らく求婚なさっていたのか、当然、お姉様もご存じのはず」　姉の色を失くした唇が呼気さえ発せずに戦慄くのを、愉悦を憶えながら眺める。そうして、礼拝堂へ入ってきたときと同じく、カツ、と靴を鳴らした。姉の方へと歩み寄ってゆく。くすくすと笑う。　ねえ、お姉様。　お可哀想なわたくしのデイナお姉様。　あまく、あまく、──猛毒の菫《ぎん》をその愚昧な耳朶に注ぎ込むようにして、ささめく。「わたくし、いつでもお姉様の味方になって差し上げてよ？」　戸口で立ち尽くしたまま動けずにいる姉の横に立ち、扇で隠しながら顔を寄せ、観賞する甲斐もない陰気な碧眼に口許だけで微笑んでみせる。「公は、あの弟のことで手が一杯でしょう」「……オフィーリア」「放っておかれて寂しいでしょう。悔しいでしょう。ええ、わかりますとも。わたくしたちは同腹の姉妹なのですから」　意地悪を申し上げてごめんなさいね、わたくしもとても胸が痛いんですのよ、ですから言わずにはおれませんでしたの、畳み掛けるように囁けば、なにを、と姉の震えた声が洩れた。──莫迦な姉だが捨て駒にする程度の価値はあるだろう、と胸中で独りごちる。大して使えなくとも構わないが、布石を敷いておくに越したことはあるまい。賢しい異母弟を排除するためには、利用できる手は多い方が善いに決まっている。　──ハーシェル公爵も愚かなことをしたものだ。主体性を持たない臆病な妻を、たかだか付き人一人でおのれの許へ寄越すとは。「わたくしはあの方の悲しみに報いたいのです、お姉様」　公には秘密ですよ、と紅を剥いた唇に人差し指を立てる。　姉の従者には決して聞こえないように、そろりと話した。おのれの発言を聞き瞠目した瞳に嗤笑い、その隣をすり抜け、礼拝堂を後にする。いつでもいらしてね、と言い残して。　外に待たせておいた馬車に乗り、扇を畳んだ。暫しの別れとなる礼拝堂を小窓越しに見つめて溜息を吐きながら、レイフ、と呼び掛ける。向かいに座した男は、はい、と抑揚のない声で答えた。鞭の音、馬の嘶きが聞こえ、馬車が動き出す。「わたしのかわいいしもべのあなた。ちゃんとついてくるのよ」「仰せのままに、──オフィーリア様」]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-10-04T12:26:26+00:00</published><updated>2020-10-04T12:27:02+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　カツ、と華奢な靴の音が響いた。</p><p>　首筋に滲んでいた汗がすうと引いてゆく。</p><p>　踏み入った礼拝堂は、息苦しさを憶えるほど静かだった。ここへ来るまでの道程も以前と寸分違わず寥々たるものだったが、俗世を遠く離れたこの地──暗澹たる深い森の奥に佇むこの礼拝堂の寂寞さといったら、おのれにはとても表現しようがないほどのものだ。色彩豊かな夏の気配さえまるで寄せつけていない。閉め切った空間は黴臭く、手燭に火を灯しても、決して消し去ることのできない濃い影だけが落ちてゆく。</p><p>　傷んだ床の上で、踵が気高く音を鳴らす。</p><p>　ここを訪れるたび身体の裡で燃え上がる感情に何と名前をつけたなら、おのれは諒解することができるのだろう。</p><p>　誰にも顧みられることのない、この、途方もない孤独について。</p><p>　礼拝堂を所管していた聖職者は疾うに叙任を解かれ、人の手が入らなくなったこの場所は、国民の忘却の彼方で朽ちてゆく一方だ。せめて私的な墓守くらい置ければよいのに、極めて変則的に巡察が行われる状況ではそうもゆかず、またこうして監視の隙を突いて参じた折でさえ痕跡が残るとしもべに諫められるので、少しの埃を清めることすらできないままだ。何一つ満足にできない口惜しさに、幾度唇を噛みしめたことだろう。</p><p>　──けれどそれも、今日が最後だ。</p><p>　聖母子像の一つさえ飾られぬ祭壇の前に立ち、足を止めた。</p><p>　祈りのゆくべき先のない祭壇には、銘も刻まれぬ黒い柩が一つだけ、安置されている。</p><p>　自慢の金髪を美しく結い上げ、その上に被った小さなトークハット。そこに縫い止められた繊細なチュールレースを透かして柩を見つめ、ひどくゆっくりと碧眼を細めた。</p><p>　帽子同様、生地から装飾に至るまで全てを黒で統一したドレスを捌き、膝を折る。そうして、腕に抱いていた純白のリッリの花束を、柩の上へとそっと手向けた。ようやくあなたを悼んでこの花を捧げることができた、と。安堵すると同時に込み上げてくるものがある。美しく微笑もうとした唇が、不恰好に歪んだ。</p><p>　──八年、花の一輪さえ献じることが許されなかった。</p><p>　謂われなき罪、汚名を着せられ、誰の目に留まるともなく処刑され。</p><p>　国葬もなく、骨の一匙さえ遺せず、せめてもの情けといえばこの銘なき黒い柩だけ。それでさえこのような、国の辺縁にある奥深い森へと打ち棄てられた。</p><p>　誰よりも高貴であった、あなたが。</p><p><br></p><p>「お兄様……」</p><p><br></p><p>　幼少のみぎりより思慕してきたひとへの仕打ち、その身に降り懸かった悲劇に想いを馳せれば、戦慄かずにはいられなかった。眉をたわめると骸なき柩へと縋りつく。その冷たい肌触りに、愛してやまなかった怜悧な碧の双眸が甦った。──極上に美しい宝玉。王城に出入りするどんな宝石商であっても、あの双眸よりも凄艶な碧をおのれの前に揃えることはできなかった。クロンクビスト王族随一の血統を示す、冷たく甘美で、蠱惑的な、碧眼。</p><p>　おのれを見つめたあの眸を思い出すだけで陶然とする。国外の、下等な貴族へ嫁ぐことが決まった不幸な身上を憐れんで声を掛けてくれたのは、あのひとだけだった。不釣り合いな結婚生活の只中においても、決してその存在を忘れたことはなかった。愛しいお兄様。わたくしの。わたくしの、誇り高く美しいお兄様──</p><p>　けれど、至高で在ったそのひとを。</p><p>　八年前、狡賢い異母弟の謀略により、永遠に喪ってしまった。</p><p><br></p><p>（泣くものか）</p><p><br></p><p>　涙の代わりに、凍えた吐息が溢れた。</p><p>　こんな暴虐が罷り通り、あのひとこそが相応しかったこの大国の王の御座に、卑小な器の異母弟が座しているなど。腹の底から青い焔が燃え上がる。空の柩に耳を澄ませば、あのひとの深い悲歎の声が聞こえる。あぁ、と柩に回した腕に力が漲った。赦されるものか──赦してはならない。意地悪く薄汚い盗人の王子、絶対に赦すものか。赦すものか。必ず、復讐を果たさねばならない。</p><p>　ざらついた柩の表面に緩慢に頬擦りをし、繊細な指先で縁を撫ぜ、ゆっくりと顔を上げた。手向けたリッリの馨しい香りがする。傅く誰もが美姫と褒めそやす貌を綻ばせ、今度こそうつくしく、微笑んだ。</p><p><br></p><p>「見ていて下さいませ、お兄様」</p><p><br></p><p>　美しいひとには美しいものを。</p><p>　あなたにこそ似合いのこの大国の王冠を、必ずや。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　かた、と物音がして弾かれたように振り向く。おのれの従順なるしもべは常日頃から決して物音を立てず、まるで影のように傍らに控えているので、突然のその音源がこの礼拝堂に招かれざる者であるというのはすぐに察せられた。素早く視線を走らせたところには、従者を連れた人間が一人、立っていた。丈の長い外套を羽織り、目深に被ったフードで顔は窺えないが──女である。外套の裾から見窄らしい鈍色のドレスが覗いている。</p><p>　眉を顰めると、オフィーリア、と聞き覚えのある気弱そうな声が耳朶を掠めた。首許に手を遣った女が頭巾だけを取り去る。</p><p>　そうしてこちらを見つめていたのは、水で溶いたような、不明瞭な色味の碧眼だった。</p><p><br></p><p>「オフィーリア……」</p><p><br></p><p>　それは同腹の姉だった。デイナ＝ロス・オルブライト──今は、ハーシェル公爵夫人デイナ・ミラーか。</p><p>　昔から俯きがちな、気概のない瞳が、おのれを見つめて悲しげに歪んでいる。</p><p><br></p><p>「あなた、ここで……なにを」</p><p>「──お姉様こそ」</p><p><br></p><p>　姉の、ぼそぼそと、吐息に紛らせて小声で話すところは相変わらずだった。おのれの艶めかしい髪とはまるで比較にもならない、暗がりに滲んで見えなくなってしまう程度の金髪を冷ややかに見遣って、何の御用かしら、とあしらう。</p><p>　物理的にも立場的にも、ここへ独断で来られる姉ではない。姉自身が自覚しているかどうかは別として、彼女が誰かの差し金なのは明白だった。</p><p><br></p><p>「旦那様がお亡くなりになってしばらくして、あなたが、ヘドボリのお屋敷から姿を消したと聞いて……」</p><p>「あんな男、わたくしの夫でも何でもありませんわ。虫唾が走ることを仰らないで」</p><p><br></p><p>　ぴしゃりと言い切る。イェイエル河以東の、何の取り柄もない田舎の小国ヘドボリに嫁がされた過去は思い出したくもない。況してあの十も年上で好色な、醜い貴族のことなど。大国の王女としてみなに伏侍され敬われ、気高く生きてきたおのれにとって、あれほどの恥辱が存在しただろうか！</p><p>　脳裏を過ぎった日々に一瞬憤然としたが、オフィーリア様、と囁いたしもべの声に、さっと冷静さを取り戻した。息を吐く。この気弱な姉如きに取り乱すとは。見苦しい。自らを律すると昂然と胸を反らし、忍ばせていた扇を手に取りばさりと開いた。</p><p>　わたくしあなたを心配して、と視線を落とす姉を、扇の内で嘲笑した。</p><p><br></p><p>「お姉様に気に懸けていただくようなことは何一つございませんわ、ええ、何一つとして」</p><p>「オフィーリア」</p><p>「大体、人の心配をしている余裕がお有りですの？　デイナお姉様こそ、ハーシェル公のご機嫌取りに勤しまれた方がよろしいのではなくて？」</p><p><br></p><p>　だって、と。</p><p>　眸を弓形に撓らせる。</p><p><br></p><p>「お姉様は、公にとって所詮ただの身代わりなのですもの」</p><p><br></p><p>　その一言で、明らかに姉は全身を強張らせた。それどころか見る見るうちに顔色を青褪めさせてゆく。とても滑稽だった。</p><p>　いい気味だわ、と内心で侮蔑する。──デイナは凡庸な姉だ。クロンクビスト王族の血を引き、紛うことなき金髪碧眼を持ってはいたが、幼い頃より根暗で目立たない王女だった。これが同腹の姉であることは、生誕のときより王女の手本であったおのれにとっては、長年の恥ずべき事柄だった。その、突出して何が秀でているでもない、王の系譜である以外には取り柄のない存在であった姉が、社交界の貴公子であった公爵の伴侶となれたのには、理由があるのだ。</p><p>　そうでなければ何故、おのれが矮小な外国貴族へ嫁がねばならず、何段も見劣るこの姉が国の大公爵家の一つへ嫁げたというのだろう。</p><p><br></p><p>「──あの穢らわしい異母妹《いもうと》の代わりの、デイナお姉様？」</p><p><br></p><p>　『兄』が大層可愛がっていた、一つ下の異母妹。</p><p>　父を誑し込んで禁を犯し、弑逆した挙げ句、王家から離籍されてなおのうのうと生き延びたあの。</p><p><br></p><p>「『お兄様』のご学友でいらっしゃった公が、わたくしたち姉妹の誰に長らく求婚なさっていたのか、当然、お姉様もご存じのはず」</p><p><br></p><p>　姉の色を失くした唇が呼気さえ発せずに戦慄くのを、愉悦を憶えながら眺める。そうして、礼拝堂へ入ってきたときと同じく、カツ、と靴を鳴らした。姉の方へと歩み寄ってゆく。くすくすと笑う。</p><p>　ねえ、お姉様。</p><p>　お可哀想なわたくしのデイナお姉様。</p><p>　あまく、あまく、──猛毒の菫《ぎん》をその愚昧な耳朶に注ぎ込むようにして、ささめく。</p><p><br></p><p>「わたくし、いつでもお姉様の味方になって差し上げてよ？」</p><p><br></p><p>　戸口で立ち尽くしたまま動けずにいる姉の横に立ち、扇で隠しながら顔を寄せ、観賞する甲斐もない陰気な碧眼に口許だけで微笑んでみせる。</p><p><br></p><p>「公は、あの弟のことで手が一杯でしょう」</p><p>「……オフィーリア」</p><p>「放っておかれて寂しいでしょう。悔しいでしょう。ええ、わかりますとも。わたくしたちは同腹の姉妹なのですから」</p><p><br></p><p>　意地悪を申し上げてごめんなさいね、わたくしもとても胸が痛いんですのよ、ですから言わずにはおれませんでしたの、畳み掛けるように囁けば、なにを、と姉の震えた声が洩れた。──莫迦な姉だが捨て駒にする程度の価値はあるだろう、と胸中で独りごちる。大して使えなくとも構わないが、布石を敷いておくに越したことはあるまい。賢しい異母弟を排除するためには、利用できる手は多い方が善いに決まっている。</p><p>　──ハーシェル公爵も愚かなことをしたものだ。主体性を持たない臆病な妻を、たかだか付き人一人でおのれの許へ寄越すとは。</p><p><br></p><p>「わたくしはあの方の悲しみに報いたいのです、お姉様」</p><p><br></p><p>　公には秘密ですよ、と紅を剥いた唇に人差し指を立てる。</p><p>　姉の従者には決して聞こえないように、そろりと話した。おのれの発言を聞き瞠目した瞳に嗤笑い、その隣をすり抜け、礼拝堂を後にする。いつでもいらしてね、と言い残して。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　外に待たせておいた馬車に乗り、扇を畳んだ。暫しの別れとなる礼拝堂を小窓越しに見つめて溜息を吐きながら、レイフ、と呼び掛ける。向かいに座した男は、はい、と抑揚のない声で答えた。鞭の音、馬の嘶きが聞こえ、馬車が動き出す。</p><p><br></p><p>「わたしのかわいいしもべのあなた。ちゃんとついてくるのよ」</p><p>「仰せのままに、──オフィーリア様」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】06. 開幕]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10557815/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10557815</id><summary><![CDATA[　初めて土に埋めたのは、鳥の死骸だった。　産まれたばかりの雛だった。　それは、最果ての孤島にようやく遅い春がやってこようかという時節であったと記憶している。家の庭に植えられたケセドの老木の枝へ毎年必ず巣作りに来る鳥がいたのだが、その年は何かのけものにでも襲われたのか、気づいたときには巣が荒らされていて、遺った雛鳥が一羽だけ、融けきらぬ雪の上に落ちていたのだった。生え揃ったばかりだったのだろうに、柔い羽毛は濡れそぼり、その下の薄紅の肉は剥きだしで、血と雪に塗れたそれは惨い有様だった。手のひらに掬い上げればまだほんのり生温かく、ぬるりとして、──死んでゆくのだと、思った。　ひどく悴んだ手で凍てた雪を掻き分け、さらにその下の土を堀って、雛鳥のものなのかそれともおのれのものなのかも最早知れない血塗れの手で、ケセドの樹の下にその死骸を埋めた。それが、最初だった。　翌年から、鳥が家の庭へ巣作りに来ることはなくなった。　そうしておのれが次に土へ埋めたのは母だった。それから、何の罪も持たぬ市井の母子を埋め、父を埋め、異母兄《あに》を埋め、多くの島民を埋め、──やがては、おのれを誰よりも慈愛深く育ててくれ、この世で最も敬愛した祖父を埋めた。最果ての孤島にいくつの墓碑を建てたのだろう。数えても数えても数えても、数えきれないほど、土を掘っては埋めた。もう二度と、誰にも安らかな眠りを妨げられることのない、ディンケラの、あの凍土に。　──私こそが、最初の雛であったなら善かったのに。　今でも、そう思っている。　．　．　．　極夜のようだ、というのが第一印象だった。　大陸最北の国、マリアベルの祖国ミルヴェーデンでは、真冬になると太陽の昇らぬ時季がある。昼と夜の境がなく、日中でも昏い状態が続くその日を極夜と呼ぶのだ。国の果てでは極夜は数ヶ月にも及ぶことがあり、あえかな光が今にも潰えそうに所在なく揺曳している──。初めて見《まみ》えた彼の印象は、そんな、祖国の極夜だった。多分に、彼の、どこまでも深く濃い碧の双眸が、マリアベルにそのような心象を抱かせたのだと思う。　吐息さえ凍る、あの厳冬を思い出した。　ミルヴェーデンの冬は、静謐さえも呑み込んでしまう、耳朶を引き裂く無音の世界だ。新緑の芽吹く声など遥か遠く、どこもかしこも雪と氷が青白く光る、本当に頼りない薄明だけがある。時折、ほんの気まぐれに極光が現れては、闇に塗り潰された天を裂いてゆく。終わりの地だ。そこから先には何もない、死にゆくものだけが辿り着く、最果ての冬。彼の眸は、あの碧さに似ている。どこにいても目立つだろう、天使の梯子のような、暗雲を降りてくる艶やかな金の髪よりも、マリアベルにはその昏さがやけに目についた。　金の睫毛の下で、マリアベルを認識するなり、彼の碧眼は冷たさを増した。「──誰」　初対面の人間にその露骨な不機嫌さはないだろう、と思わざるを得ない響きだった。風貌からマリアベルが推測する年頃の男性にしては繊細な、高い声音は、咽喉の奥から低い唸りの嫌悪を吐き出す。あの堅物のレックスのところにこんな女がいるなんて聞いてないんだけど、と。「オーウェン、どういうこと」　彼はマリアベルから目を逸らさないまま、詰問の口調で言う。オーウェン、というのは彼の後ろに付いて来ている人物だろう。彼と同年代か、否、年下と思しき青年だ。マリアベルと同じ年の頃くらいかもしれない。初夏だというのに、全身、見目がとても暑苦しい漆黒の装いをした彼とは異なり、動き易さを重視した麻《カンナビス》のシャツの軽装が若々しい。その『オーウェン』が、存じ上げません、と実に素っ気ない返答をしたので、彼は品なく舌打ちした。仮にも女性の面前で失礼なことだ。　ソファに座ったまま、談話室に入ってきた彼らを一通り観察したマリアベルは、視線を手許の本へと戻した。生憎と、自ら名乗るわけでもなく、不躾に誰何する人間に付き合う趣味は持っていない。況して、見ず知らずの相手にこんな女とは随分な言いようである。　無視を決め込んだマリアベルをどう思ったのか、彼は矛先を変え、案内を務めたらしいスタインズ侯爵家の家令に問い質している。訊いたところで家令は知る由もないと、マリアベルが独りごちたとき、この小さな騒動を聞きつけたレックスがやって来た。レックス、と現れた家長を非難がましく呼ばう彼に対し、レックスの方は──マリアベルが耳を欹《そばだ》てている限り──明らかに嘆息していた。何事かと思えば、と話し出した声は、普段マリアベルを諫めるときと同じ、苦々しいそれだ。「貴方は一体お幾つになられたのです、ウィリアム様。いい加減、それ相応の振る舞いを」「そういう小言なら毎朝毎晩エリオットから聞いている。十分だ」　久方に帰国したと思えばそれか、うるさいな、そう鬱陶しげにレックスの見咎めを追い払い、それより、と彼は些か苛立った語勢で問い詰める。「彼女、誰」　それは極めて端的な訊き方だったが、権力を有する者特有の、叛くことを容赦しない傲岸さがあった。一瞬、レックスがこちらへ視線を投げる気配がある。マリアベルは顔を上げなかった。──旧家の侯爵位、それに命令を下すより上位ともなれば、自ずと存在は限られる。　加えて──眩い金髪に、求心力の勁い碧眼。　一目見たなら決して忘れ得ぬ至高色。世界中の誰であっても、この国においては断じて偽証できないそれ。見紛うはずもない。金髪碧眼の血を色濃く継ぐ若い男は、今のクロンクビストにはただ一人だけしか存在しない。（ウィリアム）　八年前、突如として兄王を殺して王位を剥奪。直後に腐敗した前教皇を弾劾し、国内外で混乱と対立を深める中、戴冠を巡り『教会』と闘争を起こして、血濡れたその手で天の軛までもを断ち切った、神をも畏れぬ背教者。　クロンクビスト国王。　ウィリアム＝メディオフ・オルブライト。　──その人だ。「レックス」「──家出娘ですよ」　威迫する彼に対し、レックスは至極冷静な声で答えた。争乱を前に君主を裏切り、謀叛を起こした末の王子に侍った元近衛騎士は、おのれの馘首になど疾うに頓着していなかった。「彼女の家出を心配した方に預かってくれと頼まれましたので、仕方なしに、連れ帰ってきました。落ち着いたら国へ後見人を申し出て、貴方にもご報告するつもりでしたよ」　仕方なしに、のところに嫌に強調が籠もっている上、さらには不用意に姿を見せたのはそちらだと暗に指摘するレックスに、マリアベルは笑いそうになった。本当に、これを鉄仮面と評する周囲には、おまえの耳目は確かかと訊いて回りたいものだ。　へえ、家出、とレックスの言葉を彼は舌先で反復する。冷ややかなそれは、明らかに信用していない。「誰から請け負ったの。で、彼女はどこの誰」「北方の、名のある氏族《クラン》からです。私はオーベリで知り合いましたが、彼女はミルヴェーデン出身です。マリアベルと申します──マリア」　居候先の家長に紹介されたからには立たざるを得ない。マリアベルは本を閉じた。最後に読んだところは百八十二ページ目、と脳裏に刻みながらソファから腰を上げ、未だ談話室の入口で屯している男たちへ向き直る。そうして、侯爵家には釣り合わない、質素な灰黄緑色の踝丈のワンピースをわざとらしく抓んでみせた。ちらと碧眼を見た後、軽く膝を折って挨拶する。「マリアベルです。スタインズ侯爵家の皆様には数日前からお世話になっております、よろしくお願いします」「……随分と流暢なクロックだね、君」　嗤笑の滲む声に、顔を上げ小首を傾げたマリアベルは、再びわざとらしく目を瞬かせた。「あら。クロンクビスト語は通商語だし、西側諸国のいずれでも最も通じやすい言語ですもの。そこの男──失礼、スタインズ侯爵閣下がたった今申し上げませんでしたかしら。わたしは家出娘だと」　本当は誰にも拾われるつもりなどなかったのだから、どこでも生きてゆけるよう国際共通語《スプロウ・クロック》を学んでおくなど当然だろうと、マリアベルは言外に匂わせる。彼の視点で考えれば、余計に不審に思われることは承知の上だ。だが──この類いの人間に嘘を言うのは得策ではない。必要なものは、嘘ではないが真実でもない、ただの事実だけである。　ふうんと空返事をした彼は、やはり漆黒の、仕立てのよい手袋に包まれた指先を顎に当て、こちらの様子を窺ってくる。「ミルヴェーデンと言えば、かつて『銀狼』が切り拓いた北方の雄。確かに名のある氏族が多いだろう。ねえ、君、姓はないの？」「家出娘ですから。当然、捨ててきました」「つまり言えないんだ？」「閣下に出会う以前に捨ててきましたから、わたしどこに捨ててきたのかすっかり忘れてしまったのよ。そうね、どなたかが拾って下されば思い出すかもしれませんわ」　ですからどうぞお好きにお調べ下さいな。マリアベルは口の端を吊り上げる。　マリアベルを値踏みする、凍むる碧眼がすうと眇められた。彼はしばらく沈黙した。ややあって、嘲弄を象る唇が、マリアベルの『身元保証人』の名をひどく酷薄に呼んだ。「レックス。僕はおまえを信じるけれど、いいよね？」　正体不明の女のことは信じないが、実績ある王家の近衛騎士が責任を請け負うならば信じてもよい、という意味だろう。翻せば、何かあれば首を刎ねられるのはスタインズ侯爵レックス・ラドフォード、ということだ。　マリアベルの後見を預けた男は元よりそれを予断していたし、その意思を受諾したレックスも無論、彼がこのように言い出すのは了知していたはずである。レックスは首肯する。「当然です。ありがとうございます、ウィリアム様」「許可はしたが、後で正式に書状は出しておいて。エリオット宛でいい。序でにあれの仕事を増やせ」　最近喧しくて仕方がないんだと溜息を吐く彼に一瞬渋面を見せたものの、承知しました、とレックスが恭順したところで、彼らの後ろからティーワゴンを押した執事が現れた。布が被せてあるので判別しづらいが、大凡の形状から恐らく、カップは四つ準備してある。　同様のことを考えたのだろう、僕の分ならいらない、と彼は大儀そうに手を振った。「レックスが帰国したと言うから面白がって会いに来たけれど、見たくないものを見たせいで興が冷めた。帰るよ」　見たくないものとはわたしのことかしら、と。　こちらのことをとやかく言える立場かとマリアベルは思う。本当に彼は、悉く、礼儀をどこかへ置き忘れてきたらしい。「──失礼なひと」　黙っているのは性に合わないので、きっぱり言ってやった。　彼が眸を瞠ると同時、マリアベルの気性を理解しているレックスは額を押さえた。気苦労の堪えない男だ──主にマリアベルのせいだが──、あの性格であの歳まで禿げなかったのは幸運だ──それも十分に失礼な見方だが──などと、不憫なオトウサマのことを思考の隅で考えながら、マリアベルは彼らから視線を背け、ソファに座り直す。読み掛けの本を手に取った。「現れるなり不躾に誰何、こんな女呼ばわり、舌打ちに、見たくないものですって。初対面の上、ご自分は名乗りもしないのに。わたしの方こそあなたの顔など見たくもないわ。早くお帰りになって下さる？　読書の邪魔」　マリア、とレックスが窘める声が耳を掠めたが、聞こえなかったことにする。　マリアベルは室内に入りづらそうにしている執事を丁寧に呼んで、主人と客人の顔色を窺うのを説き伏せ、テーブルの上に給仕してもらう。今日はゾエの紅茶だった。湯気と共に、蜜を湛えた花のような甘い薫りが立ち上る。開いた本を片手で器用に押さえながら、マリアベルはカップを手に取った。　一口飲んだところで、頭上からふっと影が差す。　仰ぎ見るのも面倒だったのでマリアベルは相手にせずにいたのだが、彼が一向にそこから動かず、三十ページほど本が進んだところでさすがにうんざりした。根負けしたとは思いたくないけれども。見られたままというのは、疲れる。　目線を上げれば、彼の眸が、凝然とマリアベルを見下ろしている。　間近で見つめ返しても、その凍てつく碧さはやはりあの極夜だった。　悲鳴も絶望も何もかもを吸収してゆく、ミルヴェーデンの無音の冬を、深雪を、マリアベルに想起させる。「……なに」　図らずも尖った声が洩れた。マリアベルの傍らに立っている彼は、君は、と呟く。「僕を、知らない？」　──その『僕』とは、誰を示すものなのか。　どういう意味で訊いているのか。　マリアベルは咽喉の奥で嘲笑した。知らないわね、とぞんざいに答える。「だってあなた、名乗っていないでしょう」　彼が欲するものをマリアベルは知らない。考えようとも思わない。必要なものは、事実だけだ。　マリアベルの返答に、彼は暫時、考え込む素振りを見せた。その間、マリアベルは何とはなしに彼を眺め直す。　眸と髪の印象は変わらない。ただ、北方出身のマリアベルから見ても、肌が白いなと思った。輪郭に余計な肉はなく、どころか少し、痩けているような気もする。長い金の睫毛が影を落とす場所には、うっすらと隈があった。薄い唇にも色はない。そこらの女性よりも余程清淑とした美しい貌をしているのが、却って病的なさまに見えなくもなかった。よくよく観察すれば目に留まる、精緻な織りを成した漆黒の衣服が、その雰囲気を引き立ててしまっているのかもしれなかったが。　僕は、そう声を吐いた彼に、マリアベルは眼差しを向ける。「……僕はこれでも、僕の一存で君をどうにでもできる立場の人間なのだけど」　彼はほんの微かに首を傾げた。脅迫、というよりは、おのれの発言が含意するものを改めて確認しているような感じだった。──戸惑っているのだろうか。「そう。それなら好きにすればいいわ」「……君は」　先程から、『君』の繰り返しで鬱陶しい。マリアベルはあからさまに溜息を吐く。「君、ではないわ。マリアベル。親しい人はマリアと呼ぶわよ」　別にマリアと呼んでほしいわけではなかったが、名乗ったにも関わらず無視をされるのは気に食わない。　彼は何度か目を瞬かせた。　と、思えば、ついと口角を歪めて笑う。「そう。なら、親しくない僕はベルと呼ぼうか。マリアだなんて清らかぶってて最悪だから」「あなた、皮肉屋なのね」　まあいいけれど、と肩を竦めたマリアベルは、それで、と訊き返す。「わたしはあなたを何て呼べばいいの？　『王子様』」「……王子？」　怪訝そうに問うてくる彼に、マリアベルは我が儘で偉そうだからと理由を附した。事実なのだから仕方がない。マリアベルの歯に衣着せぬ物言いに、彼はやはり目を瞬かせ──ようやく、ウィリアム、と自らを名乗ったのだった。]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-10-02T11:39:30+00:00</published><updated>2020-10-08T02:57:29+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　初めて土に埋めたのは、鳥の死骸だった。</p><p>　産まれたばかりの雛だった。</p><p>　それは、最果ての孤島にようやく遅い春がやってこようかという時節であったと記憶している。家の庭に植えられたケセドの老木の枝へ毎年必ず巣作りに来る鳥がいたのだが、その年は何かのけものにでも襲われたのか、気づいたときには巣が荒らされていて、遺った雛鳥が一羽だけ、融けきらぬ雪の上に落ちていたのだった。生え揃ったばかりだったのだろうに、柔い羽毛は濡れそぼり、その下の薄紅の肉は剥きだしで、血と雪に塗れたそれは惨い有様だった。手のひらに掬い上げればまだほんのり生温かく、ぬるりとして、──死んでゆくのだと、思った。</p><p>　ひどく悴んだ手で凍てた雪を掻き分け、さらにその下の土を堀って、雛鳥のものなのかそれともおのれのものなのかも最早知れない血塗れの手で、ケセドの樹の下にその死骸を埋めた。それが、最初だった。</p><p>　翌年から、鳥が家の庭へ巣作りに来ることはなくなった。</p><p>　そうしておのれが次に土へ埋めたのは母だった。それから、何の罪も持たぬ市井の母子を埋め、父を埋め、異母兄《あに》を埋め、多くの島民を埋め、──やがては、おのれを誰よりも慈愛深く育ててくれ、この世で最も敬愛した祖父を埋めた。最果ての孤島にいくつの墓碑を建てたのだろう。数えても数えても数えても、数えきれないほど、土を掘っては埋めた。もう二度と、誰にも安らかな眠りを妨げられることのない、ディンケラの、あの凍土に。</p><p>　──私こそが、最初の雛であったなら善かったのに。</p><p>　今でも、そう思っている。</p><p><br></p><p><br></p><p>　．</p><p>　．</p><p>　．</p><p><br></p><p><br></p><p>　極夜のようだ、というのが第一印象だった。</p><p>　大陸最北の国、マリアベルの祖国ミルヴェーデンでは、真冬になると太陽の昇らぬ時季がある。昼と夜の境がなく、日中でも昏い状態が続くその日を極夜と呼ぶのだ。国の果てでは極夜は数ヶ月にも及ぶことがあり、あえかな光が今にも潰えそうに所在なく揺曳している──。初めて見《まみ》えた彼の印象は、そんな、祖国の極夜だった。多分に、彼の、どこまでも深く濃い碧の双眸が、マリアベルにそのような心象を抱かせたのだと思う。</p><p>　吐息さえ凍る、あの厳冬を思い出した。</p><p>　ミルヴェーデンの冬は、静謐さえも呑み込んでしまう、耳朶を引き裂く無音の世界だ。新緑の芽吹く声など遥か遠く、どこもかしこも雪と氷が青白く光る、本当に頼りない薄明だけがある。時折、ほんの気まぐれに極光が現れては、闇に塗り潰された天を裂いてゆく。終わりの地だ。そこから先には何もない、死にゆくものだけが辿り着く、最果ての冬。彼の眸は、あの碧さに似ている。どこにいても目立つだろう、天使の梯子のような、暗雲を降りてくる艶やかな金の髪よりも、マリアベルにはその昏さがやけに目についた。</p><p>　金の睫毛の下で、マリアベルを認識するなり、彼の碧眼は冷たさを増した。</p><p><br></p><p>「──誰」</p><p><br></p><p>　初対面の人間にその露骨な不機嫌さはないだろう、と思わざるを得ない響きだった。風貌からマリアベルが推測する年頃の男性にしては繊細な、高い声音は、咽喉の奥から低い唸りの嫌悪を吐き出す。あの堅物のレックスのところにこんな女がいるなんて聞いてないんだけど、と。</p><p><br></p><p>「オーウェン、どういうこと」</p><p><br></p><p>　彼はマリアベルから目を逸らさないまま、詰問の口調で言う。オーウェン、というのは彼の後ろに付いて来ている人物だろう。彼と同年代か、否、年下と思しき青年だ。マリアベルと同じ年の頃くらいかもしれない。初夏だというのに、全身、見目がとても暑苦しい漆黒の装いをした彼とは異なり、動き易さを重視した麻《カンナビス》のシャツの軽装が若々しい。その『オーウェン』が、存じ上げません、と実に素っ気ない返答をしたので、彼は品なく舌打ちした。仮にも女性の面前で失礼なことだ。</p><p>　ソファに座ったまま、談話室に入ってきた彼らを一通り観察したマリアベルは、視線を手許の本へと戻した。生憎と、自ら名乗るわけでもなく、不躾に誰何する人間に付き合う趣味は持っていない。況して、見ず知らずの相手にこんな女とは随分な言いようである。</p><p>　無視を決め込んだマリアベルをどう思ったのか、彼は矛先を変え、案内を務めたらしいスタインズ侯爵家の家令に問い質している。訊いたところで家令は知る由もないと、マリアベルが独りごちたとき、この小さな騒動を聞きつけたレックスがやって来た。レックス、と現れた家長を非難がましく呼ばう彼に対し、レックスの方は──マリアベルが耳を欹《そばだ》てている限り──明らかに嘆息していた。何事かと思えば、と話し出した声は、普段マリアベルを諫めるときと同じ、苦々しいそれだ。</p><p><br></p><p>「貴方は一体お幾つになられたのです、ウィリアム様。いい加減、それ相応の振る舞いを」</p><p>「そういう小言なら毎朝毎晩エリオットから聞いている。十分だ」</p><p><br></p><p>　久方に帰国したと思えばそれか、うるさいな、そう鬱陶しげにレックスの見咎めを追い払い、それより、と彼は些か苛立った語勢で問い詰める。</p><p><br></p><p>「彼女、誰」</p><p><br></p><p>　それは極めて端的な訊き方だったが、権力を有する者特有の、叛くことを容赦しない傲岸さがあった。一瞬、レックスがこちらへ視線を投げる気配がある。マリアベルは顔を上げなかった。──旧家の侯爵位、それに命令を下すより上位ともなれば、自ずと存在は限られる。</p><p>　加えて──眩い金髪に、求心力の勁い碧眼。</p><p>　一目見たなら決して忘れ得ぬ至高色。世界中の誰であっても、この国においては断じて偽証できないそれ。見紛うはずもない。金髪碧眼の血を色濃く継ぐ若い男は、今のクロンクビストにはただ一人だけしか存在しない。</p><p><br></p><p>（ウィリアム）</p><p><br></p><p>　八年前、突如として兄王を殺して王位を剥奪。直後に腐敗した前教皇を弾劾し、国内外で混乱と対立を深める中、戴冠を巡り『教会』と闘争を起こして、血濡れたその手で天の軛までもを断ち切った、神をも畏れぬ背教者。</p><p>　クロンクビスト国王。</p><p>　ウィリアム＝メディオフ・オルブライト。</p><p>　──その人だ。</p><p><br></p><p>「レックス」</p><p>「──家出娘ですよ」</p><p><br></p><p>　威迫する彼に対し、レックスは至極冷静な声で答えた。争乱を前に君主を裏切り、謀叛を起こした末の王子に侍った元近衛騎士は、おのれの馘首になど疾うに頓着していなかった。</p><p><br></p><p>「彼女の家出を心配した方に預かってくれと頼まれましたので、仕方なしに、連れ帰ってきました。落ち着いたら国へ後見人を申し出て、貴方にもご報告するつもりでしたよ」</p><p><br></p><p>　仕方なしに、のところに嫌に強調が籠もっている上、さらには不用意に姿を見せたのはそちらだと暗に指摘するレックスに、マリアベルは笑いそうになった。本当に、これを鉄仮面と評する周囲には、おまえの耳目は確かかと訊いて回りたいものだ。</p><p>　へえ、家出、とレックスの言葉を彼は舌先で反復する。冷ややかなそれは、明らかに信用していない。</p><p><br></p><p>「誰から請け負ったの。で、彼女はどこの誰」</p><p>「北方の、名のある氏族《クラン》からです。私はオーベリで知り合いましたが、彼女はミルヴェーデン出身です。マリアベルと申します──マリア」</p><p><br></p><p>　居候先の家長に紹介されたからには立たざるを得ない。マリアベルは本を閉じた。最後に読んだところは百八十二ページ目、と脳裏に刻みながらソファから腰を上げ、未だ談話室の入口で屯している男たちへ向き直る。そうして、侯爵家には釣り合わない、質素な灰黄緑色の踝丈のワンピースをわざとらしく抓んでみせた。ちらと碧眼を見た後、軽く膝を折って挨拶する。</p><p><br></p><p>「マリアベルです。スタインズ侯爵家の皆様には数日前からお世話になっております、よろしくお願いします」</p><p>「……随分と流暢なクロックだね、君」</p><p><br></p><p>　嗤笑の滲む声に、顔を上げ小首を傾げたマリアベルは、再びわざとらしく目を瞬かせた。</p><p><br></p><p>「あら。クロンクビスト語は通商語だし、西側諸国のいずれでも最も通じやすい言語ですもの。そこの男──失礼、スタインズ侯爵閣下がたった今申し上げませんでしたかしら。わたしは家出娘だと」</p><p><br></p><p>　本当は誰にも拾われるつもりなどなかったのだから、どこでも生きてゆけるよう国際共通語《スプロウ・クロック》を学んでおくなど当然だろうと、マリアベルは言外に匂わせる。彼の視点で考えれば、余計に不審に思われることは承知の上だ。だが──この類いの人間に嘘を言うのは得策ではない。必要なものは、嘘ではないが真実でもない、ただの事実だけである。</p><p>　ふうんと空返事をした彼は、やはり漆黒の、仕立てのよい手袋に包まれた指先を顎に当て、こちらの様子を窺ってくる。</p><p><br></p><p>「ミルヴェーデンと言えば、かつて『銀狼』が切り拓いた北方の雄。確かに名のある氏族が多いだろう。ねえ、君、姓はないの？」</p><p>「家出娘ですから。当然、捨ててきました」</p><p>「つまり言えないんだ？」</p><p>「閣下に出会う以前に捨ててきましたから、わたしどこに捨ててきたのかすっかり忘れてしまったのよ。そうね、どなたかが拾って下されば思い出すかもしれませんわ」</p><p><br></p><p>　ですからどうぞお好きにお調べ下さいな。マリアベルは口の端を吊り上げる。</p><p>　マリアベルを値踏みする、凍むる碧眼がすうと眇められた。彼はしばらく沈黙した。ややあって、嘲弄を象る唇が、マリアベルの『身元保証人』の名をひどく酷薄に呼んだ。</p><p><br></p><p>「レックス。僕はおまえを信じるけれど、いいよね？」</p><p><br></p><p>　正体不明の女のことは信じないが、実績ある王家の近衛騎士が責任を請け負うならば信じてもよい、という意味だろう。翻せば、何かあれば首を刎ねられるのはスタインズ侯爵レックス・ラドフォード、ということだ。</p><p>　マリアベルの後見を預けた男は元よりそれを予断していたし、その意思を受諾したレックスも無論、彼がこのように言い出すのは了知していたはずである。レックスは首肯する。</p><p><br></p><p>「当然です。ありがとうございます、ウィリアム様」</p><p>「許可はしたが、後で正式に書状は出しておいて。エリオット宛でいい。序でにあれの仕事を増やせ」</p><p><br></p><p>　最近喧しくて仕方がないんだと溜息を吐く彼に一瞬渋面を見せたものの、承知しました、とレックスが恭順したところで、彼らの後ろからティーワゴンを押した執事が現れた。布が被せてあるので判別しづらいが、大凡の形状から恐らく、カップは四つ準備してある。</p><p>　同様のことを考えたのだろう、僕の分ならいらない、と彼は大儀そうに手を振った。</p><p><br></p><p>「レックスが帰国したと言うから面白がって会いに来たけれど、見たくないものを見たせいで興が冷めた。帰るよ」</p><p><br></p><p>　見たくないものとはわたしのことかしら、と。</p><p>　こちらのことをとやかく言える立場かとマリアベルは思う。本当に彼は、悉く、礼儀をどこかへ置き忘れてきたらしい。</p><p><br></p><p>「──失礼なひと」</p><p><br></p><p>　黙っているのは性に合わないので、きっぱり言ってやった。</p><p>　彼が眸を瞠ると同時、マリアベルの気性を理解しているレックスは額を押さえた。気苦労の堪えない男だ──主にマリアベルのせいだが──、あの性格であの歳まで禿げなかったのは幸運だ──それも十分に失礼な見方だが──などと、不憫なオトウサマのことを思考の隅で考えながら、マリアベルは彼らから視線を背け、ソファに座り直す。読み掛けの本を手に取った。</p><p><br></p><p>「現れるなり不躾に誰何、こんな女呼ばわり、舌打ちに、見たくないものですって。初対面の上、ご自分は名乗りもしないのに。わたしの方こそあなたの顔など見たくもないわ。早くお帰りになって下さる？　読書の邪魔」</p><p><br></p><p>　マリア、とレックスが窘める声が耳を掠めたが、聞こえなかったことにする。</p><p>　マリアベルは室内に入りづらそうにしている執事を丁寧に呼んで、主人と客人の顔色を窺うのを説き伏せ、テーブルの上に給仕してもらう。今日はゾエの紅茶だった。湯気と共に、蜜を湛えた花のような甘い薫りが立ち上る。開いた本を片手で器用に押さえながら、マリアベルはカップを手に取った。</p><p>　一口飲んだところで、頭上からふっと影が差す。</p><p>　仰ぎ見るのも面倒だったのでマリアベルは相手にせずにいたのだが、彼が一向にそこから動かず、三十ページほど本が進んだところでさすがにうんざりした。根負けしたとは思いたくないけれども。見られたままというのは、疲れる。</p><p>　目線を上げれば、彼の眸が、凝然とマリアベルを見下ろしている。</p><p>　間近で見つめ返しても、その凍てつく碧さはやはりあの極夜だった。</p><p>　悲鳴も絶望も何もかもを吸収してゆく、ミルヴェーデンの無音の冬を、深雪を、マリアベルに想起させる。</p><p><br></p><p>「……なに」</p><p><br></p><p>　図らずも尖った声が洩れた。マリアベルの傍らに立っている彼は、君は、と呟く。</p><p><br></p><p>「僕を、知らない？」</p><p><br></p><p>　──その『僕』とは、誰を示すものなのか。</p><p>　どういう意味で訊いているのか。</p><p>　マリアベルは咽喉の奥で嘲笑した。知らないわね、とぞんざいに答える。</p><p><br></p><p>「だってあなた、名乗っていないでしょう」</p><p><br></p><p>　彼が欲するものをマリアベルは知らない。考えようとも思わない。必要なものは、事実だけだ。</p><p>　マリアベルの返答に、彼は暫時、考え込む素振りを見せた。その間、マリアベルは何とはなしに彼を眺め直す。</p><p>　眸と髪の印象は変わらない。ただ、北方出身のマリアベルから見ても、肌が白いなと思った。輪郭に余計な肉はなく、どころか少し、痩けているような気もする。長い金の睫毛が影を落とす場所には、うっすらと隈があった。薄い唇にも色はない。そこらの女性よりも余程清淑とした美しい貌をしているのが、却って病的なさまに見えなくもなかった。よくよく観察すれば目に留まる、精緻な織りを成した漆黒の衣服が、その雰囲気を引き立ててしまっているのかもしれなかったが。</p><p>　僕は、そう声を吐いた彼に、マリアベルは眼差しを向ける。</p><p><br></p><p>「……僕はこれでも、僕の一存で君をどうにでもできる立場の人間なのだけど」</p><p><br></p><p>　彼はほんの微かに首を傾げた。脅迫、というよりは、おのれの発言が含意するものを改めて確認しているような感じだった。──戸惑っているのだろうか。</p><p><br></p><p>「そう。それなら好きにすればいいわ」</p><p>「……君は」</p><p><br></p><p>　先程から、『君』の繰り返しで鬱陶しい。マリアベルはあからさまに溜息を吐く。</p><p><br></p><p>「君、ではないわ。マリアベル。親しい人はマリアと呼ぶわよ」</p><p><br></p><p>　別にマリアと呼んでほしいわけではなかったが、名乗ったにも関わらず無視をされるのは気に食わない。</p><p>　彼は何度か目を瞬かせた。</p><p>　と、思えば、ついと口角を歪めて笑う。</p><p><br></p><p>「そう。なら、親しくない僕はベルと呼ぼうか。マリアだなんて清らかぶってて最悪だから」</p><p>「あなた、皮肉屋なのね」</p><p><br></p><p>　まあいいけれど、と肩を竦めたマリアベルは、それで、と訊き返す。</p><p><br></p><p>「わたしはあなたを何て呼べばいいの？　『王子様』」</p><p>「……王子？」</p><p><br></p><p>　怪訝そうに問うてくる彼に、マリアベルは我が儘で偉そうだからと理由を附した。事実なのだから仕方がない。マリアベルの歯に衣着せぬ物言いに、彼はやはり目を瞬かせ──ようやく、ウィリアム、と自らを名乗ったのだった。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】05. 青嵐の予感]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10557694/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10557694</id><summary><![CDATA[　屋根のない箱形の、生成色《エクルベージュ》の壁の邸宅が軒を連ねている。舗装された街道、区画は規則正しく、整然とした街並みはどこまでも続く。車に設えられた小窓を開放すると、涼やかさの中に微かな熱を孕んだ初夏の風がやってきて、それとともに吹き込んだ雑踏が耳を掠めていった。マリアベルは窓際に身を寄せ、流れてゆく景色を眺める。　客船レイアが帰港した小さな港町ルーデルスから馬車で半刻ほど。到着したのは、ヨンナ＝エストバリ海からの大陸への玄関口にして、イェイエル河に分断された大陸西側において最も繁栄している国家のその心臓部。大国クロンクビストが王都、エイジェルステットである。　きら、きらりと光を弾く陽射しの下で、道ゆく女性の、色鮮やかな日傘が踊るのが目に留まった。「──何か興味深いことでもございましたか」　おのおのの従者に荷を持たせ、日傘に隠れて姦しく囀る娘たちは、マリアベルと同じ歳の頃だろうか。衣装の華やかさからして、少し下かもしれない。そんなことを考えながら外を見ていたとき、斜向かいに腰掛けた男から声を掛けられた。視線は外へ遣ったまま、マリアベルは口の端で笑う。「そうね。新しい国はどこも楽しいわね」　クロンクビストほど大きい国は初めてだからなおさら、と。　素直な気持ちでそう答えたつもりだったが、浮かれてもいない声の調子のせいか、白々しい言葉だと自分でも思わないではなかった。しかし、そうですかと返した男の声色も普段と変わらない淡泊さだったので、その問答がどうということでもないのだろう。男にしてはめずらしく、社交辞令だったのかもしれない。──それよりも。「あなた、いつまでわたしに敬語を使うつもりなの？」　馬蹄の音に交ざって、窓の外を行き交う人々のざわめきが揺れ動いていた。稀少な青の油絵具で塗り固められたような、厚みのある碧空へ、高らかに飛んでゆくのは子どもたちの声だ。進めども進めども、褪せず、濃密な気配がする。息づいているのだとマリアベルは思った。祖国── 一年の半分以上が雪と氷に覆われている、凍んだような静寂に埋もれる故郷では聞こえぬ賑やかさと豊かさだ。嫌いではない──が。　馬車からの眺めに、マリアベルは眸を細める。　この国──クロンクビストは、大陸の西側における要所だ。創世記より成立するとされる『教会』と、建国の時から長きに渡り双肩であった。たとえ八年前の政変を機に教皇庁から離反し、人の都となったといえども、地政上でも宗教上でも決して存在を無視することは叶わない。エイジェルステットの街並みは、歴史的な重圧の上に成り立っている光景であり、それを憧憬や羨望といった一つの単語で片づけてしまうことは、マリアベルには困難なことのように思われた。「わたしはこれからあなたの養子になるのよ、レックス・ラドフォード。ちゃんとわかっているの？」「……理解はしていますが」　渋々、といったふうで頷きがあった。「そう。では、ぜひとも納得もしてちょうだい。わたしたちはもうここまで辿り着いたのだから」　今更引き返すだなんてあり得ないわ、咽喉の奥で嗤笑いながら、マリアベルは男の方へと向き直った。五十の声を聞いてなお精悍さを失わない、元騎士の尊厳を覗かせる男の面には、何とも言い難いとばかりの感情が見え隠れしている。至極面倒なことを押しつけられた現実に、盛大に顔を顰めたいのを堪えている、と評してもいい。──この国で自分の養父となるこの男、スタインズ侯爵レックス・ラドフォードは、本人に会う以前には自他ともに認める鉄仮面だと聞かされていたわりに、存外そうでもないのである。それはここまでの旅路における、マリアベルの彼に対する見解だった。堅物なのは確かだが。　マリアベルは眦を歪めて笑った。「できないのなら、お義父様って呼ぶわよ」　ラドフォード家は、歴史あるクロンクビスト貴族の家柄である。だが、嫡男として先祖代々の爵位を受け継いだものの、レックス自身は近衛騎士としてクロンクビスト王一筋に仕えてきたために、いずれの令嬢を娶ることもなく、つまりは妻子がいなかった。一族には、世継ぎなど妹の息子──甥が一人いれば十分だと言って憚らなかったらしいのだが、そんな男の許に、ある日突然、レックスを『オトウサマ』と呼ぶどこの馬の骨ともしれない若い娘が現れたなら。周囲がどう邪推するかなど考えるまでもない。　その予想を共有したらしく、顰めた顔のその額にさらに皺をたたんだ男に、マリアベルはあざとく小首を傾げた。追い討ちは容赦なく、が信条だ。「不満なら、旦那様、と呼んで差し上げてもよろしくてよ」　五十の男に、既婚歴なしの若妻である。あなたの名声は地に落ちるかもしれないけれどそれもいいわよね、周囲を黙らせやすくて、と付け加えれば、暫くの沈黙の後、レックスはあからさまにうんざりとした息を吐いた。そうして険を乗せた黒眸で、マリアベルを睨めつける。「……今更墜ちる名声などないが」　──勝った。　彼生来の、ぶっきらぼうな物言いに、マリアベルは微笑を浮かべる。「そうだとしても要らぬ不名誉など負わない方がいいもの」　マリアベル様、と口を挟もうとするレックスを、今度は眼差しで制する。「だめ、マリアと呼んで。敬語を止めても敬称を付けたら意味がないでしょう、あなた莫迦なの？　──ああ、わたしは今後もこのまま話すけれど、いいわよね。礼儀正しく喋ろうとすると却って襤褸が出易くて。身を以て経験済みだからあなたの反論は受けつけないわよ、レックス」　一息に、いけしゃあしゃあとマリアベルは宣う。レックスはもう何も言わなかった。完全に目が据わっている。口が裂けても声にはしないだろうが、厄介な人物《もの》を預かった、と心底辟易しているに違いない。けれど、境遇を呪うのならばわたしではなくあの男にしてほしいのだけど、とマリアベルは胸中で独りごちる。既に引退したとはいえ元近衛騎士だ、揶揄う塩梅には気をつけないと。何事も引き際が肝心なのだから。　マリアベルは再び、その白緑の瞳を街へと移した。　二人が乗った馬車は、扉の鎖された大聖堂の前を通り過ぎ、それまでより一際大きな屋敷が建ち並ぶ区画へと入ってゆく。「──……私は一人、大変なお転婆娘を知っているが」　それはもう、他人の言葉になど一瞬も耳を傾けぬほど。　無謀な生き方を選んだ娘だったが。「それでも、貴女ほどではなかったような気もする」　彼の言葉がどういう意味なのかとは考えなかった。　だから、車内に吹き込んだぬるい風が、溜息とともに零された、その、どこか心許ない声を攫ってゆくのを、マリアベルは気づかなかったことにした。　クロンクビスト貴族の王都の屋敷は、そのほとんどが三区セーデンと四区リンデルに建てられている。三区の方が王城オクセンシェルナに近く、そのためそこにある屋敷の多くは公爵や侯爵のものが中心であり、伯爵位でも城内で重役を担う高位貴族のものだった。侯爵位を賜るラドフォード家は名誉騎士の家系で、とりわけ王城に近接している。近接、とはいえ、果てしなく長い往来のその先の先にようやく、郊外に建造された王城、を取り囲む外壁がある、というので、ラドフォード家の敷地から城自体が視界に入ることはないのだが。　マリアベルの義父になる男であり、屋敷のあるじであるレックスは、現王が即位した一年後に騎士の称号を返上して以来、ほとんどこの屋敷には帰っていないと聞いている。だが、元々王に近侍して登城していることが常であったせいか、彼の使用人たちは落ち着いた様子で久方に顔を見せた家長を出迎えた。さすがに見知らぬ女を連れ帰ってきたことには、屋敷を預かる家令ですら驚愕していたけれど、その動揺も一瞬のことで、レックスの指示を皮切りにすぐさまマリアベルを迎え入れる準備へと動き出すのだから、侯爵家の面々には恐れ入る。　だから、あなた意外と人望があったのね、などと呟いてしまったのは致し方のないことだ、とマリアベルは思う。耳敏くそれを拾ったレックスの白眼視には、大人しく首を竦めておいた。よくよく考えれば、人望なくして王家が所有する近衛騎士団の長にまで上り詰めるわけがないのだが。「あなたがいない間、この家は誰が取り仕切っていたの？」　ひとまず、ということで、談話室へ案内されたマリアベルは、レックスに促されて腰掛けながらそう訊いた。妹だ、と端的な答えが返ってくる。「旦那が既に死別しているから出戻り、とまでは言わないが。あれの息子の一人が家を継ぐことになっているから、その序でだな」「わたしがお会いすることはあるかしら。まあ、あるわよね」「ああ。二週に一度は来ているようだからそのうちに。……先に話しておくが」　執事が低卓に茶器を揃えてゆくのを尻目に、レックスの声色が僅かに低くなる。「クロンクビスト貴族にはいくつかの派閥がある。妹は現王を支持しているが、彼女が嫁いだ家──レディントン伯爵家の一族にはそうではない者も多い」　美しく澄んだ色合いの紅茶がティーカップに注がれてゆく。青みがかった爽やかな香りが薫った。執事に菓子とともに差し出され、マリアベルは緩く微笑んで謝辞を述べる。カップを手に取ると、曲線美を極めたその縁に唇を添わせた。そうして一口嗜むと、美味しい、と呟く。もう一口含んだのち、マリアベルは執事に向き直って、とても美味しいわ、と今度ははっきり伝えた。彼は表情こそ変えなかったが、胸が微かに上下したのを見るに、安堵したようだった。「マリアベルさ……マリア、聞いているのか」　供された紅茶をただ楽しむマリアベルに、レックスが怪訝そうな表情をする。聞いているわよ、とマリアベルは御座なりに頷いた。「権力闘争などどこにでもあるもの。とりあえず聞いておくけれど」　マリア、とレックスが言い募ろうとするので、マリアベルはようやく視線を上げた。「急いてもいいことなどないわよ、レックス。為損じるだけ。それよりもまずは折角の紅茶を楽しんだらどう？　久しぶりのご自宅なのだから、肩の力を抜いたらいいのよ」　カップをソーサーへ戻すと、今度は菓子に手を付ける。赤紫色の花びらが生地に練り込まれた焼き菓子だ。マリアベルが今まで目にしたことがないそれに瞳を瞬かせ、傍に控える執事を仰いで訊ねると、彼は、食用の花でイラークリーと言うのだと教えてくれた。　囓ると少し苦みがあったが、その分生地が甘いので、ちょうどいい。　あるじに近づく不審な女と捉えられてもおかしくはなかったのに、と考えながら、マリアベルがラドフォード家の心遣いをありがたく頂いていると、レックスは諦めきったような溜息を洩らした。自らの前に用意された茶器に手を伸ばす。彼の指には剣を握る者特有の無骨さがあったが、所作には侯爵家の嫡男らしい優雅さが覗いていて、ともにティータイムを楽しむのは悪くなさそうだった。マリアベルは、美味しいものは美味しく頂きたいのである。「わたしはきっと、まだあなたの信用を勝ち得ていないのでしょうけれど」　ふ、とレックスが一息吐いた頃合いを見計らい、マリアベルは独白のように囁く。男の黒眸がこちらを見た。クロンクビストへ着いてからというもの──本人は意識していなかっただろうが──手負いのけものと見紛うくらいには緊張を漲らせていた眼差しが、幾許か鋭さを潜め、落ち着きを取り戻している。紅茶は本当に偉大なる存在だわ、とマリアベルは内心で笑う。「うまくやるわよ。約束だもの」　こんなに血塗れの手でも。　救えるひとがいるのだと、天使が信じてくれるのなら。　マリアベルは用意されていた手布で菓子を抓んだ手指を拭うと、背筋を伸ばして挙措を改めた。他国籍の人間である自分の身元の引受人となってくれたレックス──スタインズ侯爵に毅然と向き合い、だから改めて、と、傍目には美しい貴婦人の手を差し出した。洋上を力強く羽ばたいていった鳥たちの、あの燦然とした光を孕んだ白緑の眸を細めながら。「どうぞよろしく、侯爵閣下」]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-10-02T11:27:24+00:00</published><updated>2020-10-02T11:48:58+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　屋根のない箱形の、生成色《エクルベージュ》の壁の邸宅が軒を連ねている。舗装された街道、区画は規則正しく、整然とした街並みはどこまでも続く。車に設えられた小窓を開放すると、涼やかさの中に微かな熱を孕んだ初夏の風がやってきて、それとともに吹き込んだ雑踏が耳を掠めていった。マリアベルは窓際に身を寄せ、流れてゆく景色を眺める。</p><p>　客船レイアが帰港した小さな港町ルーデルスから馬車で半刻ほど。到着したのは、ヨンナ＝エストバリ海からの大陸への玄関口にして、イェイエル河に分断された大陸西側において最も繁栄している国家のその心臓部。大国クロンクビストが王都、エイジェルステットである。</p><p>　きら、きらりと光を弾く陽射しの下で、道ゆく女性の、色鮮やかな日傘が踊るのが目に留まった。</p><p><br></p><p>「──何か興味深いことでもございましたか」</p><p><br></p><p>　おのおのの従者に荷を持たせ、日傘に隠れて姦しく囀る娘たちは、マリアベルと同じ歳の頃だろうか。衣装の華やかさからして、少し下かもしれない。そんなことを考えながら外を見ていたとき、斜向かいに腰掛けた男から声を掛けられた。視線は外へ遣ったまま、マリアベルは口の端で笑う。</p><p><br></p><p>「そうね。新しい国はどこも楽しいわね」</p><p><br></p><p>　クロンクビストほど大きい国は初めてだからなおさら、と。</p><p>　素直な気持ちでそう答えたつもりだったが、浮かれてもいない声の調子のせいか、白々しい言葉だと自分でも思わないではなかった。しかし、そうですかと返した男の声色も普段と変わらない淡泊さだったので、その問答がどうということでもないのだろう。男にしてはめずらしく、社交辞令だったのかもしれない。──それよりも。</p><p><br></p><p>「あなた、いつまでわたしに敬語を使うつもりなの？」</p><p><br></p><p>　馬蹄の音に交ざって、窓の外を行き交う人々のざわめきが揺れ動いていた。稀少な青の油絵具で塗り固められたような、厚みのある碧空へ、高らかに飛んでゆくのは子どもたちの声だ。進めども進めども、褪せず、濃密な気配がする。息づいているのだとマリアベルは思った。祖国── 一年の半分以上が雪と氷に覆われている、凍んだような静寂に埋もれる故郷では聞こえぬ賑やかさと豊かさだ。嫌いではない──が。</p><p>　馬車からの眺めに、マリアベルは眸を細める。</p><p>　この国──クロンクビストは、大陸の西側における要所だ。創世記より成立するとされる『教会』と、建国の時から長きに渡り双肩であった。たとえ八年前の政変を機に教皇庁から離反し、人の都となったといえども、地政上でも宗教上でも決して存在を無視することは叶わない。エイジェルステットの街並みは、歴史的な重圧の上に成り立っている光景であり、それを憧憬や羨望といった一つの単語で片づけてしまうことは、マリアベルには困難なことのように思われた。</p><p><br></p><p>「わたしはこれからあなたの養子になるのよ、レックス・ラドフォード。ちゃんとわかっているの？」</p><p>「……理解はしていますが」</p><p><br></p><p>　渋々、といったふうで頷きがあった。</p><p><br></p><p>「そう。では、ぜひとも納得もしてちょうだい。わたしたちはもうここまで辿り着いたのだから」</p><p><br></p><p>　今更引き返すだなんてあり得ないわ、咽喉の奥で嗤笑いながら、マリアベルは男の方へと向き直った。五十の声を聞いてなお精悍さを失わない、元騎士の尊厳を覗かせる男の面には、何とも言い難いとばかりの感情が見え隠れしている。至極面倒なことを押しつけられた現実に、盛大に顔を顰めたいのを堪えている、と評してもいい。──この国で自分の養父となるこの男、スタインズ侯爵レックス・ラドフォードは、本人に会う以前には自他ともに認める鉄仮面だと聞かされていたわりに、存外そうでもないのである。それはここまでの旅路における、マリアベルの彼に対する見解だった。堅物なのは確かだが。</p><p>　マリアベルは眦を歪めて笑った。</p><p><br></p><p>「できないのなら、お義父様って呼ぶわよ」</p><p><br></p><p>　ラドフォード家は、歴史あるクロンクビスト貴族の家柄である。だが、嫡男として先祖代々の爵位を受け継いだものの、レックス自身は近衛騎士としてクロンクビスト王一筋に仕えてきたために、いずれの令嬢を娶ることもなく、つまりは妻子がいなかった。一族には、世継ぎなど妹の息子──甥が一人いれば十分だと言って憚らなかったらしいのだが、そんな男の許に、ある日突然、レックスを『オトウサマ』と呼ぶどこの馬の骨ともしれない若い娘が現れたなら。周囲がどう邪推するかなど考えるまでもない。</p><p>　その予想を共有したらしく、顰めた顔のその額にさらに皺をたたんだ男に、マリアベルはあざとく小首を傾げた。追い討ちは容赦なく、が信条だ。</p><p><br></p><p>「不満なら、旦那様、と呼んで差し上げてもよろしくてよ」</p><p><br></p><p>　五十の男に、既婚歴なしの若妻である。あなたの名声は地に落ちるかもしれないけれどそれもいいわよね、周囲を黙らせやすくて、と付け加えれば、暫くの沈黙の後、レックスはあからさまにうんざりとした息を吐いた。そうして険を乗せた黒眸で、マリアベルを睨めつける。</p><p><br></p><p>「……今更墜ちる名声などないが」</p><p><br></p><p>　──勝った。</p><p>　彼生来の、ぶっきらぼうな物言いに、マリアベルは微笑を浮かべる。</p><p><br></p><p>「そうだとしても要らぬ不名誉など負わない方がいいもの」</p><p><br></p><p>　マリアベル様、と口を挟もうとするレックスを、今度は眼差しで制する。</p><p><br></p><p>「だめ、マリアと呼んで。敬語を止めても敬称を付けたら意味がないでしょう、あなた莫迦なの？　──ああ、わたしは今後もこのまま話すけれど、いいわよね。礼儀正しく喋ろうとすると却って襤褸が出易くて。身を以て経験済みだからあなたの反論は受けつけないわよ、レックス」</p><p><br></p><p>　一息に、いけしゃあしゃあとマリアベルは宣う。レックスはもう何も言わなかった。完全に目が据わっている。口が裂けても声にはしないだろうが、厄介な人物《もの》を預かった、と心底辟易しているに違いない。けれど、境遇を呪うのならばわたしではなくあの男にしてほしいのだけど、とマリアベルは胸中で独りごちる。既に引退したとはいえ元近衛騎士だ、揶揄う塩梅には気をつけないと。何事も引き際が肝心なのだから。</p><p>　マリアベルは再び、その白緑の瞳を街へと移した。</p><p>　二人が乗った馬車は、扉の鎖された大聖堂の前を通り過ぎ、それまでより一際大きな屋敷が建ち並ぶ区画へと入ってゆく。</p><p><br></p><p>「──……私は一人、大変なお転婆娘を知っているが」</p><p><br></p><p>　それはもう、他人の言葉になど一瞬も耳を傾けぬほど。</p><p>　無謀な生き方を選んだ娘だったが。</p><p><br></p><p>「それでも、貴女ほどではなかったような気もする」</p><p><br></p><p>　彼の言葉がどういう意味なのかとは考えなかった。</p><p>　だから、車内に吹き込んだぬるい風が、溜息とともに零された、その、どこか心許ない声を攫ってゆくのを、マリアベルは気づかなかったことにした。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　クロンクビスト貴族の王都の屋敷は、そのほとんどが三区セーデンと四区リンデルに建てられている。三区の方が王城オクセンシェルナに近く、そのためそこにある屋敷の多くは公爵や侯爵のものが中心であり、伯爵位でも城内で重役を担う高位貴族のものだった。侯爵位を賜るラドフォード家は名誉騎士の家系で、とりわけ王城に近接している。近接、とはいえ、果てしなく長い往来のその先の先にようやく、郊外に建造された王城、を取り囲む外壁がある、というので、ラドフォード家の敷地から城自体が視界に入ることはないのだが。</p><p>　マリアベルの義父になる男であり、屋敷のあるじであるレックスは、現王が即位した一年後に騎士の称号を返上して以来、ほとんどこの屋敷には帰っていないと聞いている。だが、元々王に近侍して登城していることが常であったせいか、彼の使用人たちは落ち着いた様子で久方に顔を見せた家長を出迎えた。さすがに見知らぬ女を連れ帰ってきたことには、屋敷を預かる家令ですら驚愕していたけれど、その動揺も一瞬のことで、レックスの指示を皮切りにすぐさまマリアベルを迎え入れる準備へと動き出すのだから、侯爵家の面々には恐れ入る。</p><p>　だから、あなた意外と人望があったのね、などと呟いてしまったのは致し方のないことだ、とマリアベルは思う。耳敏くそれを拾ったレックスの白眼視には、大人しく首を竦めておいた。よくよく考えれば、人望なくして王家が所有する近衛騎士団の長にまで上り詰めるわけがないのだが。</p><p><br></p><p>「あなたがいない間、この家は誰が取り仕切っていたの？」</p><p><br></p><p>　ひとまず、ということで、談話室へ案内されたマリアベルは、レックスに促されて腰掛けながらそう訊いた。妹だ、と端的な答えが返ってくる。</p><p><br></p><p>「旦那が既に死別しているから出戻り、とまでは言わないが。あれの息子の一人が家を継ぐことになっているから、その序でだな」</p><p>「わたしがお会いすることはあるかしら。まあ、あるわよね」</p><p>「ああ。二週に一度は来ているようだからそのうちに。……先に話しておくが」</p><p><br></p><p>　執事が低卓に茶器を揃えてゆくのを尻目に、レックスの声色が僅かに低くなる。</p><p><br></p><p>「クロンクビスト貴族にはいくつかの派閥がある。妹は現王を支持しているが、彼女が嫁いだ家──レディントン伯爵家の一族にはそうではない者も多い」</p><p><br></p><p>　美しく澄んだ色合いの紅茶がティーカップに注がれてゆく。青みがかった爽やかな香りが薫った。執事に菓子とともに差し出され、マリアベルは緩く微笑んで謝辞を述べる。カップを手に取ると、曲線美を極めたその縁に唇を添わせた。そうして一口嗜むと、美味しい、と呟く。もう一口含んだのち、マリアベルは執事に向き直って、とても美味しいわ、と今度ははっきり伝えた。彼は表情こそ変えなかったが、胸が微かに上下したのを見るに、安堵したようだった。</p><p><br></p><p>「マリアベルさ……マリア、聞いているのか」</p><p><br></p><p>　供された紅茶をただ楽しむマリアベルに、レックスが怪訝そうな表情をする。聞いているわよ、とマリアベルは御座なりに頷いた。</p><p><br></p><p>「権力闘争などどこにでもあるもの。とりあえず聞いておくけれど」</p><p><br></p><p>　マリア、とレックスが言い募ろうとするので、マリアベルはようやく視線を上げた。</p><p><br></p><p>「急いてもいいことなどないわよ、レックス。為損じるだけ。それよりもまずは折角の紅茶を楽しんだらどう？　久しぶりのご自宅なのだから、肩の力を抜いたらいいのよ」</p><p><br></p><p>　カップをソーサーへ戻すと、今度は菓子に手を付ける。赤紫色の花びらが生地に練り込まれた焼き菓子だ。マリアベルが今まで目にしたことがないそれに瞳を瞬かせ、傍に控える執事を仰いで訊ねると、彼は、食用の花でイラークリーと言うのだと教えてくれた。</p><p>　囓ると少し苦みがあったが、その分生地が甘いので、ちょうどいい。</p><p>　あるじに近づく不審な女と捉えられてもおかしくはなかったのに、と考えながら、マリアベルがラドフォード家の心遣いをありがたく頂いていると、レックスは諦めきったような溜息を洩らした。自らの前に用意された茶器に手を伸ばす。彼の指には剣を握る者特有の無骨さがあったが、所作には侯爵家の嫡男らしい優雅さが覗いていて、ともにティータイムを楽しむのは悪くなさそうだった。マリアベルは、美味しいものは美味しく頂きたいのである。</p><p><br></p><p>「わたしはきっと、まだあなたの信用を勝ち得ていないのでしょうけれど」</p><p><br></p><p>　ふ、とレックスが一息吐いた頃合いを見計らい、マリアベルは独白のように囁く。男の黒眸がこちらを見た。クロンクビストへ着いてからというもの──本人は意識していなかっただろうが──手負いのけものと見紛うくらいには緊張を漲らせていた眼差しが、幾許か鋭さを潜め、落ち着きを取り戻している。紅茶は本当に偉大なる存在だわ、とマリアベルは内心で笑う。</p><p><br></p><p>「うまくやるわよ。約束だもの」</p><p><br></p><p>　こんなに血塗れの手でも。</p><p>　救えるひとがいるのだと、天使が信じてくれるのなら。</p><p>　マリアベルは用意されていた手布で菓子を抓んだ手指を拭うと、背筋を伸ばして挙措を改めた。他国籍の人間である自分の身元の引受人となってくれたレックス──スタインズ侯爵に毅然と向き合い、だから改めて、と、傍目には美しい貴婦人の手を差し出した。洋上を力強く羽ばたいていった鳥たちの、あの燦然とした光を孕んだ白緑の眸を細めながら。</p><p><br></p><p>「どうぞよろしく、侯爵閣下」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg?width=960" width="100%">
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】04. 議会は踊る、されど恐れず]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10557620/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10557620</id><summary><![CDATA[　執務室の隣に備えられた休憩室で、古顔の侍女、ニーナ・クリスティが持参した上着に袖を通しながら、近頃のエリオットはこれまでにも増して嫌にうるさい、と、ウィリアムは鬱陶しげに愚痴を零した。「そうは思わない？　アラン」　ニーナの手伝いをしていた年若い侍従は、突然水を向けられて、明らかに狼狽えた動きを見せた。確かに毎朝近侍しているとはいえ、答えてよいものなのかどうかとアランはまごつく。代わりに、ウィリアムの背後で衣装を整えていたニーナが口を開いた。「閣下はただご心配なさっているだけでございます、陛下」　静かだがしっかりとした口調だった。心配ね、とウィリアムは嗤笑を噛み殺す。「ものは言いようだね、ニーナ」　ニーナは、エリオットが何を心配しているのかには言及せず、また言外にそれを指摘したウィリアムの言葉には答えなかった。以後は黙して、ただ自らの務めに従事している。　難しい立場にいた異母姉《あね》に長く仕えていたこの侍女の立ち居振る舞いは、今や宮廷内の誰を以てしても切り崩せぬほど、万事慎重なものだ。それゆえ信頼をしているし、ウィリアムが特段彼女の発言を気にすることはないのだが、彼女に庇われる形となったアランは、こちらからの咎めを意識してか、些か表情を強張らせている。　そのさまを眺め、戴冠前からのおのれを知る者と、そうではない者の違いはこれなのだと、何とはなしにウィリアムは思う。　──王位を手にして、八年。　八年か、と独りごちる。　おのれが骨の髄から厭忌していたあの『兄』を排斥して過ぎ去った八年という年月は、短かったようで、恐らく長くもあったのだろう。煩わしいとはいえ、エリオットが口喧しくなったゆえもわからないではなかった。あの日に歪《ひず》んだものたちが、否応にも軋みを上げて変質してゆく、──そんな予感がするというのであれば。　微かに眸を伏せれば、夜半に見た銀がちらつく。　ウィリアム、と苦悶に満ちた呼び声が、どこか遠くから聞こえる。（……莫迦なことを）（自らを賭して血に殉じても）（誰も）「陛下」　思考を読んだような絶妙な頃合いだった。視線を投じれば、榛色の瞳と目が合う。いつの間にか傍らから下がったニーナがこちらを見ていた。「ご準備整いましてにございます」　ウィリアムは首肯した。近衛に眼差しだけで指示を出し、先んじて侍従が開けた扉を、彼らに引き続いて出てゆく。　カチ、と近衛騎士たちが腰に佩いた剣が鳴る、その冷徹さに頭の芯が冴えるのを感じた。　──エリオットの危惧など、言われずとも理解している。ニーナが口にしないその要因も。　近衛に先導されながら、ウィリアムは王城の中枢にある王の執務室から階下へと降り、長回廊を通って、北の棟にある議事堂へと向かう。棟の入口へ突き当たると正面には異教の女神──星乙女の彫像が飾られている。双眸を覆い隠した乙女が天秤を掲げる左へ行けば、エリオットを家長とするハーシェル公爵家が重鎮を務める王の諮問機関、枢密院がある。翻って、議会が行われる貴族院は、乙女の右手、剣が指し示す側にあった。剣の先に延びる天鵞絨の絨毯は、血が凝固したかの如き暗い赤。　歪みそうになる口許に力を入れ、ウィリアムはそれを踏みしめてゆく。　所詮、エリオットの小言など一時の戯れ程度のものだ。貴族院の奢侈な扉が二人の衛兵によって開かれるさまを見つめながら、ウィリアムは胸中で嘲笑う。議事堂の奥中央、王の御座を前に居並ぶ面々は、その場に登場したおのれを値踏みする視線を隠しもしない。『ウィリアム＝メディオフ・オルブライト』を曝かんとするいくつもの目が全身を舐る。疾うに慣れたものではあったが。　欺瞞、裏切り、不信、奸計。　踊るように繰り返される。　政治への参画を許された爵位を持つ、国の高位貴族たちの間を、ウィリアムは傲然と歩む。──ここはかつて恋に病んだ王が娘を一人飼い殺し、それに乗じて王位を簒奪した残忍なけものがさらに女を縊り殺そうとした、気狂いな者たちの棲みし堕する王城オクセンシェルナ。現王もまた、粛正の名の許、けものを屠った血塗れの手で、神の叙任を授からず王冠と王笏を掴み取った。これからも、血で血を贖い、聖書を謳わず礼拝を鎖し、畏れる者を付き従えて、嘆きの影など踏みつけるのみ。この国が、クロンクビストであり続ける限り。　常闇は永劫、ここに在る。　昔日の記憶に目を閉じ耳を塞げば、おのれもいずれは背負った罪業に侵され狂れてゆくだろう。──ウィル、ウィリアムと、記憶の向こうでそう呼んで、貴方は今でも僕を諫めようとするけれど。　王座まで来ると、ウィリアムは踵を鳴らし、振り返った。心中を隠蔽し辞儀する者たちを睥睨して、そろり、碧眼を細める。　ここに立つおのれは、孤独だ。　されど。　ウィリアムは口角を吊り上げる。　全て覚悟でこの道を来た。恐れるには足りない。　どうやら権力闘争に終止符はないらしい、と何の気はなしに呟いたところ、護衛に付いてきた近衛騎士団長のヘイデン・エインズワースは、そうですね、と渋い声をはいた。これがエリオットであればこの発言を端緒に滔々と厭味を言ってきたに違いなかったが、流れがわかっていてそのような愚は起こすまい。ヘイデンしか傍らにいないからこそのウィリアムの感想だった。「派閥の領袖となる人物がみな既に死没しているにも関わらず、よくやるものだ」　今日の議会は、王太后の生家であるラトランド公爵家を始めとした現王派の中心人物が不在だったせいか、やけに利権の話が目立った。皮肉の回数を数えるのには途中で飽きた。面白くもない諧謔を考えるほど暇なら領地に引っ込んでいろと口を挟まなかったおのれを褒めたいくらいだと、ウィリアムは冷ややかに侮蔑する。　ウィリアムの父、ダグラス＝ヘンリー・オルブライトの在位に産まれた直系王子は五人いる。うち一人は病死、一人は暗殺され、父王が死んだ折に王位継承権を有していたのは三人だった。国内の諸侯に長く推挙されてきたのは同腹の兄だったのだが、父王を継いだのはもう一方、しかしその後も落命が続き、王位継承権を有した王子で現在も存命なのはウィリアムだけになっている──はずなのだが、おかしなことに、未だにこの国には彼らを支持する派閥があるのだ。貴族諸侯らは、八年経過してもなお長兄──『先王』と『第二王子』について、死んではいないとの見解を下しているらしい。つまりそれは、王家の公表に対し疑義を持っているということになるのだが。「ああ、首を刎ねればよかったかな」「陛下。恐れながら、伯はあの方の名を出されたわけではございません。処罰するには事由が弱いかと」「ヘイデン、冗談だ」　ウィリアムは両手を挙げてひらひらと振ってみせる。八年前に死んだ『兄』の存在をそれとなく匂わされ、剰え比較されて、不愉快になったのは確かだが。「レックスも十分堅物だったけれどおまえも大概だね、ヘイデン」　咽喉の奥で笑い、この話は終いだと断じる。──議会で敢えてウィリアムの不興を買う真似をした者たちが、もしもあれの狗ならば狩らねばならないが、城内では誰が聴き耳を立てているかもわからない。事を為損じると、またエリオットが喧しいのだ、本当に。　それというのも、ハーシェル公爵は王の枢密顧問官であり王家の忠実なる臣下だが、エリオット・ミラーはウィリアムの部下ではないからだ。あの男に真実命令を下しているのは、ウィリアムではない。　──議会でも、兄を支持する一派の傾倒ぶりは相変わらずだった。　ウィリアムは嘆息する。「……レックス様といえば、王都の屋敷にお帰りになられたそうです、陛下」　父王に仕えた前騎士団長と比較されて何を思ったのか──否、多分にそれは単なる情報提供のつもりだったろうが、ふとヘイデンは抑揚のない声音でそう言った。へえ、とウィリアムは片眉を上げる。興味深いことを聞いた。　ヘイデンの前任は称号の返上と共に退任ののち、殆ど王都エイジェルステットには居着いていない男だ。──このまま執務室へ戻れば当然エリオットが待ち構えているだろうし、議会の莫迦どもにもうんざりした。傍らにはヘイデンのみ、彼がこの程度のことでおのれを窘めることはない。珍しい顔を見に行くのも悪くない、とウィリアムは嘯く。　出奔ならば王子の頃から手慣れたものだ。　そんな自分に呆れた表情をした女王陛下が過ぎったが、今は関係ないだろう。ヘイデンに何を指示するでもなく、ウィリアムはさっさと身を翻した。]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-10-02T11:19:24+00:00</published><updated>2020-10-04T12:42:27+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　執務室の隣に備えられた休憩室で、古顔の侍女、ニーナ・クリスティが持参した上着に袖を通しながら、近頃のエリオットはこれまでにも増して嫌にうるさい、と、ウィリアムは鬱陶しげに愚痴を零した。</p><p><br></p><p>「そうは思わない？　アラン」</p><p><br></p><p>　ニーナの手伝いをしていた年若い侍従は、突然水を向けられて、明らかに狼狽えた動きを見せた。確かに毎朝近侍しているとはいえ、答えてよいものなのかどうかとアランはまごつく。代わりに、ウィリアムの背後で衣装を整えていたニーナが口を開いた。</p><p><br></p><p>「閣下はただご心配なさっているだけでございます、陛下」</p><p><br></p><p>　静かだがしっかりとした口調だった。心配ね、とウィリアムは嗤笑を噛み殺す。</p><p><br></p><p>「ものは言いようだね、ニーナ」</p><p><br></p><p>　ニーナは、エリオットが何を心配しているのかには言及せず、また言外にそれを指摘したウィリアムの言葉には答えなかった。以後は黙して、ただ自らの務めに従事している。</p><p>　難しい立場にいた異母姉《あね》に長く仕えていたこの侍女の立ち居振る舞いは、今や宮廷内の誰を以てしても切り崩せぬほど、万事慎重なものだ。それゆえ信頼をしているし、ウィリアムが特段彼女の発言を気にすることはないのだが、彼女に庇われる形となったアランは、こちらからの咎めを意識してか、些か表情を強張らせている。</p><p>　そのさまを眺め、戴冠前からのおのれを知る者と、そうではない者の違いはこれなのだと、何とはなしにウィリアムは思う。</p><p>　──王位を手にして、八年。</p><p>　八年か、と独りごちる。</p><p>　おのれが骨の髄から厭忌していたあの『兄』を排斥して過ぎ去った八年という年月は、短かったようで、恐らく長くもあったのだろう。煩わしいとはいえ、エリオットが口喧しくなったゆえもわからないではなかった。あの日に歪《ひず》んだものたちが、否応にも軋みを上げて変質してゆく、──そんな予感がするというのであれば。</p><p>　微かに眸を伏せれば、夜半に見た銀がちらつく。</p><p>　ウィリアム、と苦悶に満ちた呼び声が、どこか遠くから聞こえる。</p><p><br></p><p>（……莫迦なことを）</p><p>（自らを賭して血に殉じても）</p><p>（誰も）</p><p><br></p><p>「陛下」</p><p><br></p><p>　思考を読んだような絶妙な頃合いだった。視線を投じれば、榛色の瞳と目が合う。いつの間にか傍らから下がったニーナがこちらを見ていた。</p><p><br></p><p>「ご準備整いましてにございます」</p><p><br></p><p>　ウィリアムは首肯した。近衛に眼差しだけで指示を出し、先んじて侍従が開けた扉を、彼らに引き続いて出てゆく。</p><p>　カチ、と近衛騎士たちが腰に佩いた剣が鳴る、その冷徹さに頭の芯が冴えるのを感じた。</p><p>　──エリオットの危惧など、言われずとも理解している。ニーナが口にしないその要因も。</p><p>　近衛に先導されながら、ウィリアムは王城の中枢にある王の執務室から階下へと降り、長回廊を通って、北の棟にある議事堂へと向かう。棟の入口へ突き当たると正面には異教の女神──星乙女の彫像が飾られている。双眸を覆い隠した乙女が天秤を掲げる左へ行けば、エリオットを家長とするハーシェル公爵家が重鎮を務める王の諮問機関、枢密院がある。翻って、議会が行われる貴族院は、乙女の右手、剣が指し示す側にあった。剣の先に延びる天鵞絨の絨毯は、血が凝固したかの如き暗い赤。</p><p>　歪みそうになる口許に力を入れ、ウィリアムはそれを踏みしめてゆく。</p><p>　所詮、エリオットの小言など一時の戯れ程度のものだ。貴族院の奢侈な扉が二人の衛兵によって開かれるさまを見つめながら、ウィリアムは胸中で嘲笑う。議事堂の奥中央、王の御座を前に居並ぶ面々は、その場に登場したおのれを値踏みする視線を隠しもしない。『ウィリアム＝メディオフ・オルブライト』を曝かんとするいくつもの目が全身を舐る。疾うに慣れたものではあったが。</p><p>　欺瞞、裏切り、不信、奸計。</p><p>　踊るように繰り返される。</p><p>　政治への参画を許された爵位を持つ、国の高位貴族たちの間を、ウィリアムは傲然と歩む。──ここはかつて恋に病んだ王が娘を一人飼い殺し、それに乗じて王位を簒奪した残忍なけものがさらに女を縊り殺そうとした、気狂いな者たちの棲みし堕する王城オクセンシェルナ。現王もまた、粛正の名の許、けものを屠った血塗れの手で、神の叙任を授からず王冠と王笏を掴み取った。これからも、血で血を贖い、聖書を謳わず礼拝を鎖し、畏れる者を付き従えて、嘆きの影など踏みつけるのみ。この国が、クロンクビストであり続ける限り。</p><p>　常闇は永劫、ここに在る。</p><p>　昔日の記憶に目を閉じ耳を塞げば、おのれもいずれは背負った罪業に侵され狂れてゆくだろう。──ウィル、ウィリアムと、記憶の向こうでそう呼んで、貴方は今でも僕を諫めようとするけれど。</p><p>　王座まで来ると、ウィリアムは踵を鳴らし、振り返った。心中を隠蔽し辞儀する者たちを睥睨して、そろり、碧眼を細める。</p><p>　ここに立つおのれは、孤独だ。</p><p>　されど。</p><p>　ウィリアムは口角を吊り上げる。</p><p>　全て覚悟でこの道を来た。恐れるには足りない。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　どうやら権力闘争に終止符はないらしい、と何の気はなしに呟いたところ、護衛に付いてきた近衛騎士団長のヘイデン・エインズワースは、そうですね、と渋い声をはいた。これがエリオットであればこの発言を端緒に滔々と厭味を言ってきたに違いなかったが、流れがわかっていてそのような愚は起こすまい。ヘイデンしか傍らにいないからこそのウィリアムの感想だった。</p><p><br></p><p>「派閥の領袖となる人物がみな既に死没しているにも関わらず、よくやるものだ」</p><p><br></p><p>　今日の議会は、王太后の生家であるラトランド公爵家を始めとした現王派の中心人物が不在だったせいか、やけに利権の話が目立った。皮肉の回数を数えるのには途中で飽きた。面白くもない諧謔を考えるほど暇なら領地に引っ込んでいろと口を挟まなかったおのれを褒めたいくらいだと、ウィリアムは冷ややかに侮蔑する。</p><p>　ウィリアムの父、ダグラス＝ヘンリー・オルブライトの在位に産まれた直系王子は五人いる。うち一人は病死、一人は暗殺され、父王が死んだ折に王位継承権を有していたのは三人だった。国内の諸侯に長く推挙されてきたのは同腹の兄だったのだが、父王を継いだのはもう一方、しかしその後も落命が続き、王位継承権を有した王子で現在も存命なのはウィリアムだけになっている──はずなのだが、おかしなことに、未だにこの国には彼らを支持する派閥があるのだ。貴族諸侯らは、八年経過してもなお長兄──『先王』と『第二王子』について、死んではいないとの見解を下しているらしい。つまりそれは、王家の公表に対し疑義を持っているということになるのだが。</p><p><br></p><p>「ああ、首を刎ねればよかったかな」</p><p>「陛下。恐れながら、伯はあの方の名を出されたわけではございません。処罰するには事由が弱いかと」</p><p>「ヘイデン、冗談だ」</p><p><br></p><p>　ウィリアムは両手を挙げてひらひらと振ってみせる。八年前に死んだ『兄』の存在をそれとなく匂わされ、剰え比較されて、不愉快になったのは確かだが。</p><p><br></p><p>「レックスも十分堅物だったけれどおまえも大概だね、ヘイデン」</p><p><br></p><p>　咽喉の奥で笑い、この話は終いだと断じる。──議会で敢えてウィリアムの不興を買う真似をした者たちが、もしもあれの狗ならば狩らねばならないが、城内では誰が聴き耳を立てているかもわからない。事を為損じると、またエリオットが喧しいのだ、本当に。</p><p>　それというのも、ハーシェル公爵は王の枢密顧問官であり王家の忠実なる臣下だが、エリオット・ミラーはウィリアムの部下ではないからだ。あの男に真実命令を下しているのは、ウィリアムではない。</p><p>　──議会でも、兄を支持する一派の傾倒ぶりは相変わらずだった。</p><p>　ウィリアムは嘆息する。</p><p><br></p><p>「……レックス様といえば、王都の屋敷にお帰りになられたそうです、陛下」</p><p><br></p><p>　父王に仕えた前騎士団長と比較されて何を思ったのか──否、多分にそれは単なる情報提供のつもりだったろうが、ふとヘイデンは抑揚のない声音でそう言った。へえ、とウィリアムは片眉を上げる。興味深いことを聞いた。</p><p>　ヘイデンの前任は称号の返上と共に退任ののち、殆ど王都エイジェルステットには居着いていない男だ。──このまま執務室へ戻れば当然エリオットが待ち構えているだろうし、議会の莫迦どもにもうんざりした。傍らにはヘイデンのみ、彼がこの程度のことでおのれを窘めることはない。珍しい顔を見に行くのも悪くない、とウィリアムは嘯く。</p><p>　出奔ならば王子の頃から手慣れたものだ。</p><p>　そんな自分に呆れた表情をした女王陛下が過ぎったが、今は関係ないだろう。ヘイデンに何を指示するでもなく、ウィリアムはさっさと身を翻した。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】03. 王冠を戴くもの]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10465718/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10465718</id><summary><![CDATA[　兄が異母姉《あね》を呼ぶ声が、今でも耳に残っている。　あの頃、おのれが棲み家にしていた主宮の部屋からは、歳の離れた兄が暮らす特別な離宮がよく見えた。天気の好い日は殆ど、朝の早い時間から、気分の弾ける跫音とそれを追い掛ける侍女たちの制止が響き、ややあって兄の、異母姉を迎える声が聞こえたものだった。　光が、あふれているような。　清らかで美しいあの。　天使を呼ぶ、声。　異母兄姉《きょうだい》の中には早朝から騒々しいと嫌悪していた者が多かったが、おのれは兄のあの声が好きだった。だから、晴れの日の朝は必ず、離宮に一番近い窓を開けておくようにと侍従らに言い含めていた。異母姉の跫音が遠くから聞こえてくると──否、彼女の来訪の頃合いになると決まっておのれはその窓辺に立ち、縁に頬杖をついて、ふたりの様子を隠れて眺めていたのだった。そのくらい好きだった。あの声と、光景が。　日々血で血を洗うかの如き、暗澹としたこの王城オクセンシェルナにおいて、彼らの姿はただひとつ、信じられたものだった。　夜半、ウィリアムは昔日と同じように窓辺に立ち、外を見つめた。　愛しさを憶えた日々はあたかも夢であったかのように過ぎ去って、幾つも歳を重ね、そして立場を変え、移した居室から眺める風景はかつてとは大きく変容していた。開け放たれた窓から射し込むのは朝陽ではなく星影となり、眼下に広がるのは愛情ではなく憎悪になっていた。目を伏せ見下ろす先で、光が揺れている。新月の夜のみに咲く、銀花の光だ。　部屋から見えるのは、喪った妃に恋着した父王が造った、気狂いな恋の花園。　片恋の花《ルツィエ》が今宵も、常闇の中で咲き匂っている。　．　．　．　壁際に控えた侍従のアランが溜息を噛み殺したのが、目端に映った。唾を飲み込んだのを見るに、咽喉元まで迫り上がったのをどうにか堪えたらしい様子である。　盛大に息を吐きたいのはこちらの方だと内心で毒づきながら、ウィリアムはおのれの執務机を挟んで真向かいに立つ男を見遣った。　毅然としたさまでウィリアムに対峙しているのは、クロンクビスト貴族が一、枢密顧問官を務めるハーシェル公爵エリオット・ミラーである。かつては社交界で実に極めて迷惑なほど、数多くの浮き名を流した甘い顔立ちの見目麗しい男だ。が、生まれてこの方よく見知った相手である上、毎朝顔を合わせているので本当に心底見飽きた、とウィリアムは辟易とする。「貴方もいい加減しつこいな、ハーシェル公爵」「陛下が強情をお止め下さればすぐにでも口を閉じますが」「そうかな。私は貴方が大人しく黙しているのを、幼少期から一度も見たことがないんだけどね」「仕える御方がいつも手の掛かる方ばかりなもので」　ああ言えばこう言う。昔からやたらと弁が立つので本当に煩わしい。　初夏だというのに、エリオットはきっちりと黒の金襴緞子《ブロケード》のジャケットに身を包み、こちらを威圧せんというばかりだ。学友の兄を手こずらせた、昔の放蕩なミラー家の嫡男はどこへやら、である。エリオットと話していると、おのれの方が立場が上だということをつい忘れそうになる。　ウィリアムは机の上で両手を組むと、小首を傾げてみせた。「公爵、いいことを教えてあげよう。口数の多い男は嫌われるよ」　対し、エリオットは冷ややかに眸を眇め、うっそりと嗤った。「それはご自分の経験からでしょうか、陛下。先日も女王にあしらわれておりましたね」　女王とは、兄が九年前に婿入りした小国ヴェンネルヴィクのあるじこと、クラリッサ・フェラーのことである。　そういえばこの間の非公式の面会のときはエリオットも傍にいたなと、ウィリアムは朧気に思い出した。──まずい、と呟く。これは分が悪い。「あれは親愛の表現……」「では私も、陛下への敬愛ゆえに」　ウィリアムが一瞬頬を引き攣らせたのを見逃さず、エリオットは畳み掛ける。「妃をお迎え頂きたい」　イェイエル河に分断された大陸の西側、クロンクビスト。君主制を奉じるこの国の、その中枢である王城オクセンシェルナで日々繰り広げられる王と公爵の遣り取りを知らない者がいるとするならば、それは十中八九、外国の人間だ──と、そんなふうに社交界で断じられるくらいには、ウィリアムの執務室でのこの光景は、朝の恒例行事と化していた。　室内では、侍従や政務官は自ら望んで存在しない者として末席の壁際に控え、王の狗である近衛騎士はウィリアムの背後で我関せずと沈黙している。部屋の奥に置かれた高級木材《スウィテニア》仕様の大きな執務机を挟み、椅子に座したウィリアムと、その真正面に泰然と起立するエリオットの構図は、最早一つの典型と呼ばれて久しい。画家が絵筆を持つのさえ厭がりそうなほど、陳腐な様相なのだった。　事の理由はただ一つ。王がいつまで経っても妃を娶らない、ということである。　ウィリアムには、正妃どころか、妾妃の一人さえいないのだ。　──クロンクビスト現王であるウィリアム＝メディオフ・オルブライトは、今年で二十八を数える。とにかく結婚の遅かった、兄のサディアスが件の女王──当時は未だ王太子だったが──と婚姻を結んだ年齢に追いついていた。兄の成婚の遅さは長く異例だと囁かれ続けたが、ウィリアムはそれを追い越してさらに婚期が遠そうである、というのが、この一、二年における国内諸侯や近侍たちの専らの見立てとなっている。　当然、ウィリアムは、おのれに関するそういった風聞を知っていた。　だが、王子の頃には憶えきれないほど贈られていた令嬢の肖像画も、人に纏わりつかれて鬱陶しいだけの茶会や舞踏会の招待状も、戴冠して以降は鳴りを潜めているのだから、自分にはどうしようもない、というのがウィリアムの言い分なのである。地位で以て婚姻を強要したとしても、先が見えている。「……と、何度説明したら、貴方に理解してもらえるんだろう」「詭弁を弄するのは止めて頂きたいと何度申し上げたらご理解頂けるのか、そのお言葉そっくりそのままお返し致しますよ、陛下」　ウィリアムがわざとらしく嘆息を洩らせば、エリオットは口の端で嗤笑する。　永遠に平行線である。　そうして、この場にいる中で一等年若いアランが空気に堪えかねて焦れ始めると、その頃合いを見計らったように執務室の扉が外から敲《たた》かれるのだった。「議会の時間だ、公爵」　小さな笑いを落とし、ウィリアムは、天鵞絨張りの美しい一脚から立ち上がる。扉を敲く音にすかさず飛びついた若い侍従と、さも何も素知らぬふりでそれを敲き、室外から着衣を持ってきた古顔の侍女の方へと足を向けた。　陛下、と渋みを含む声には、ひらりと背を向け。　誰にも悟られぬように気をつけながら、ウィリアムは、クロンクビスト王家の血を引く碧眼をうっすらと昏く染めた。「ねえ、エリオット。兄上の親友だった貴方にはわかるでしょう」　自ら手を伸ばして、血に塗れた王冠の縁を掴んだおのれに。　いくら訴えても、答えは『ノー』だ。「僕に王妃はいらない」]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-09-28T11:57:20+00:00</published><updated>2020-10-02T11:09:51+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　兄が異母姉《あね》を呼ぶ声が、今でも耳に残っている。</p><p>　あの頃、おのれが棲み家にしていた主宮の部屋からは、歳の離れた兄が暮らす特別な離宮がよく見えた。天気の好い日は殆ど、朝の早い時間から、気分の弾ける跫音とそれを追い掛ける侍女たちの制止が響き、ややあって兄の、異母姉を迎える声が聞こえたものだった。</p><p>　光が、あふれているような。</p><p>　清らかで美しいあの。</p><p>　天使を呼ぶ、声。</p><p>　異母兄姉《きょうだい》の中には早朝から騒々しいと嫌悪していた者が多かったが、おのれは兄のあの声が好きだった。だから、晴れの日の朝は必ず、離宮に一番近い窓を開けておくようにと侍従らに言い含めていた。異母姉の跫音が遠くから聞こえてくると──否、彼女の来訪の頃合いになると決まっておのれはその窓辺に立ち、縁に頬杖をついて、ふたりの様子を隠れて眺めていたのだった。そのくらい好きだった。あの声と、光景が。</p><p>　日々血で血を洗うかの如き、暗澹としたこの王城オクセンシェルナにおいて、彼らの姿はただひとつ、信じられたものだった。</p><p><br></p><p><br></p><p>　夜半、ウィリアムは昔日と同じように窓辺に立ち、外を見つめた。</p><p>　愛しさを憶えた日々はあたかも夢であったかのように過ぎ去って、幾つも歳を重ね、そして立場を変え、移した居室から眺める風景はかつてとは大きく変容していた。開け放たれた窓から射し込むのは朝陽ではなく星影となり、眼下に広がるのは愛情ではなく憎悪になっていた。目を伏せ見下ろす先で、光が揺れている。新月の夜のみに咲く、銀花の光だ。</p><p>　部屋から見えるのは、喪った妃に恋着した父王が造った、気狂いな恋の花園。</p><p>　片恋の花《ルツィエ》が今宵も、常闇の中で咲き匂っている。</p><p><br></p><p><br></p><p>　．</p><p>　．</p><p>　．</p><p><br></p><p><br></p><p>　壁際に控えた侍従のアランが溜息を噛み殺したのが、目端に映った。唾を飲み込んだのを見るに、咽喉元まで迫り上がったのをどうにか堪えたらしい様子である。</p><p>　盛大に息を吐きたいのはこちらの方だと内心で毒づきながら、ウィリアムはおのれの執務机を挟んで真向かいに立つ男を見遣った。</p><p>　毅然としたさまでウィリアムに対峙しているのは、クロンクビスト貴族が一、枢密顧問官を務めるハーシェル公爵エリオット・ミラーである。かつては社交界で実に極めて迷惑なほど、数多くの浮き名を流した甘い顔立ちの見目麗しい男だ。が、生まれてこの方よく見知った相手である上、毎朝顔を合わせているので本当に心底見飽きた、とウィリアムは辟易とする。</p><p><br></p><p>「貴方もいい加減しつこいな、ハーシェル公爵」</p><p>「陛下が強情をお止め下さればすぐにでも口を閉じますが」</p><p>「そうかな。私は貴方が大人しく黙しているのを、幼少期から一度も見たことがないんだけどね」</p><p>「仕える御方がいつも手の掛かる方ばかりなもので」</p><p><br></p><p>　ああ言えばこう言う。昔からやたらと弁が立つので本当に煩わしい。</p><p>　初夏だというのに、エリオットはきっちりと黒の金襴緞子《ブロケード》のジャケットに身を包み、こちらを威圧せんというばかりだ。学友の兄を手こずらせた、昔の放蕩なミラー家の嫡男はどこへやら、である。エリオットと話していると、おのれの方が立場が上だということをつい忘れそうになる。</p><p>　ウィリアムは机の上で両手を組むと、小首を傾げてみせた。</p><p><br></p><p>「公爵、いいことを教えてあげよう。口数の多い男は嫌われるよ」</p><p><br></p><p>　対し、エリオットは冷ややかに眸を眇め、うっそりと嗤った。</p><p><br></p><p>「それはご自分の経験からでしょうか、陛下。先日も女王にあしらわれておりましたね」</p><p><br></p><p>　女王とは、兄が九年前に婿入りした小国ヴェンネルヴィクのあるじこと、クラリッサ・フェラーのことである。</p><p>　そういえばこの間の非公式の面会のときはエリオットも傍にいたなと、ウィリアムは朧気に思い出した。──まずい、と呟く。これは分が悪い。</p><p><br></p><p>「あれは親愛の表現……」</p><p>「では私も、陛下への敬愛ゆえに」</p><p><br></p><p>　ウィリアムが一瞬頬を引き攣らせたのを見逃さず、エリオットは畳み掛ける。<br></p><p><br></p><p>「妃をお迎え頂きたい」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　イェイエル河に分断された大陸の西側、クロンクビスト。君主制を奉じるこの国の、その中枢である王城オクセンシェルナで日々繰り広げられる王と公爵の遣り取りを知らない者がいるとするならば、それは十中八九、外国の人間だ──と、そんなふうに社交界で断じられるくらいには、ウィリアムの執務室でのこの光景は、朝の恒例行事と化していた。</p><p>　室内では、侍従や政務官は自ら望んで存在しない者として末席の壁際に控え、王の狗である近衛騎士はウィリアムの背後で我関せずと沈黙している。部屋の奥に置かれた高級木材《スウィテニア》仕様の大きな執務机を挟み、椅子に座したウィリアムと、その真正面に泰然と起立するエリオットの構図は、最早一つの典型と呼ばれて久しい。画家が絵筆を持つのさえ厭がりそうなほど、陳腐な様相なのだった。</p><p>　事の理由はただ一つ。王がいつまで経っても妃を娶らない、ということである。</p><p>　ウィリアムには、正妃どころか、妾妃の一人さえいないのだ。</p><p>　──クロンクビスト現王であるウィリアム＝メディオフ・オルブライトは、今年で二十八を数える。とにかく結婚の遅かった、兄のサディアスが件の女王──当時は未だ王太子だったが──と婚姻を結んだ年齢に追いついていた。兄の成婚の遅さは長く異例だと囁かれ続けたが、ウィリアムはそれを追い越してさらに婚期が遠そうである、というのが、この一、二年における国内諸侯や近侍たちの専らの見立てとなっている。</p><p>　当然、ウィリアムは、おのれに関するそういった風聞を知っていた。</p><p>　だが、王子の頃には憶えきれないほど贈られていた令嬢の肖像画も、人に纏わりつかれて鬱陶しいだけの茶会や舞踏会の招待状も、戴冠して以降は鳴りを潜めているのだから、自分にはどうしようもない、というのがウィリアムの言い分なのである。地位で以て婚姻を強要したとしても、先が見えている。</p><p><br></p><p>「……と、何度説明したら、貴方に理解してもらえるんだろう」</p><p>「詭弁を弄するのは止めて頂きたいと何度申し上げたらご理解頂けるのか、そのお言葉そっくりそのままお返し致しますよ、陛下」</p><p><br></p><p>　ウィリアムがわざとらしく嘆息を洩らせば、エリオットは口の端で嗤笑する。</p><p>　永遠に平行線である。</p><p>　そうして、この場にいる中で一等年若いアランが空気に堪えかねて焦れ始めると、その頃合いを見計らったように執務室の扉が外から敲《たた》かれるのだった。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「議会の時間だ、公爵」</p><p><br></p><p>　小さな笑いを落とし、ウィリアムは、天鵞絨張りの美しい一脚から立ち上がる。扉を敲く音にすかさず飛びついた若い侍従と、さも何も素知らぬふりでそれを敲き、室外から着衣を持ってきた古顔の侍女の方へと足を向けた。</p><p>　陛下、と渋みを含む声には、ひらりと背を向け。</p><p>　誰にも悟られぬように気をつけながら、ウィリアムは、クロンクビスト王家の血を引く碧眼をうっすらと昏く染めた。</p><p><br></p><p>「ねえ、エリオット。兄上の親友だった貴方にはわかるでしょう」</p><p><br></p><p>　自ら手を伸ばして、血に塗れた王冠の縁を掴んだおのれに。</p><p>　いくら訴えても、答えは『ノー』だ。</p><p><br></p><p>「僕に王妃はいらない」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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			<p><br></p><p>　音が聞こえるほど力強く翼を羽ばたかせ、二羽の海鳥が戯れながら水面から飛翔する。</p><p>　上甲板の手摺に気怠げに頬杖をついていたマリアベルは、白い羽根を毀しながらも滑空してゆく鳥たちの影を、ふと、思い立ったように視線で追い掛けた。眩さが晴天を切ってゆく。どこからともなく聞こえてくる乗船する人びとのざわめきや、船体に打ち寄せる波の音、地響くような動力音さえ遠くに、鳥たちの翼が、ばさ、とマリアベルの耳を打つ。</p><p>　彼らは陽射しを浴びて真白く輝きながら、水平線を目指して飛んでゆく。上昇する美しい直線。網膜にその軌道が灼け残る。マリアベルは、つばの広い帽子の下で、眸を細めた。</p><p>　さんざめく太陽の真下、潮風をまとって角帆が吼える。紺碧の波間では、激しく強い光が弾けている。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「……暑い」</p><p><br></p><p>　ヨンナ＝エストバリ海上を迷いなく突き進む客船レイア、その甲板で手摺に凭れ直しながら、マリアベルはうんざりとした声をはいた。</p><p>　初夏でも余念なく贅を尽くして着飾った紳士淑女が船上の余暇に勤しむ傍らで、女一人で船首側の甲板に出て、至極億劫そうにしているのが物珍しかったのだろう、近くにいた少年──質素な甲板衣から察するに下働きの──が、つい洩れたおのれのその独白に咽喉を鳴らした。頬杖をついたまま半眼で見遣れば、これくらいで暑いって、と呆れた表情で彼は笑った。</p><p><br></p><p>「お姉さん、生まれはどこだよ」</p><p><br></p><p>　仕方ないなあ、水でも飲むかと訊いてくるのでそれに頷きながら、北よ、とマリアベルは答えた。</p><p><br></p><p>「北のミルヴェーデン。……の、さらに上。最果ての孤島、ディンケラ」</p><p>「へえ」</p><p>「まさかクロンクビストがこんなに暑苦しいだなんて思わなかったわ」</p><p><br></p><p>　客向けに手配していたわけではないに違いない、少年が差し出してきた飲料水はいかにも乗組員用の水筒だったが、マリアベルは躊躇わずに受け取った。さらに少年は、婦人に直飲みは忍びないと腰にぶら下げた杯を手渡してきたので、マリアベルは手ずからそれに水を注いで、口を付けた。噛むように一口含むと、冷えた真水が咽喉を滑り落ちてゆく。</p><p>　ふと、迷わねえのな、と落とすような声が聞こえ、清涼感に静かな息を吐いていたマリアベルは、横目で少年を見遣った。</p><p><br></p><p>「なにが？　毒でも入れていたの」</p><p>「……そんなわけないけど」</p><p><br></p><p>　ならいいでしょう、そう素っ気なく返すと、マリアベルはさらに水を呷る。変な女、と少年が乾いた笑いをはくので、よく言われるわ、と杯の内側に声を残しながら答えた。</p><p>　レイアはそれなりの身分の人間が乗船できる帆船である、当然、婦人の誰もがこんな軽率な行動は取らないだろう。そもそも同伴者も供もなく一人で上甲板に出るわけがなく、身なりについても、日傘も手袋もないというのは考えられないことなのである。マリアベルは眉を顰められない程度の外出用ドレスを着、日除けにつば広の帽子こそ被っているが、それだけだった。</p><p>　マリアベルは水筒と杯を手にしたまま、手摺に肘を付き直す。</p><p><br></p><p>「港まであとどのくらいなのかしら」</p><p>「クロンクビストまではもう少し西南西へ下るね。一刻掛かるかどうか。まだ少し暑くなるかも」</p><p>「そう」</p><p><br></p><p>　最悪ねと独りごち、最後の一口を飲み込む。少し仰け反り晒された首許を海風が撫ぜてゆく。</p><p><br></p><p>「暑いのはそういう季節だから仕方ないよ。お姉さん、クロンクビストへ行くのは初めて？」</p><p>「初めてね」</p><p>「旅行？」</p><p>「似たようなものだわ。見聞を広めるため」</p><p><br></p><p>　白い波頭から水飛沫が跳ねた。船首が水面を切りひらいてゆくさまに眸を細め、ふっと溜息を吐くと、マリアベルは少年に向き直った。彼は不思議そうな眼差しでマリアベルを見返している。少年のくすんだシャツから覗く肌はこんがりと日焼けし、癖のある髪もまた陽射しで色褪せていた。水筒を差し出した手は薄汚れて傷の目立つ、労働者のそれだ。だが、瞳はきらめき、強い生命力に満ちあふれている。きれいな眸だった。</p><p><br></p><p>「一人で行くの？」</p><p><br></p><p>　マリアベルはやや俯き、帽子の陰で口の端を歪める。</p><p>　そうして肩越しに後方へ視線を投げた。船首手摺から離れ、操舵により近い場所、そこには佩刀した黒髪の男が一人、立っている。</p><p>　マリアベルの身体を避けてその目線をなぞった少年は、瞬くと、なんだよやっぱり野郎連れかよ、と態度を一変させて唾を吐いた。マリアベルは笑う。水筒と杯を少年へ返し、残念、ただの監視役だけれど、と少し乱れた帽子を整え直した。拍子にはらり、光を弾くほどの銀灰の一房が零れ落ちる。</p><p>　マリアベルは顔を上げる。</p><p>　白緑の双眸に、果てなく広がる紺碧の海原が映った。</p><p><br></p><p>「お水、どうもありがとう。もう少し頑張るわ」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg?width=960" width="100%">
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【青衣と菫】01. ここに天使はもういない]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10465104/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/0d2c8023e194927d0087137daea0a3e7_c2cbfdd9ce9a73d4c2c7852de30ec56a.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10465104</id><summary><![CDATA[　地の底から低く唸るような音が響動《とよ》み、それに続いて降り注いだのは、天の最果てから幾重にも輪を成す天使の美声だった。　──主よ、偉大なる我らが御方よ。　──穢れし罪深きわたくしたちを。　──わたくしたちを憐れみ給え。「翻意するお気持ちはございませんか」　宗教音楽の父ヨーゼフ・ハーゼの母国、オーベリ製の荘厳なるパイプオルガン。憐れみ給えと祈り請う、少年たちの聖歌隊。天地の境界に魂を留められているかの如き錯覚を起こすその音楽の御許で、ヴィンセントは強張った表情をしてそう訊いた。深い鳥羽色の瞳は真剣そのものだった。けれども。　貴方の問いも聞き飽きたな、と。　ウィリアム＝メディオフ・オルブライトはそれら全てを一笑に伏す。「もう決めた」　イェイエル河に分断された大陸の西側、大国クロンクビスト。長きに渡り、西側を統べる『教会』と双肩であったこの国は、今宵を最後に『彼ら』と一線を画す。国の首座司教は空位とし、儀礼及び裁判を含め、クロンクビスト王家ひいては国内政治への介入を今後一切、許容しない。　幾月経てども変わらないウィリアムの返答に、ヴィンセントは眉を顰めた。「……寄る辺を失い、悲しむ者、憤る者もおりましょう」「国民に開かれた聖堂や礼拝堂を全て閉鎖しようというのではないし、彼らに信仰を止めろと命じるつもりもない。ただ、我がクロンクビスト王家は貴方がたから距離を置く。それだけのことです、ヴィンセント」「神の恩寵なき王を、一体誰が支持するというのです」　天への鍵は、教皇が持つ。　よって、新たに即位する諸国の王は、教皇から王冠を戴くのが通例であった。教皇を代理人として、彼によりその人が、神に国を治める権利と義務を委ねられた者──王であることを示すのだ。即位と共に政教を分離させ、その慣習を廃するとなればどうなるか、ウィリアムとて、わかっている。　わかっていても、既に選んだ道なのだ。　振り向かずに歩むと決めた。　──あの日おのれが、歩めと言った。「ウィル」　親しみを込めた名を呼んで、なおも食い下がり説得を試みるヴィンセントの胸中を、ウィリアムは知らない。ヴィンセント・クロフ──新たなる教皇猊下、ユストゥス七世。目前の男の言葉が真であるか偽であるか、あるいは彼の本音が善であるか悪であるかを判じたところで、今更何も変わらない。　──主よ、偉大なる我らが御方よ。　──穢れし罪深きわたくしたちを。　──わたくしたちを。「貴方の慈悲は、それを必要とする方に差し上げて下さい、猊下」　憐れみ給えなど、思わない。　ウィリアムはうっそりと微笑する。「私が戴く王冠は、貴方の手を以てしても清らかになどなりませんから」　光そのもののような美しい歌声が、二人で相対するこの部屋にまで降り注いでいる。調和する声を眩く感じた瞬間、ふと、天に召される聖母の姿が脳裏に思い描かれて、ウィリアムは肩を竦めた。すると、パイプオルガンの鈍い音色が咎めるように鳴り響き、今度はつい、咽喉を鳴らして笑ってしまった。　暗闇なのか夜明けなのか、判然としない鳥羽色の双眸が、ウィリアムを見る。　聖歌が聞こえている。　ウィリアムは口の端を吊り上げたまま、碧眼を伏せた。「ここに天使はもういない」]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-09-28T10:56:02+00:00</published><updated>2020-09-28T11:33:42+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　地の底から低く唸るような音が響動《とよ》み、それに続いて降り注いだのは、天の最果てから幾重にも輪を成す天使の美声だった。</p><p>　──主よ、偉大なる我らが御方よ。</p><p>　──穢れし罪深きわたくしたちを。</p><p>　──わたくしたちを憐れみ給え。</p><p><br></p><p>「翻意するお気持ちはございませんか」</p><p><br></p><p>　宗教音楽の父ヨーゼフ・ハーゼの母国、オーベリ製の荘厳なるパイプオルガン。憐れみ給えと祈り請う、少年たちの聖歌隊。天地の境界に魂を留められているかの如き錯覚を起こすその音楽の御許で、ヴィンセントは強張った表情をしてそう訊いた。深い鳥羽色の瞳は真剣そのものだった。けれども。</p><p>　貴方の問いも聞き飽きたな、と。</p><p>　ウィリアム＝メディオフ・オルブライトはそれら全てを一笑に伏す。</p><p><br></p><p>「もう決めた」</p><p><br></p><p>　イェイエル河に分断された大陸の西側、大国クロンクビスト。長きに渡り、西側を統べる『教会』と双肩であったこの国は、今宵を最後に『彼ら』と一線を画す。国の首座司教は空位とし、儀礼及び裁判を含め、クロンクビスト王家ひいては国内政治への介入を今後一切、許容しない。</p><p>　幾月経てども変わらないウィリアムの返答に、ヴィンセントは眉を顰めた。</p><p><br></p><p>「……寄る辺を失い、悲しむ者、憤る者もおりましょう」</p><p>「国民に開かれた聖堂や礼拝堂を全て閉鎖しようというのではないし、彼らに信仰を止めろと命じるつもりもない。ただ、我がクロンクビスト王家は貴方がたから距離を置く。それだけのことです、ヴィンセント」</p><p>「神の恩寵なき王を、一体誰が支持するというのです」</p><p><br></p><p>　天への鍵は、教皇が持つ。</p><p>　よって、新たに即位する諸国の王は、教皇から王冠を戴くのが通例であった。教皇を代理人として、彼によりその人が、神に国を治める権利と義務を委ねられた者──王であることを示すのだ。即位と共に政教を分離させ、その慣習を廃するとなればどうなるか、ウィリアムとて、わかっている。</p><p>　わかっていても、既に選んだ道なのだ。</p><p>　振り向かずに歩むと決めた。</p><p>　──あの日おのれが、歩めと言った。</p><p><br></p><p>「ウィル」</p><p><br></p><p>　親しみを込めた名を呼んで、なおも食い下がり説得を試みるヴィンセントの胸中を、ウィリアムは知らない。ヴィンセント・クロフ──新たなる教皇猊下、ユストゥス七世。目前の男の言葉が真であるか偽であるか、あるいは彼の本音が善であるか悪であるかを判じたところで、今更何も変わらない。</p><p>　──主よ、偉大なる我らが御方よ。</p><p>　──穢れし罪深きわたくしたちを。</p><p>　──わたくしたちを。</p><p><br></p><p>「貴方の慈悲は、それを必要とする方に差し上げて下さい、猊下」</p><p><br></p><p>　憐れみ給えなど、思わない。</p><p>　ウィリアムはうっそりと微笑する。</p><p><br></p><p>「私が戴く王冠は、貴方の手を以てしても清らかになどなりませんから」</p><p><br></p><p>　光そのもののような美しい歌声が、二人で相対するこの部屋にまで降り注いでいる。調和する声を眩く感じた瞬間、ふと、天に召される聖母の姿が脳裏に思い描かれて、ウィリアムは肩を竦めた。すると、パイプオルガンの鈍い音色が咎めるように鳴り響き、今度はつい、咽喉を鳴らして笑ってしまった。</p><p>　暗闇なのか夜明けなのか、判然としない鳥羽色の双眸が、ウィリアムを見る。</p><p>　聖歌が聞こえている。</p><p>　ウィリアムは口の端を吊り上げたまま、碧眼を伏せた。</p><p><br></p><p>「ここに天使はもういない」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【前夜】荊の王]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10334787/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/bfbc03c3dbe529b53d71a51b36a636c8_aa9e944e80adf131d595f4e8e446ce30.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10334787</id><summary><![CDATA[　──頼みがある。「……風邪を引きますよ、エリー」　苦笑を滲ませた声が耳朶を撫ぜ、靴も脱がずにカウチに寝そべっていたエリオットはひどく緩慢に目蓋を押し上げた。開いた視界には、仕方なさそうに目尻を下げる妻の顔がある。夜更け、控えめに灯された洋燈の揺らめきに、輪郭が柔らかく溶けている。　疾うに見慣れた貌、そこに嵌められているのは。「エリー？」　呆けたように見上げる夫が寝惚けていると思ったのだろう、重ねて微苦笑をはいた妻、デイナは、エリオットの胸に手を添えてくる。エリオットはその指先を掴むと、ゆるりと瞬き、ああ、と息を吐いた。声は、震えていなかったと思う。　寝入るどころか、微睡むことすらできずに横になっていただけだったので、ゆっくりとこちらへ近づいてきた跫音と衣擦れが誰のものかわかっていたはずだったのだが。　覗き込んできた淡い碧眼に、つい言葉を見失ったなど。　エリオットは、デイナが小首を傾げるのを横目に身を起こし、カウチに座り直した。そうして、手を取ったままの彼女も隣に腰掛けさせる。妻が逆らうことはなかった。　お疲れですのね、と心配そうにデイナが訊くので、今度はエリオットが苦笑した。「いや、そんなことはないさ」「でも」「物心がついた頃には決めていたことだから」　迷いもせず。　ただそう在ることを。　エリオットは微笑んだ。デイナはエリオットの眸を見返し、二度、三度と唇を触れあわせる。そうして結局は口を噤み、細い眉を顰めると、視線を落とした。エリオットは、おのれの手の内で、掴んでいる彼女の指先が僅かに強張ったのを感じた。　デイナの言いたいことはわかっている。　俯き晒された首筋を流れ落ちる、妻の金髪を眺めながら、エリオットは思う。（──頼みがある）　耳の奥で。　今もそればかりが残響している。「俺のことより。何か用があったんじゃないのか？」「……いえ」「デイナ」　努めて穏やかな声を出し、エリオットは妻の頤を空いている方の手でそっと持ち上げた。顔を寄せると一瞬、口づける。か、と彼女の眦が染まるのを見て、眸を細めた。デイナは視線を彷徨わせる。　デイナ、エリオットが吐息の掠める距離でもう一度囁くと、ややあってデイナは躊躇いがちに夫を見た。気になっていることがありますの、と呟く。「気になっていること？」　鸚鵡返しに訊き返せば、彼女は首肯し、エリオットに取られたままの手を拳の形に握りしめた。「エリー。わたくし、……嫌な予感がするんです」　デイナの細い咽喉が震え。　碧眼が、翳る。「ねえ、わたくしの妹──オフィーリアがどこにいるのか、ご存じないですか、エリー」「──閣下！」　突如飛び込んできた鋭い声に、エリオットは妻から手を離した。視線だけを部屋の入口の方へと走らせる。こんな時間に侍従が──否、声からして秘書官が、取次の者も通さずに私室へ呼びに来るとなれば、事は一つしかなかった。　デイナがエリオットの袖を引く。心なしか青ざめた彼女の髪を安心させるように手早く撫ぜ、エリオットは、悪いと零した。妻の話をもっとよく聞いてやりたいが、行かなければならない。オフィーリア姫の件は、と言葉を継ぐ。「調べておく、デイナ」　デイナは不安げな眼差しをしていたが、それでもこれが日常茶飯事と化してしまった所為か、素直に腕を引っ込めた。エリオットが彼女の額にキス一つ落として立ち上がると、デイナもまた腰を上げ、無理をしないでと頬に唇を寄せた。エリオットは口の端で笑って同じようにそれを返す。　妻から離れ、仕舞わずに近くの椅子の背もたれに掛けたままにしておいた上着を手に取り、エリオットは忙しなく私室を出た。本当におちおち靴も脱げないなと独白しながら、廊下に伸びたおのれの影を踏む。外に待機していた秘書官へ一瞥を投げれば、彼は心得たように付き従った。　大股で、城内に宛がわれたエリオット個人の政務室へと向かう。屋敷から上るよりは当然ながら余程近いが、それでもこういうときは私室からの距離が煩わしい。　踵を鳴らすエリオットの後ろで、秘書官が現況の報告を上げる。「──わかった。ヘイデンは？」「ひとまず現場を収拾し、後に、報告者と分かれるようにして陛下を追い掛けたと。恐らくこちらに情報が届いたのと同じ頃合いで先方へ到着したのではないかと思いますが、陛下の安否共々、まだその連絡は来ておりません」「あの方は格別に往生際が悪いから、死ぬまいよ。いっそあの賢《さか》しい頭でも打って、少しくらい大人しくなってくれれば、私もとても助かる」　唇を歪め、エリオットは軽口を叩いた。胸中に湧き上がった焦燥は、誰にも悟られぬよう、静かに縊り殺す。おのれが冷静さを見失っては、この秘書官を始め、多くの者に混乱を与えてしまうとよくわかっていた。──誰一人、不安がらせてはならない。王への背叛を許すわけにはいかない。（デイナも）　妻の憂慮を舌先でなぞる。オフィーリア。先々王の、十番目の王女。（誰に任せるか）　それがどんなに些細なことだとしても、今は、気に掛けておく必要がある。　秘書官に指示を出しながら、エリオットは政務室へと辿り着いた。所有する王都三区の屋敷にはもう随分と帰っていないはずだが、それがいつからのことかも思い出せない。複数の兵卒が立礼する間を抜けて中へと入ると、席に着くこともなく、王の近衛騎士を一人、それから侍女を呼びつけた。　──王が襲撃されたとはいえ、多くの騎士や兵を、ヴェンネルヴィクへ派遣することはできない。　害意ある者たちに悟られて。　彼から、あの場所を取り上げるわけには。（……エリオット）　耳鳴りのよう、こびりついた残響に、エリオットは唇を引き結んだ。（おまえに）（頼みがあるんだ）「お呼びでしょうか、閣下」　部屋に現れた近衛騎士は、生家も一子爵家に過ぎず、階級こそ未だ低いが、口数の少ないヘイデンがめずらしく優秀だと褒めた若い男だった。オーウェン・アビー。エリオットは男の肩章を見、そこに描かれた蔓に咲く花の数を確認してから、視線をその眸へと向けた。エリオットの不躾な観察にも、オーウェンは目を逸らさなかった。緊張も見えず、感情の起伏も少なそうである。「オーウェン」　は、と返答する声色もまた、悪くはない。　執務机に浅く腰掛け、尊大に腕を組んだエリオットは意地悪く笑った。「おまえは陛下のためにどこまでできる。死ねるか」　死ねると答えれば、それまでだ。別の者を探す。　この場で、主人のためならば死んでもよいなどと、軽々に口にする騎士は不要だ。王を始め、彼に近しい人間は、誰もそのような者を望まない。　エリオットの考えを読んだわけではないだろうが──意図を探るような目すらしなかった──、若い騎士の答えは明瞭だった。「王命とあらば覚悟はございますが。しかしながら、死すよりも先に、生き延びるために足掻きたいと存じます。陛下のためと申すのであればなおのこと」　その通りだ。王のためには、生きてもらわねば困るのだ。　エリオットは低く咽喉を鳴らした。「ではおまえにする、オーウェン・アビー。……ニーナ」　次いで、騎士の後ろについてきていた侍女へと目を遣る。全幅の信頼を置いている侍女のニーナは、慎ましい侍女服を抓み腰を折り、ご用命のものは全て準備できております、と述べた。王を──ウィリアムを追って、ヴェンネルヴィクへ行く手筈は整っている。（──頼みがある）　職掌の範囲でできうる限りの指示を出し、報告と併せ、宰相とも内密に調整を済ませた。その後に人払いをして、現段階で集約された情報を机の上に広げながら、エリオットはようやく凍えた息を吐いた。ウィリアムが王位に就いて七年、それでも未だ、クロンクビストの政情は安定していない。それどころか──　きりがない、と思う。机上についた手に無意識に力が籠もる。けれども。　頼みがあるのだと。　エリオットを信頼する声が、聞こえるうちは。（エリオット。おまえに頼みがあるんだ）　声を思い出せば、最後に共に過ごしたときの姿が甦る。──裁判が始まるのを待たず、肩に負った裂傷の治癒も等閑に、必要最低限の荷と最愛のひとだけを連れて、この国を去った男の。　それは、長きに渡る王家の歴史の中、卓絶して有能だと称賛され望まれた者の予感だったのかもしれない。数日身を寄せたエリオットの屋敷で事の次第を聞いた彼は、思案げに目を伏せた後、エリオットを見て言ったのだ。ウィリアムを支えてやってほしい、と。（あれが奪い取る王座は決して、ただ血に塗れるだけでは済まないと思う）　茨の王になってしまうかもしれないと眉を顰め。　自嘲して。（……俺は）（傍にはいてやれないから）　エリオット、と。　名を呼ばれるたびに降り積もったものを、どうして裏切れよう。　爪を立て、書類を掻く。エリオットは固く目を瞑った。折れないと言い聞かせる。絶対に。おのれは決して、折れてはならない。　眼裏に、深い海の色をした碧眼が映る。幼い頃からいつもその眸を見ていた。あの眩いほどの金の髪の上に王冠が戴かれることを信じ、そのためならば何でもするのだと決めた。灼けるようなその想いは、今なおエリオットの中で鮮明だった。だから。遠い日、彼を主君に戴くのだと、──死ぬまでこの男の右腕となるのだと、誓ったのだから。　決して。「殿下……」　──エリオット。（おまえを、信頼している）]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-09-19T14:37:45+00:00</published><updated>2020-09-23T06:41:32+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　──頼みがある。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「……風邪を引きますよ、エリー」</p><p><br></p><p>　苦笑を滲ませた声が耳朶を撫ぜ、靴も脱がずにカウチに寝そべっていたエリオットはひどく緩慢に目蓋を押し上げた。開いた視界には、仕方なさそうに目尻を下げる妻の顔がある。夜更け、控えめに灯された洋燈の揺らめきに、輪郭が柔らかく溶けている。</p><p>　疾うに見慣れた貌、そこに嵌められているのは。</p><p><br></p><p>「エリー？」</p><p><br></p><p>　呆けたように見上げる夫が寝惚けていると思ったのだろう、重ねて微苦笑をはいた妻、デイナは、エリオットの胸に手を添えてくる。エリオットはその指先を掴むと、ゆるりと瞬き、ああ、と息を吐いた。声は、震えていなかったと思う。</p><p>　寝入るどころか、微睡むことすらできずに横になっていただけだったので、ゆっくりとこちらへ近づいてきた跫音と衣擦れが誰のものかわかっていたはずだったのだが。</p><p>　覗き込んできた淡い碧眼に、つい言葉を見失ったなど。</p><p>　エリオットは、デイナが小首を傾げるのを横目に身を起こし、カウチに座り直した。そうして、手を取ったままの彼女も隣に腰掛けさせる。妻が逆らうことはなかった。</p><p>　お疲れですのね、と心配そうにデイナが訊くので、今度はエリオットが苦笑した。</p><p><br></p><p>「いや、そんなことはないさ」</p><p>「でも」</p><p>「物心がついた頃には決めていたことだから」</p><p><br></p><p>　迷いもせず。</p><p>　ただそう在ることを。</p><p>　エリオットは微笑んだ。デイナはエリオットの眸を見返し、二度、三度と唇を触れあわせる。そうして結局は口を噤み、細い眉を顰めると、視線を落とした。エリオットは、おのれの手の内で、掴んでいる彼女の指先が僅かに強張ったのを感じた。</p><p>　デイナの言いたいことはわかっている。</p><p>　俯き晒された首筋を流れ落ちる、妻の金髪を眺めながら、エリオットは思う。</p><p><br></p><p>（──頼みがある）</p><p><br></p><p>　耳の奥で。</p><p>　今もそればかりが残響している。</p><p><br></p><p>「俺のことより。何か用があったんじゃないのか？」</p><p>「……いえ」</p><p>「デイナ」</p><p><br></p><p>　努めて穏やかな声を出し、エリオットは妻の頤を空いている方の手でそっと持ち上げた。顔を寄せると一瞬、口づける。か、と彼女の眦が染まるのを見て、眸を細めた。デイナは視線を彷徨わせる。</p><p>　デイナ、エリオットが吐息の掠める距離でもう一度囁くと、ややあってデイナは躊躇いがちに夫を見た。気になっていることがありますの、と呟く。</p><p><br></p><p>「気になっていること？」</p><p><br></p><p>　鸚鵡返しに訊き返せば、彼女は首肯し、エリオットに取られたままの手を拳の形に握りしめた。</p><p><br></p><p>「エリー。わたくし、……嫌な予感がするんです」</p><p><br></p><p>　デイナの細い咽喉が震え。</p><p>　碧眼が、翳る。</p><p><br></p><p>「ねえ、わたくしの妹──オフィーリアがどこにいるのか、ご存じないですか、エリー」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「──閣下！」</p><p><br></p><p>　突如飛び込んできた鋭い声に、エリオットは妻から手を離した。視線だけを部屋の入口の方へと走らせる。こんな時間に侍従が──否、声からして秘書官が、取次の者も通さずに私室へ呼びに来るとなれば、事は一つしかなかった。</p><p>　デイナがエリオットの袖を引く。心なしか青ざめた彼女の髪を安心させるように手早く撫ぜ、エリオットは、悪いと零した。妻の話をもっとよく聞いてやりたいが、行かなければならない。オフィーリア姫の件は、と言葉を継ぐ。</p><p><br></p><p>「調べておく、デイナ」</p><p><br></p><p>　デイナは不安げな眼差しをしていたが、それでもこれが日常茶飯事と化してしまった所為か、素直に腕を引っ込めた。エリオットが彼女の額にキス一つ落として立ち上がると、デイナもまた腰を上げ、無理をしないでと頬に唇を寄せた。エリオットは口の端で笑って同じようにそれを返す。</p><p>　妻から離れ、仕舞わずに近くの椅子の背もたれに掛けたままにしておいた上着を手に取り、エリオットは忙しなく私室を出た。本当におちおち靴も脱げないなと独白しながら、廊下に伸びたおのれの影を踏む。外に待機していた秘書官へ一瞥を投げれば、彼は心得たように付き従った。</p><p>　大股で、城内に宛がわれたエリオット個人の政務室へと向かう。屋敷から上るよりは当然ながら余程近いが、それでもこういうときは私室からの距離が煩わしい。</p><p>　踵を鳴らすエリオットの後ろで、秘書官が現況の報告を上げる。</p><p><br></p><p>「──わかった。ヘイデンは？」</p><p>「ひとまず現場を収拾し、後に、報告者と分かれるようにして陛下を追い掛けたと。恐らくこちらに情報が届いたのと同じ頃合いで先方へ到着したのではないかと思いますが、陛下の安否共々、まだその連絡は来ておりません」</p><p>「あの方は格別に往生際が悪いから、死ぬまいよ。いっそあの賢《さか》しい頭でも打って、少しくらい大人しくなってくれれば、私もとても助かる」</p><p><br></p><p>　唇を歪め、エリオットは軽口を叩いた。胸中に湧き上がった焦燥は、誰にも悟られぬよう、静かに縊り殺す。おのれが冷静さを見失っては、この秘書官を始め、多くの者に混乱を与えてしまうとよくわかっていた。──誰一人、不安がらせてはならない。王への背叛を許すわけにはいかない。</p><p><br></p><p>（デイナも）</p><p><br></p><p>　妻の憂慮を舌先でなぞる。オフィーリア。先々王の、十番目の王女。</p><p><br></p><p>（誰に任せるか）</p><p><br></p><p>　それがどんなに些細なことだとしても、今は、気に掛けておく必要がある。</p><p>　秘書官に指示を出しながら、エリオットは政務室へと辿り着いた。所有する王都三区の屋敷にはもう随分と帰っていないはずだが、それがいつからのことかも思い出せない。複数の兵卒が立礼する間を抜けて中へと入ると、席に着くこともなく、王の近衛騎士を一人、それから侍女を呼びつけた。</p><p>　──王が襲撃されたとはいえ、多くの騎士や兵を、ヴェンネルヴィクへ派遣することはできない。</p><p>　害意ある者たちに悟られて。</p><p>　彼から、あの場所を取り上げるわけには。</p><p><br></p><p>（……エリオット）</p><p><br></p><p>　耳鳴りのよう、こびりついた残響に、エリオットは唇を引き結んだ。</p><p><br></p><p>（おまえに）</p><p>（頼みがあるんだ）</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「お呼びでしょうか、閣下」</p><p><br></p><p>　部屋に現れた近衛騎士は、生家も一子爵家に過ぎず、階級こそ未だ低いが、口数の少ないヘイデンがめずらしく優秀だと褒めた若い男だった。オーウェン・アビー。エリオットは男の肩章を見、そこに描かれた蔓に咲く花の数を確認してから、視線をその眸へと向けた。エリオットの不躾な観察にも、オーウェンは目を逸らさなかった。緊張も見えず、感情の起伏も少なそうである。</p><p><br></p><p>「オーウェン」</p><p><br></p><p>　は、と返答する声色もまた、悪くはない。</p><p>　執務机に浅く腰掛け、尊大に腕を組んだエリオットは意地悪く笑った。</p><p><br></p><p>「おまえは陛下のためにどこまでできる。死ねるか」</p><p><br></p><p>　死ねると答えれば、それまでだ。別の者を探す。</p><p>　この場で、主人のためならば死んでもよいなどと、軽々に口にする騎士は不要だ。王を始め、彼に近しい人間は、誰もそのような者を望まない。</p><p>　エリオットの考えを読んだわけではないだろうが──意図を探るような目すらしなかった──、若い騎士の答えは明瞭だった。</p><p><br></p><p>「王命とあらば覚悟はございますが。しかしながら、死すよりも先に、生き延びるために足掻きたいと存じます。陛下のためと申すのであればなおのこと」</p><p><br></p><p>　その通りだ。王のためには、生きてもらわねば困るのだ。</p><p>　エリオットは低く咽喉を鳴らした。</p><p><br></p><p>「ではおまえにする、オーウェン・アビー。……ニーナ」</p><p><br></p><p>　次いで、騎士の後ろについてきていた侍女へと目を遣る。全幅の信頼を置いている侍女のニーナは、慎ましい侍女服を抓み腰を折り、ご用命のものは全て準備できております、と述べた。王を──ウィリアムを追って、ヴェンネルヴィクへ行く手筈は整っている。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>（──頼みがある）</p><p><br></p><p>　職掌の範囲でできうる限りの指示を出し、報告と併せ、宰相とも内密に調整を済ませた。その後に人払いをして、現段階で集約された情報を机の上に広げながら、エリオットはようやく凍えた息を吐いた。ウィリアムが王位に就いて七年、それでも未だ、クロンクビストの政情は安定していない。それどころか──</p><p>　きりがない、と思う。机上についた手に無意識に力が籠もる。けれども。</p><p>　頼みがあるのだと。</p><p>　エリオットを信頼する声が、聞こえるうちは。</p><p><br></p><p>（エリオット。おまえに頼みがあるんだ）</p><p><br></p><p>　声を思い出せば、最後に共に過ごしたときの姿が甦る。──裁判が始まるのを待たず、肩に負った裂傷の治癒も等閑に、必要最低限の荷と最愛のひとだけを連れて、この国を去った男の。</p><p>　それは、長きに渡る王家の歴史の中、卓絶して有能だと称賛され望まれた者の予感だったのかもしれない。数日身を寄せたエリオットの屋敷で事の次第を聞いた彼は、思案げに目を伏せた後、エリオットを見て言ったのだ。ウィリアムを支えてやってほしい、と。</p><p><br></p><p>（あれが奪い取る王座は決して、ただ血に塗れるだけでは済まないと思う）</p><p><br></p><p>　茨の王になってしまうかもしれないと眉を顰め。</p><p>　自嘲して。</p><p><br></p><p>（……俺は）</p><p>（傍にはいてやれないから）</p><p><br></p><p>　エリオット、と。</p><p>　名を呼ばれるたびに降り積もったものを、どうして裏切れよう。</p><p>　爪を立て、書類を掻く。エリオットは固く目を瞑った。折れないと言い聞かせる。絶対に。おのれは決して、折れてはならない。</p><p>　眼裏に、深い海の色をした碧眼が映る。幼い頃からいつもその眸を見ていた。あの眩いほどの金の髪の上に王冠が戴かれることを信じ、そのためならば何でもするのだと決めた。灼けるようなその想いは、今なおエリオットの中で鮮明だった。だから。遠い日、彼を主君に戴くのだと、──死ぬまでこの男の右腕となるのだと、誓ったのだから。</p><p>　決して。</p><p><br></p><p>「殿下……」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　──エリオット。</p><p><br></p><p>（おまえを、信頼している）</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/bfbc03c3dbe529b53d71a51b36a636c8_aa9e944e80adf131d595f4e8e446ce30.jpg?width=960" width="100%">
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[【前夜】ゲッセマネの祈り]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10334553/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/bfbc03c3dbe529b53d71a51b36a636c8_aa9e944e80adf131d595f4e8e446ce30.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10334553</id><summary><![CDATA[　墜落した天使の翼が、容赦なく毟られてゆく──　喩えるのならば、玻璃越しの場景はそんなふうに痛ましかった。烈風が吹きすさび、綿雪は降り落ちたそばから巻き上げられ、闇を真白く染めている。（ひどい天気……）　屋内にいても聞こえる唸り声に、つい、とクラリッサが目を遣ったとき。　向かっていた階段から侍従の一人が駆け上がってきた。彼は近くで略式の一礼をすると、すぐさまクラリッサに耳打ちをする。その内容を聞いて驚愕したのは一瞬のことで、気づけば、クラリッサは階段を下っていた。元々出迎えのために着用していた貂皮のケープを脱ぎ捨て、追従する者たちの制止も聞かずに、ロビーを抜け、玄関の車寄せへと走る。　外へ出た途端、叫喚の寒声が晒した首筋を凍えさせた。　風は、美しく結い上げたクラリッサの髪を崩し、挿した生花を散り散りに奪い去ってゆく。　クラリッサが車寄せへと飛び出たそのとき、激しさを増す吹雪の最中から、馬の嘶えのようなものが微かに聞こえた。そして次には馬蹄、車輪の音──。それらを認識した刹那、白む暗闇から現れたのは、一台の黒塗りのキャリッジだった。馬車は荒々しく揺れて車寄せへと入るなり停止し、その勢いのままに勝手に扉を開け放った。　は、と咄嗟にクラリッサは腕を伸ばした。　荒れ狂う雪と風が、亜麻色の髪を紮げてゆく。　中から頽れてきた人影を受け止めきれず、クラリッサは、薄片の降り積もる石畳の上に膝をついた。──白雪の清んだ匂いに混じり、薄らとした錆臭さがした。眉を顰める。そして、風雪に煽られる金髪の隙間で、赤いものが流れていることにクラリッサは気づいた。途端、胃の腑を突かれたような不快感と緊張が走る。「──ウィリアム様」　動揺を理性でねじ伏せる。周囲では、侍従や衛士に加え、使用人たちが騒がしく蝟集し始めていた。方々から押し寄せるざわめきの中、クラリッサは何度もその名を口にする。　それでも、抱き留めた身体は身動き一つしなかった。　　　．　　．　　．　金の稲穂が首を垂れる頃、従兄とその奥方の間に子どもが産まれた。赤子ながらに利発そうな瞳をした、男の子だった。　──この子が王位を継ぐのかもしれない。　生誕の幾日か後、女王である自分に目通りに来たその子を見て、クラリッサはそう思った。ヴェンネルヴィクには王婿もおらず兄弟もいない女王が一人、その父である先王にも兄弟はおらず、内戚はみな年老いている。現王家たるフェラー家の直系血筋は断絶も遠からず、という状況なのだった。　そんな中で、外戚ではあるが、あらゆる意味でクラリッサに最も近い存在である従兄に子どもが産まれた。世の何も知らない無垢な赤子だというのに、クラリッサは、彼を前にしてそれを考えずにはいられなかったのだ。（ご結婚を、クラリッサ様）（あの大国の政変から、我国をお守り下さった）（聡明な陛下ならお分かりでしょう）（今、貴女が果たすべき、最も重要なことは）　王位を継承して三年、クラリッサが政務に慣れるにつれ、日毎に増えてゆく注進の数。疾うに女性としての結婚の適齢を過ぎたクラリッサに対し、ヴェンネルヴィクに長く続いたフェラー家の血筋を繋ごうとする、周囲の焦燥は理解していた。だが、それらに嫌気は差さないのかと問われれば。　クラリッサの毎日は、おのれを説き伏せようとする官僚たちとの謁見に始まり、謁見で終わる。　そして、彼らに計らうよう言い含められているのだろう、少女の頃から身近に控える侍女たちは日々気遣わしげに囁くのだ。（クラリッサ様）（クラリッサ様）（今でも貴女は……）　膝の上に置いた本に視線を落としながら物思いに耽っていたクラリッサは、傍らの寝台で身動きする気配を感じ、はたりと睫毛を上げた。銀花《ルツィエ》を押し花にした栞をさっと挟み、本を閉じると、椅子から立ち上がり、そこに横たわる人を覗き込んだ。気がつかれましたか、とひそやかに訊ねる。　燭台の火だけが揺れる暗がりで、ふ、と碧眼が瞬いた。　そうして、その人の唇は何事かを呟いたが、音にはならなかった。「起きられますか」　相手が緩慢に頷くのを見てクラリッサは静かに微笑い、チェストの上に準備された水差しで、手ずからコップに水を注いだ。彼は──ウィリアムは、丸一日近く意識を失っていたのだ、ろくに声も出せなくて当然だ。ぬるいかもしれないですけれど、と言い添えながら、クラリッサは改めてウィリアムに向き直る。　クラリッサに差し出された水を、寝台に起き上がったウィリアムは、一瞬躊躇を見せた後、黙って受け取った。「嫌だわ、毒なんて入っていませんよ」　ウィリアムの明るい金髪の下に巻かれた繃帯をちらと見て、その眼差しを隠すようにクラリッサは笑みを落とした。　コップの半分ほど水を飲み下したウィリアムは、目を伏せ──　ぐい、と。　突然、クラリッサの腕を引いた。　咄嗟のことに身体の均衡を崩したクラリッサだったが、ウィリアムの上に倒れ込みそうになる直前で、辛うじてもう片方の手を寝台に突っ張った。腕を掴まれた状態でどうにか腰を捻り首を擡げると、自分を見下ろす美貌がすぐそこにある。あれから七年を数え、幼さを振り払ったウィリアムは、クラリッサの──かつての伴侶によく似ていた。　昏い眸をしている。いつか見た、眸だ。　不用意な姿勢で腕を取られたまま、クラリッサはウィリアムを見上げた。瞳の奥に深淵だけを覗かせた彼はそれ以上微動だにせず、何も言わず、あのときの男のように泣きもしなかった。　じりじりと蝋が溶けてゆく。　寝台の上に転がったコップから零れた水が、染みを広げてゆく。　膠着した静寂の中。クラリッサ様、と痛ましげな素振りで慰める人びとの顔が、脳裏を過ぎっては消えた。（今でも貴女は）（あの方を）　やがて、クラリッサはウィリアムから視線を逸らすと、ため息を吐いた。クラリッサの腕を掴むウィリアムの手に強い力はなく、少し動かせばするりと解けた。身を起こして姿勢を正すと、深く俯いたままの青年に、紅茶でもご用意致しましょう、と努めて柔らかく声を掛ける。少し待っていて下さいね。「──……、」　隣室に控える使用人に頼みに行くため、寝室を去る間際、本当にごく微かな囁きが耳朶を撫ぜた。クラリッサは立ち止まると半身だけ振り返り、いいえ、と微笑む。「わたくしは何も気にしていませんわ、ウィリアム様」　周囲に再婚を迫られる日々を繰り返すたび、見えない毒が蓄積するように、クラリッサは少しずつ疲弊していた。そんな自分にしばらくの療養を勧めたのは従兄だった。王位の簒奪を目論むのではと勘繰られるのを覚悟の上で、彼は、おのれが所有する北の別荘にクラリッサを送り出してくれたのだった。　その折に、ウィリアムはこの屋敷を訪れたのだ。──訪れた、と言うよりは、逃れてきた、と表現した方が正しいのかもしれないけれども。　クラリッサは事の子細を知らない。ウィリアムの腹心である公爵から、半月で構わないので受け入れてほしいと、先立って極秘裏に打診があっただけだった。事情を訊ねたところで明瞭な回答があるとは思えなかったし、彼が王位を戴く国──大国クロンクビストの情勢は、土地を隔てたヴェンネルヴィクにも洩れ聞こえている。七年も付き合えば、それなりに予測はついた。　王城に迎え入れれば官僚が喧しかったろうが、クラリッサもまた療養の体で郊外へと去っている身であり、都合が良いので従兄の客人として迎え入れることにした。恐らく、公爵もこちらの状況を見て、判断したに違いない。ただ、少し誤算もあったのかもしれない、とクラリッサは独りごちる。ウィリアムの先触れとしてやって来た騎士は深手を負っており、今も目覚めていなかった。　それでもなお、何があったのか、クラリッサは聞かない。　ずっと聞かないことにしている。（今でも貴女は、あの方をお慕いしているのですか）　どうかしら、とクラリッサは思う。　今でも少女の恋を燻らせているわけではない。だからといって、永遠の愛を捧げているのだと語るつもりもない。同情なのかと訊ねられたなら、そうだと答えたかもしれない。──あのひとの代わりに、あの国の行く末を見届けなければならないような、そんな気はしている。　クラリッサを組み敷こうとしたウィリアムの眼差しを思い出す。　クロンクビストに蔓延る闇が、今度は、彼の全てをも呑み込もうとしている。一縷の光が潰えてゆく気配だけが、濃さを増してゆく。（わたくしは、ここにいる）　この小さなヴェンネルヴィクに。　誰の許へもゆかずに。　血塗られた道をゆく哀れなけものが、せめて一時、休息を得られるように。　クラリッサは別れたひとを想い、今では決して呼ばないその名を胸の奥で抱きしめる。あの日の祈りはいつか、届くのだろうか。「クラリッサ様」　客の寝室から出てきたクラリッサに、控えていた使用人が歩み寄ってくる。クラリッサは眦を和らげ、紅茶を、と頼んだ。「怪我をして少し気が立っていらっしゃるから。……ゾエの紅茶はあったかしら」「ございます」　そう、と微笑む。「ではそれにして頂戴。それから、ティーカップとソーサーはレンノのオードリーがいいわ。レユイの砂糖漬けもあるといいのだけれど」　めずらしく細かな指定するクラリッサにも、目前の彼女は嫌な表情一つせず、ご準備致しますと頷く。お願いね、と言うと、もう一度首肯して、彼女はすぐに部屋から出て行った。　その後ろ姿を見送り、クラリッサは目を伏せる。重ねた両手を胸に置き、そうして、吐息のようにささめいた。]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-09-19T14:18:45+00:00</published><updated>2020-09-23T06:18:21+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　墜落した天使の翼が、容赦なく毟られてゆく──</p><p>　喩えるのならば、玻璃越しの場景はそんなふうに痛ましかった。烈風が吹きすさび、綿雪は降り落ちたそばから巻き上げられ、闇を真白く染めている。</p><p><br></p><p>（ひどい天気……）</p><p><br></p><p>　屋内にいても聞こえる唸り声に、つい、とクラリッサが目を遣ったとき。</p><p>　向かっていた階段から侍従の一人が駆け上がってきた。彼は近くで略式の一礼をすると、すぐさまクラリッサに耳打ちをする。その内容を聞いて驚愕したのは一瞬のことで、気づけば、クラリッサは階段を下っていた。元々出迎えのために着用していた貂皮のケープを脱ぎ捨て、追従する者たちの制止も聞かずに、ロビーを抜け、玄関の車寄せへと走る。</p><p>　外へ出た途端、叫喚の寒声が晒した首筋を凍えさせた。</p><p>　風は、美しく結い上げたクラリッサの髪を崩し、挿した生花を散り散りに奪い去ってゆく。</p><p>　クラリッサが車寄せへと飛び出たそのとき、激しさを増す吹雪の最中から、馬の嘶えのようなものが微かに聞こえた。そして次には馬蹄、車輪の音──。それらを認識した刹那、白む暗闇から現れたのは、一台の黒塗りのキャリッジだった。馬車は荒々しく揺れて車寄せへと入るなり停止し、その勢いのままに勝手に扉を開け放った。</p><p>　は、と咄嗟にクラリッサは腕を伸ばした。</p><p>　荒れ狂う雪と風が、亜麻色の髪を紮げてゆく。</p><p>　中から頽れてきた人影を受け止めきれず、クラリッサは、薄片の降り積もる石畳の上に膝をついた。──白雪の清んだ匂いに混じり、薄らとした錆臭さがした。眉を顰める。そして、風雪に煽られる金髪の隙間で、赤いものが流れていることにクラリッサは気づいた。途端、胃の腑を突かれたような不快感と緊張が走る。</p><p><br></p><p>「──ウィリアム様」</p><p><br></p><p>　動揺を理性でねじ伏せる。周囲では、侍従や衛士に加え、使用人たちが騒がしく蝟集し始めていた。方々から押し寄せるざわめきの中、クラリッサは何度もその名を口にする。</p><p>　それでも、抱き留めた身体は身動き一つしなかった。</p><p>　</p><p><br></p><p>　　．</p><p>　　．</p><p>　　．</p><p><br></p><p><br></p><p>　金の稲穂が首を垂れる頃、従兄とその奥方の間に子どもが産まれた。赤子ながらに利発そうな瞳をした、男の子だった。</p><p><br></p><p>　──この子が王位を継ぐのかもしれない。</p><p><br></p><p>　生誕の幾日か後、女王である自分に目通りに来たその子を見て、クラリッサはそう思った。ヴェンネルヴィクには王婿もおらず兄弟もいない女王が一人、その父である先王にも兄弟はおらず、内戚はみな年老いている。現王家たるフェラー家の直系血筋は断絶も遠からず、という状況なのだった。</p><p>　そんな中で、外戚ではあるが、あらゆる意味でクラリッサに最も近い存在である従兄に子どもが産まれた。世の何も知らない無垢な赤子だというのに、クラリッサは、彼を前にしてそれを考えずにはいられなかったのだ。</p><p><br></p><p>（ご結婚を、クラリッサ様）</p><p>（あの大国の政変から、我国をお守り下さった）</p><p>（聡明な陛下ならお分かりでしょう）</p><p>（今、貴女が果たすべき、最も重要なことは）</p><p><br></p><p>　王位を継承して三年、クラリッサが政務に慣れるにつれ、日毎に増えてゆく注進の数。疾うに女性としての結婚の適齢を過ぎたクラリッサに対し、ヴェンネルヴィクに長く続いたフェラー家の血筋を繋ごうとする、周囲の焦燥は理解していた。だが、それらに嫌気は差さないのかと問われれば。</p><p>　クラリッサの毎日は、おのれを説き伏せようとする官僚たちとの謁見に始まり、謁見で終わる。</p><p>　そして、彼らに計らうよう言い含められているのだろう、少女の頃から身近に控える侍女たちは日々気遣わしげに囁くのだ。</p><p><br></p><p>（クラリッサ様）</p><p>（クラリッサ様）</p><p>（今でも貴女は……）</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　膝の上に置いた本に視線を落としながら物思いに耽っていたクラリッサは、傍らの寝台で身動きする気配を感じ、はたりと睫毛を上げた。銀花《ルツィエ》を押し花にした栞をさっと挟み、本を閉じると、椅子から立ち上がり、そこに横たわる人を覗き込んだ。気がつかれましたか、とひそやかに訊ねる。</p><p>　燭台の火だけが揺れる暗がりで、ふ、と碧眼が瞬いた。</p><p>　そうして、その人の唇は何事かを呟いたが、音にはならなかった。</p><p><br></p><p>「起きられますか」</p><p><br></p><p>　相手が緩慢に頷くのを見てクラリッサは静かに微笑い、チェストの上に準備された水差しで、手ずからコップに水を注いだ。彼は──ウィリアムは、丸一日近く意識を失っていたのだ、ろくに声も出せなくて当然だ。ぬるいかもしれないですけれど、と言い添えながら、クラリッサは改めてウィリアムに向き直る。</p><p>　クラリッサに差し出された水を、寝台に起き上がったウィリアムは、一瞬躊躇を見せた後、黙って受け取った。</p><p><br></p><p>「嫌だわ、毒なんて入っていませんよ」</p><p><br></p><p>　ウィリアムの明るい金髪の下に巻かれた繃帯をちらと見て、その眼差しを隠すようにクラリッサは笑みを落とした。</p><p>　コップの半分ほど水を飲み下したウィリアムは、目を伏せ──</p><p>　ぐい、と。</p><p>　突然、クラリッサの腕を引いた。</p><p>　咄嗟のことに身体の均衡を崩したクラリッサだったが、ウィリアムの上に倒れ込みそうになる直前で、辛うじてもう片方の手を寝台に突っ張った。腕を掴まれた状態でどうにか腰を捻り首を擡げると、自分を見下ろす美貌がすぐそこにある。あれから七年を数え、幼さを振り払ったウィリアムは、クラリッサの──かつての伴侶によく似ていた。</p><p>　昏い眸をしている。いつか見た、眸だ。</p><p>　不用意な姿勢で腕を取られたまま、クラリッサはウィリアムを見上げた。瞳の奥に深淵だけを覗かせた彼はそれ以上微動だにせず、何も言わず、あのときの男のように泣きもしなかった。</p><p>　じりじりと蝋が溶けてゆく。</p><p>　寝台の上に転がったコップから零れた水が、染みを広げてゆく。</p><p>　膠着した静寂の中。クラリッサ様、と痛ましげな素振りで慰める人びとの顔が、脳裏を過ぎっては消えた。</p><p><br></p><p>（今でも貴女は）</p><p>（あの方を）</p><p><br></p><p>　やがて、クラリッサはウィリアムから視線を逸らすと、ため息を吐いた。クラリッサの腕を掴むウィリアムの手に強い力はなく、少し動かせばするりと解けた。身を起こして姿勢を正すと、深く俯いたままの青年に、紅茶でもご用意致しましょう、と努めて柔らかく声を掛ける。少し待っていて下さいね。</p><p><br></p><p>「──……、」</p><p><br></p><p>　隣室に控える使用人に頼みに行くため、寝室を去る間際、本当にごく微かな囁きが耳朶を撫ぜた。クラリッサは立ち止まると半身だけ振り返り、いいえ、と微笑む。</p><p><br></p><p>「わたくしは何も気にしていませんわ、ウィリアム様」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　周囲に再婚を迫られる日々を繰り返すたび、見えない毒が蓄積するように、クラリッサは少しずつ疲弊していた。そんな自分にしばらくの療養を勧めたのは従兄だった。王位の簒奪を目論むのではと勘繰られるのを覚悟の上で、彼は、おのれが所有する北の別荘にクラリッサを送り出してくれたのだった。</p><p>　その折に、ウィリアムはこの屋敷を訪れたのだ。──訪れた、と言うよりは、逃れてきた、と表現した方が正しいのかもしれないけれども。</p><p>　クラリッサは事の子細を知らない。ウィリアムの腹心である公爵から、半月で構わないので受け入れてほしいと、先立って極秘裏に打診があっただけだった。事情を訊ねたところで明瞭な回答があるとは思えなかったし、彼が王位を戴く国──大国クロンクビストの情勢は、土地を隔てたヴェンネルヴィクにも洩れ聞こえている。七年も付き合えば、それなりに予測はついた。</p><p>　王城に迎え入れれば官僚が喧しかったろうが、クラリッサもまた療養の体で郊外へと去っている身であり、都合が良いので従兄の客人として迎え入れることにした。恐らく、公爵もこちらの状況を見て、判断したに違いない。ただ、少し誤算もあったのかもしれない、とクラリッサは独りごちる。ウィリアムの先触れとしてやって来た騎士は深手を負っており、今も目覚めていなかった。</p><p>　それでもなお、何があったのか、クラリッサは聞かない。</p><p>　ずっと聞かないことにしている。</p><p><br></p><p>（今でも貴女は、あの方をお慕いしているのですか）</p><p><br></p><p>　どうかしら、とクラリッサは思う。</p><p>　今でも少女の恋を燻らせているわけではない。だからといって、永遠の愛を捧げているのだと語るつもりもない。同情なのかと訊ねられたなら、そうだと答えたかもしれない。──あのひとの代わりに、あの国の行く末を見届けなければならないような、そんな気はしている。</p><p>　クラリッサを組み敷こうとしたウィリアムの眼差しを思い出す。</p><p>　クロンクビストに蔓延る闇が、今度は、彼の全てをも呑み込もうとしている。一縷の光が潰えてゆく気配だけが、濃さを増してゆく。</p><p><br></p><p>（わたくしは、ここにいる）<br></p><p><br></p><p>　この小さなヴェンネルヴィクに。</p><p>　誰の許へもゆかずに。</p><p>　血塗られた道をゆく哀れなけものが、せめて一時、休息を得られるように。</p><p>　クラリッサは別れたひとを想い、今では決して呼ばないその名を胸の奥で抱きしめる。あの日の祈りはいつか、届くのだろうか。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「クラリッサ様」</p><p><br></p><p>　客の寝室から出てきたクラリッサに、控えていた使用人が歩み寄ってくる。クラリッサは眦を和らげ、紅茶を、と頼んだ。</p><p><br></p><p>「怪我をして少し気が立っていらっしゃるから。……ゾエの紅茶はあったかしら」</p><p>「ございます」</p><p><br></p><p>　そう、と微笑む。</p><p><br></p><p>「ではそれにして頂戴。それから、ティーカップとソーサーはレンノのオードリーがいいわ。レユイの砂糖漬けもあるといいのだけれど」</p><p><br></p><p>　めずらしく細かな指定するクラリッサにも、目前の彼女は嫌な表情一つせず、ご準備致しますと頷く。お願いね、と言うと、もう一度首肯して、彼女はすぐに部屋から出て行った。</p><p>　その後ろ姿を見送り、クラリッサは目を伏せる。重ねた両手を胸に置き、そうして、吐息のようにささめいた。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[祈りの跡]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10292293/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/d234a0d307659ab9ca1cd3bfd1d9fc48_45c8c101ceeddbfe420d6e181e50cff8.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10292293</id><summary><![CDATA[　遠く、戦火の音が聞こえる。　ステラにはそんな気がしている。　現実は、外には粉雪が降りしきり、その凝った大気がどんな物音も吸収して、何も響きはしないのだけれども。とーん、と人差し指で鍵盤を叩けば、ため息のように消えてゆく。余韻のない響きにステラは目を伏せ、今度は、両手十指をそこに揃えた。呼吸をする。弾く。　耳が痺れるほどの静謐の最中、音楽の父ヨーゼフ・ハーゼが作曲した、聖歌の旋律が流れてゆく。　流れて、音は呑み込まれる。　ミルヴェーデンの痛々しい深雪のうちへ。　大陸最北に国を構えるミルヴェーデンの女王陛下は、戦争好きの流血主義と名高い。近隣諸国では、屍の上に絶対的な王座を敷き直したとも言われるほどだ。ミルヴェーデン建国の祖を『銀狼』と敬称するのに擬《なぞら》えて、彼女を『血染めの黒狼』と畏怖する者も少なくなかった。　その御前、女王の宮殿で、宮廷楽団の一員でもない自分がまさか音楽を披露することになるなどと、誰が想像できただろう。　ステラは少しばかり優秀な、音楽院の学徒に過ぎない。ミルヴェーデンの隣、大公国フレイヴァルツ、その音楽都市ラルセンにある国立高等音楽院で学ぶ一生徒。　粗相をして首を刎ねられでもしたら。　なぜわたしなどに。　思考は空転し、唇は陸に揚げられた魚のように動くだけ。思い返せば、青ざめた自分に、師はそのような無体をなさる方ではないとひどく渋い表情していたような憶えもあるが、ステラは大方の話を聞いていなかった。聞いていなかったことを、今は、後悔している。　──抑揚なく単調に。　ただ、音が途切れることがないようにだけ、気をつける。　朗々と伸びてゆくパイプオルガンとは異なって、室内楽用のクラヴィコードは微かに歌うような音を鳴らす。特にこのような聖堂では、傍らに立ってようやく聞こえる程度だろう。弾いているステラですらも息をひそめ、耳を澄ます。クラヴィコードで奏でるハーゼの聖歌はもの悲しい。　管弦の音のふくよかさとは比べるべくもない、機械仕掛けの打音がきん、とん、と。　女王の御前で弾いたときは、チェンバロだったが。（……陛下は）　ととん、と。　ステラは鍵盤を叩く指先に力を籠める。　案内された女王のサロンは、贅を極めたと評してよいものだった。少なくともステラにとっては。指折り数えてみるならば――格天井に、硝子製のシャンデリア。壁面や暖炉装飾の上に飾られた、ステラでも名を知る巨匠たちの数々の油彩画。美しい螺鈿の調度品、シルクの天鵞絨が張られたソファが数脚、それから、窓辺で揺れるカーテンは精緻な手編みのレースだったと思う。そこは、豪勢で品善く整えられたサロンだった。まさに人びとが夢見る女主人の城。　だが、その華やかな空間に用意されたチェンバロと、ステラの前に現れた女王陛下は。　ステラが奏でる聖なる曲は、ただひそやかに盛り上がる。　走るでもなく、叫ぶでもなく。　けれども、降りしきるばかりの白雪に、その響きが消えてしまうことがないようにだけ。　大陸を分断するイェイエル河の河畔、ステラの母国オーベリに生まれた音楽の父ヨーゼフ・ハーゼは、数ある楽器の中でも殊の外、クラヴィコードを愛したと言われている。　家庭用の練習楽器、大型のものでせいぜい室内楽ができるかどうか。オルガンやチェンバロのようには大きく歌えず、秘め事を囁くばかりのクラヴィコードを『静謐の鍵盤楽器』と称して、ハーゼは演奏会にもよく用いた。　ステラはそんなハーゼに傾倒し、幼い頃からクラヴィーア曲ばかりを弾いてきた。幸運にも、十二のときにオーベリの音楽アカデミーの推薦を受け、ラルセンの音楽院へ。だが、決して突出した才能があったわけではなく、秀でて有名な若い音楽家はステラの他に多くいて、この先に道はないだろうと入学当時から気づいていた。況して、ステラが愛するクラヴィコードは家庭でも弾ける楽器だ。師はステラの情熱を買い、目を掛けてくれているけれど、これ以上のものは望むべくもない。そしてそれは、ステラが女子であればなおのことだった。　──ミルヴェーデンの女王陛下は、と。　不敬にも、ステラは考える。　（もしかしたら）　ハーゼの聖歌が終わりへと向かう。頑なで冷たくもの悲しい旋律に、やがて霧が晴れるような、光が射し始める。　声楽があれば、わたしたちに神の恵みが、と歌うところだ。　わたしたちに神の恵みが。　雪が融け、芽吹き。　ステラは目を閉ざした。鍵盤に沈めた指に神経を集中させる。救済と恩寵を、と誰かが耳許で口ずさむ。重音が、深いため息のように。　名残惜しげに、最後の指が離れて。　手首が浮いた。「──……相変わらず」　一曲を弾き終わり、浅い息を吐いて聖堂の天井を見上げたステラの耳に、唸るような声が聞こえた。「ド下手だな、おまえ」　肩越しに振り向けば、いつからそこにいたのか、身廊に整然と並べられた長椅子に、一人の青年が長い脚を鬱陶しげに組んで座っている。相変わらずなのはそちらの方だわと、ステラは呆れ顔でその青年に向き合った。「あなた生きてたの」　五年も顔を見ていなかったので、死んだのかと思っていた。ステラが正直に言うと、彼は顔を顰めた。「勝手に殺すな」　宝石のように美しい翡翠の眸が、似つかわしくない険を乗せる。　ステラは乾いた笑いをはき、青年を観察した。　美妙に緑がかった黒髪に、同じ深みの長い睫毛、それに縁取られるのは翡翠の瞳。輪郭は鋭く精悍な顔つきで、恐ろしく仕立てのよさそうな衣服に包まれた体躯は引き締まっている。組んだ脚の上で頬杖をつく腕と、黒い手袋に包まれた指は、ステラには羨ましいばかりに長い。きっと、その十指は、どんな音階でも鍵盤に躓くことなく踊るのだろう。　出逢った当時から美少年と呼んで差し支えなかった彼は、完璧な美貌の均衡を何一つ狂わせないまま、大人の男になったようだった。　──ただ一点を除いては。「ド下手」　口の悪さだけは、相変わらずである。　麗しい天使にさえなれるだろうに、彼は、ステラの前だと自ら進んで悪魔になる。「ハーゼの聖歌で自己主張すんなこの阿呆。大体弾いてるときに余計なことを考えすぎなんだよ。あちこち音が跳ねてるし転けるし途中にいらない和音があった。下手なのか耳が悪いのかバカなのかどれだ。あぁ、全部？」　全くうるさい男である。　少年の時分であればまだ可愛げがあったのに、成熟しきった今では単に存在全てが厭味だ。ステラに限らず、みな口を揃えてそう言うだろう。──女王のサロンで、とても懐かしい面影を見つけたときに湧き上がった一瞬の喜びは、恐らく気のせいだったに違いない。ステラはうんざりと息を吐く。　ミルヴェーデンの女王陛下がなぜ、面識もなく、ラルセンの一学徒に過ぎないステラを招請したのか。　理由は、この青年だったのだ。「あなたがコルデーリア女王陛下の王弟だったとは存じ上げませんでしたわ、シグローヴ公爵閣下」　ミルヴェーデン女王の弟、シグローヴ公爵クライド・レイド・スカルスガルド。　女王の御前で、そのように紹介されたときのステラの絶望感は、きっと誰にも理解できない。ステラは拳を握った。　嫌な言い方をするな、と。　男は渋面になる。「騙したわけじゃない」「本当のことを言わなかったのに？」　公爵の言葉は詭弁だ。けれどそう思う一方で、『彼』は言えなかったのだと、ステラにもわかっている。　クライドと名乗る少年と出逢ったのは、ステラがラルセンの国立高等音楽院への入学を許可されたばかりのときだ。オーベリからラルセンへやってきたばかりで何もかもが心許なかったとき、何の気もなく足を運んだ孤児院の慈善音楽会で、ステラは彼に出逢った。　まだ誰も集まらない礼拝堂の中、彼は、舞台に用意されたチェンバロを調律していた。工具を片手に楽器の中を覗いたり、下に潜ったりしながら、使い古されたチェンバロを診ている。ステラが長椅子の隅で眺めているうち、そうして一通りのことを終えるとやがて鍵盤の前に座って、発音を確かめるためか、簡単な練習曲を弾き出した。　簡単な、練習曲だった。　子どもでも弾けるくらいの、たわいない。　けれど、その後で聴いた音楽会の曲目をさっぱり憶えていないほど、ステラは胸を震わされた。きれいだった。──きれいだったのだ。奇跡を聴いているかのようだった。美しさの中に神を見るのだと説くのなら、調律師の少年が弾いた練習曲は、ステラにとってまさしく神を見たようなものだったろう。　それと同時に、ステラは自分の歩みの道果てにも気づいたが──それすらも。それすらも、遠く翳んでしまうような。（……貴女のクラヴィーアはとても美しいと聞きました、ステラ・エルドレッド）　そして実際とても美しかったと、賛辞を口にして微笑んだのは、清らかな貴婦人だった。数多流した血がその身に凝固した『黒狼』ではなく。　いいえ、とステラは内心で女王に首を振るう。そんなはずがありません、コルデーリア女王陛下。　シャンデリア煌めく、絢爛なサロン。額縁の向こうで栄誉ある画家たちの筆が笑う。一級品に取り巻かれ、チェンバロは居心地悪そうにステラを待っていた。高級だが旧式の、古いチェンバロだった。　しかし、一鍵を叩けば。　寸分の狂いなく調律された音が鳴る。　──ステラの知る『彼』は、とても美しかったのだ。　見目ではなく。　その指が音楽に触れるとき、涙がこぼれ落ちるほど格別に。「わたしを嘲笑いたかったの？」　まさか、彼の姉である女王が弟の音楽を知らないはずなどないだろう。完璧な発音のチェンバロが用意されていたのがその証拠だ。何と言って、公爵は女王にステラを紹介したのか。　唇を噛みしめたステラに、違う、と否定する男の声は強張っていた。「……陛下に、聴かせたかっただけだ」「何を。どんなに楽器が古くても演奏者がへたくそでも美しく聴かせられるほど、自分の調律は天才だってことを？」「穿つな。そういうことじゃない」「じゃあ、どういうことよ！」　──ハーゼのように。　あの日の調律師の少年のように。　わたしにも、クラヴィーアを奏でることができたなら。　遠く、戦火の音がする。果てなく、終《つい》を知らずに、ミルヴェーデンにはこんなにも深い雪が降っているのに。祈りも悲鳴も何もかもを、その静寂に呑み込んでゆくのに。ステラの耳には戦火の音がする。──誰が。　一体誰が、あの女性を『黒狼』などと呼ばうのか。「わたしには神様なんて弾けない！」　脳裏を過ぎる。　場に馴染まぬ、古びたチェンバロ。　華美なもの、背負ったものに疲弊したような、華奢な体躯。扇を握る指先は引き攣れていた。サロンに現れた彼女を取り巻く人びとの視線、その異様さ。女王は決して背を折らず、眸を逸らさずにいたけれども。それが一段と悲愴だった。ステラを見つめて微笑んだあの眼差しが、白い頬が、唇が、聖母のように見えれば見えるほど。　そのような無体を為さる方ではない、と。　ステラの師は言った。ステラはそれをきちんと聴いていなかった。「わたしは……！」（とても美しかった）（自由で、伸びやかで）（貴女は）（音楽を愛していて）（その愛で、きっとどこへでもゆけるのね）「いい」　クライドは、短く言った。「俺はマリアに、神を聴かせたかったわけじゃない」　だから泣くなと、ひどくぶっきらぼうに、クライドはステラを慰めた。そこでようやくステラは、肩で息をする自分が、ぼろぼろと涙をこぼしていることに気づく。慌てて両手で拭おうとするが、一度あふれ出したものは止まらず、それどころか意識した途端に身体は勝手にしゃくり上げ始めた。視界が潤みきって、尊大な男の輪郭もぼやけた。静まり返る聖堂に、ステラの嗚咽が溶ける。　かた、と物音がした。　雪白の凍んだ匂いに包まれる。ステラが呼吸を止めたとき、羨ましいほど大きな手が、ステラの小さな背を撫ぜた。それから微かなため息と、ガキ、と呟く憎らしい声がする。何かを言い返してやりたかったが、再び迫り上げてきた涙で詰まって、ステラは何も言えなかった。「……陛下は喜んでいた」　ステラを緩く抱きしめながら、ステラにだけ聞こえるよう、クライドはまるでクラヴィコードのように囁く。単調な響き。機械仕掛けの打音。きん、とん、と歌う。　俺にはド下手にしか聴こえないおまえのクラヴィーアで、陛下は喜んでいた。嘘じゃない。懐かしいものを聴いたと、……子どもの頃の絵本をひらいたみたいだったと。どんな世界でも信じられた、子どもの頃のような。　感謝している、と。　めずらしく真摯に聞こえたその声に、一瞬虚を突かれたステラは、ややあって、男の腕のなかで小さく笑った。口の悪さは相変わらずだけれど、何となく、ステラの知る調律師の少年はもういないのだと思った。　男の着る上等な生地に、ステラの涙が滲んでゆく。　今、不器用にもステラをあやしているのは、女王陛下に跪くミルヴェーデンの王族の青年なのだ。もしかしたら──もしかしたら、ステラがあの日聴いた美しい『神様』は、すでに彼の手の内にはいないのかもしれなかった。　神を聴かせたかったわけじゃないと、クライドは言った。　──きっと。　自らの道果てを思い知ったあとでも。　それでも、愛するクラヴィコードと共に生きてきたステラと、このひとは違う。（とても美しかった）（貴女は）（その愛で、きっとどこへでもゆけるのね）　愛すべき音を吸収してゆく粉雪の向こうで、遠く、戦火の声がする。ステラにはそんな気がしている。ふと、ステラは恐る恐る腕を伸ばし、凍えた身体の男を静かに抱き返した。そうして、そっと目を閉ざす。ハーゼの聖歌を、乾いた唇でひそやかになぞる。なぞる。　わたしたちに神の恵みが。　雪が融け、芽吹き。　救済と恩寵を。　──深いため息のような、クラヴィコードの音がする。]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-09-16T11:29:57+00:00</published><updated>2020-11-12T14:18:03+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　遠く、戦火の音が聞こえる。</p><p>　ステラにはそんな気がしている。</p><p>　現実は、外には粉雪が降りしきり、その凝った大気がどんな物音も吸収して、何も響きはしないのだけれども。とーん、と人差し指で鍵盤を叩けば、ため息のように消えてゆく。余韻のない響きにステラは目を伏せ、今度は、両手十指をそこに揃えた。呼吸をする。弾く。</p><p>　耳が痺れるほどの静謐の最中、音楽の父ヨーゼフ・ハーゼが作曲した、聖歌の旋律が流れてゆく。</p><p>　流れて、音は呑み込まれる。</p><p>　ミルヴェーデンの痛々しい深雪のうちへ。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　大陸最北に国を構えるミルヴェーデンの女王陛下は、戦争好きの流血主義と名高い。近隣諸国では、屍の上に絶対的な王座を敷き直したとも言われるほどだ。ミルヴェーデン建国の祖を『銀狼』と敬称するのに擬《なぞら》えて、彼女を『血染めの黒狼』と畏怖する者も少なくなかった。</p><p>　その御前、女王の宮殿で、宮廷楽団の一員でもない自分がまさか音楽を披露することになるなどと、誰が想像できただろう。</p><p>　ステラは少しばかり優秀な、音楽院の学徒に過ぎない。ミルヴェーデンの隣、大公国フレイヴァルツ、その音楽都市ラルセンにある国立高等音楽院で学ぶ一生徒。</p><p>　粗相をして首を刎ねられでもしたら。</p><p>　なぜわたしなどに。</p><p>　思考は空転し、唇は陸に揚げられた魚のように動くだけ。思い返せば、青ざめた自分に、師はそのような無体をなさる方ではないとひどく渋い表情していたような憶えもあるが、ステラは大方の話を聞いていなかった。聞いていなかったことを、今は、後悔している。</p><p>　──抑揚なく単調に。</p><p>　ただ、音が途切れることがないようにだけ、気をつける。</p><p>　朗々と伸びてゆくパイプオルガンとは異なって、室内楽用のクラヴィコードは微かに歌うような音を鳴らす。特にこのような聖堂では、傍らに立ってようやく聞こえる程度だろう。弾いているステラですらも息をひそめ、耳を澄ます。クラヴィコードで奏でるハーゼの聖歌はもの悲しい。</p><p>　管弦の音のふくよかさとは比べるべくもない、機械仕掛けの打音がきん、とん、と。</p><p>　女王の御前で弾いたときは、チェンバロだったが。</p><p><br></p><p>（……陛下は）</p><p><br></p><p>　ととん、と。</p><p>　ステラは鍵盤を叩く指先に力を籠める。</p><p>　案内された女王のサロンは、贅を極めたと評してよいものだった。少なくともステラにとっては。指折り数えてみるならば――格天井に、硝子製のシャンデリア。壁面や暖炉装飾の上に飾られた、ステラでも名を知る巨匠たちの数々の油彩画。美しい螺鈿の調度品、シルクの天鵞絨が張られたソファが数脚、それから、窓辺で揺れるカーテンは精緻な手編みのレースだったと思う。そこは、豪勢で品善く整えられたサロンだった。まさに人びとが夢見る女主人の城。</p><p>　だが、その華やかな空間に用意されたチェンバロと、ステラの前に現れた女王陛下は。</p><p>　ステラが奏でる聖なる曲は、ただひそやかに盛り上がる。</p><p>　走るでもなく、叫ぶでもなく。</p><p>　けれども、降りしきるばかりの白雪に、その響きが消えてしまうことがないようにだけ。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　大陸を分断するイェイエル河の河畔、ステラの母国オーベリに生まれた音楽の父ヨーゼフ・ハーゼは、数ある楽器の中でも殊の外、クラヴィコードを愛したと言われている。</p><p>　家庭用の練習楽器、大型のものでせいぜい室内楽ができるかどうか。オルガンやチェンバロのようには大きく歌えず、秘め事を囁くばかりのクラヴィコードを『静謐の鍵盤楽器』と称して、ハーゼは演奏会にもよく用いた。</p><p>　ステラはそんなハーゼに傾倒し、幼い頃からクラヴィーア曲ばかりを弾いてきた。幸運にも、十二のときにオーベリの音楽アカデミーの推薦を受け、ラルセンの音楽院へ。だが、決して突出した才能があったわけではなく、秀でて有名な若い音楽家はステラの他に多くいて、この先に道はないだろうと入学当時から気づいていた。況して、ステラが愛するクラヴィコードは家庭でも弾ける楽器だ。師はステラの情熱を買い、目を掛けてくれているけれど、これ以上のものは望むべくもない。そしてそれは、ステラが女子であればなおのことだった。</p><p>　──ミルヴェーデンの女王陛下は、と。</p><p>　不敬にも、ステラは考える。　</p><p><br></p><p>（もしかしたら）</p><p><br></p><p>　ハーゼの聖歌が終わりへと向かう。頑なで冷たくもの悲しい旋律に、やがて霧が晴れるような、光が射し始める。</p><p>　声楽があれば、わたしたちに神の恵みが、と歌うところだ。</p><p>　わたしたちに神の恵みが。</p><p>　雪が融け、芽吹き。</p><p>　ステラは目を閉ざした。鍵盤に沈めた指に神経を集中させる。救済と恩寵を、と誰かが耳許で口ずさむ。重音が、深いため息のように。</p><p>　名残惜しげに、最後の指が離れて。</p><p>　手首が浮いた。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「──……相変わらず」</p><p><br></p><p>　一曲を弾き終わり、浅い息を吐いて聖堂の天井を見上げたステラの耳に、唸るような声が聞こえた。</p><p><br></p><p>「ド下手だな、おまえ」</p><p><br></p><p>　肩越しに振り向けば、いつからそこにいたのか、身廊に整然と並べられた長椅子に、一人の青年が長い脚を鬱陶しげに組んで座っている。相変わらずなのはそちらの方だわと、ステラは呆れ顔でその青年に向き合った。</p><p><br></p><p>「あなた生きてたの」</p><p><br></p><p>　五年も顔を見ていなかったので、死んだのかと思っていた。ステラが正直に言うと、彼は顔を顰めた。</p><p><br></p><p>「勝手に殺すな」</p><p><br></p><p>　宝石のように美しい翡翠の眸が、似つかわしくない険を乗せる。</p><p>　ステラは乾いた笑いをはき、青年を観察した。</p><p>　美妙に緑がかった黒髪に、同じ深みの長い睫毛、それに縁取られるのは翡翠の瞳。輪郭は鋭く精悍な顔つきで、恐ろしく仕立てのよさそうな衣服に包まれた体躯は引き締まっている。組んだ脚の上で頬杖をつく腕と、黒い手袋に包まれた指は、ステラには羨ましいばかりに長い。きっと、その十指は、どんな音階でも鍵盤に躓くことなく踊るのだろう。</p><p>　出逢った当時から美少年と呼んで差し支えなかった彼は、完璧な美貌の均衡を何一つ狂わせないまま、大人の男になったようだった。</p><p>　──ただ一点を除いては。</p><p><br></p><p>「ド下手」</p><p><br></p><p>　口の悪さだけは、相変わらずである。</p><p>　麗しい天使にさえなれるだろうに、彼は、ステラの前だと自ら進んで悪魔になる。</p><p><br></p><p>「ハーゼの聖歌で自己主張すんなこの阿呆。大体弾いてるときに余計なことを考えすぎなんだよ。あちこち音が跳ねてるし転けるし途中にいらない和音があった。下手なのか耳が悪いのかバカなのかどれだ。あぁ、全部？」</p><p><br></p><p>　全くうるさい男である。</p><p>　少年の時分であればまだ可愛げがあったのに、成熟しきった今では単に存在全てが厭味だ。ステラに限らず、みな口を揃えてそう言うだろう。──女王のサロンで、とても懐かしい面影を見つけたときに湧き上がった一瞬の喜びは、恐らく気のせいだったに違いない。ステラはうんざりと息を吐く。</p><p>　ミルヴェーデンの女王陛下がなぜ、面識もなく、ラルセンの一学徒に過ぎないステラを招請したのか。</p><p>　理由は、この青年だったのだ。</p><p><br></p><p>「あなたがコルデーリア女王陛下の王弟だったとは存じ上げませんでしたわ、シグローヴ公爵閣下」</p><p><br></p><p>　ミルヴェーデン女王の弟、シグローヴ公爵クライド・レイド・スカルスガルド。</p><p>　女王の御前で、そのように紹介されたときのステラの絶望感は、きっと誰にも理解できない。ステラは拳を握った。</p><p>　嫌な言い方をするな、と。</p><p>　男は渋面になる。</p><p><br></p><p>「騙したわけじゃない」</p><p>「本当のことを言わなかったのに？」</p><p><br></p><p>　公爵の言葉は詭弁だ。けれどそう思う一方で、『彼』は言えなかったのだと、ステラにもわかっている。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　クライドと名乗る少年と出逢ったのは、ステラがラルセンの国立高等音楽院への入学を許可されたばかりのときだ。オーベリからラルセンへやってきたばかりで何もかもが心許なかったとき、何の気もなく足を運んだ孤児院の慈善音楽会で、ステラは彼に出逢った。</p><p>　まだ誰も集まらない礼拝堂の中、彼は、舞台に用意されたチェンバロを調律していた。工具を片手に楽器の中を覗いたり、下に潜ったりしながら、使い古されたチェンバロを診ている。ステラが長椅子の隅で眺めているうち、そうして一通りのことを終えるとやがて鍵盤の前に座って、発音を確かめるためか、簡単な練習曲を弾き出した。</p><p>　簡単な、練習曲だった。</p><p>　子どもでも弾けるくらいの、たわいない。</p><p>　けれど、その後で聴いた音楽会の曲目をさっぱり憶えていないほど、ステラは胸を震わされた。きれいだった。──きれいだったのだ。奇跡を聴いているかのようだった。美しさの中に神を見るのだと説くのなら、調律師の少年が弾いた練習曲は、ステラにとってまさしく神を見たようなものだったろう。</p><p>　それと同時に、ステラは自分の歩みの道果てにも気づいたが──それすらも。それすらも、遠く翳んでしまうような。</p><p><br></p><p>（……貴女のクラヴィーアはとても美しいと聞きました、ステラ・エルドレッド）</p><p><br></p><p>　そして実際とても美しかったと、賛辞を口にして微笑んだのは、清らかな貴婦人だった。数多流した血がその身に凝固した『黒狼』ではなく。</p><p>　いいえ、とステラは内心で女王に首を振るう。そんなはずがありません、コルデーリア女王陛下。</p><p>　シャンデリア煌めく、絢爛なサロン。額縁の向こうで栄誉ある画家たちの筆が笑う。一級品に取り巻かれ、チェンバロは居心地悪そうにステラを待っていた。高級だが旧式の、古いチェンバロだった。</p><p>　しかし、一鍵を叩けば。</p><p>　寸分の狂いなく調律された音が鳴る。</p><p>　──ステラの知る『彼』は、とても美しかったのだ。</p><p>　見目ではなく。</p><p>　その指が音楽に触れるとき、涙がこぼれ落ちるほど格別に。</p><p><br></p><p>「わたしを嘲笑いたかったの？」</p><p><br></p><p>　まさか、彼の姉である女王が弟の音楽を知らないはずなどないだろう。完璧な発音のチェンバロが用意されていたのがその証拠だ。何と言って、公爵は女王にステラを紹介したのか。</p><p>　唇を噛みしめたステラに、違う、と否定する男の声は強張っていた。</p><p><br></p><p>「……陛下に、聴かせたかっただけだ」</p><p>「何を。どんなに楽器が古くても演奏者がへたくそでも美しく聴かせられるほど、自分の調律は天才だってことを？」</p><p>「穿つな。そういうことじゃない」</p><p>「じゃあ、どういうことよ！」</p><p><br></p><p>　──ハーゼのように。</p><p>　あの日の調律師の少年のように。</p><p>　わたしにも、クラヴィーアを奏でることができたなら。</p><p>　遠く、戦火の音がする。果てなく、終《つい》を知らずに、ミルヴェーデンにはこんなにも深い雪が降っているのに。祈りも悲鳴も何もかもを、その静寂に呑み込んでゆくのに。ステラの耳には戦火の音がする。──誰が。</p><p>　一体誰が、あの女性を『黒狼』などと呼ばうのか。</p><p><br></p><p>「わたしには神様なんて弾けない！」</p><p><br></p><p>　脳裏を過ぎる。</p><p>　場に馴染まぬ、古びたチェンバロ。</p><p>　華美なもの、背負ったものに疲弊したような、華奢な体躯。扇を握る指先は引き攣れていた。サロンに現れた彼女を取り巻く人びとの視線、その異様さ。女王は決して背を折らず、眸を逸らさずにいたけれども。それが一段と悲愴だった。ステラを見つめて微笑んだあの眼差しが、白い頬が、唇が、聖母のように見えれば見えるほど。</p><p>　そのような無体を為さる方ではない、と。</p><p>　ステラの師は言った。ステラはそれをきちんと聴いていなかった。</p><p><br></p><p>「わたしは……！」</p><p><br></p><p>（とても美しかった）</p><p>（自由で、伸びやかで）</p><p>（貴女は）</p><p>（音楽を愛していて）</p><p>（その愛で、きっとどこへでもゆけるのね）</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「いい」</p><p><br></p><p>　クライドは、短く言った。</p><p><br></p><p>「俺はマリアに、神を聴かせたかったわけじゃない」</p><p><br></p><p>　だから泣くなと、ひどくぶっきらぼうに、クライドはステラを慰めた。そこでようやくステラは、肩で息をする自分が、ぼろぼろと涙をこぼしていることに気づく。慌てて両手で拭おうとするが、一度あふれ出したものは止まらず、それどころか意識した途端に身体は勝手にしゃくり上げ始めた。視界が潤みきって、尊大な男の輪郭もぼやけた。静まり返る聖堂に、ステラの嗚咽が溶ける。</p><p>　かた、と物音がした。</p><p>　雪白の凍んだ匂いに包まれる。ステラが呼吸を止めたとき、羨ましいほど大きな手が、ステラの小さな背を撫ぜた。それから微かなため息と、ガキ、と呟く憎らしい声がする。何かを言い返してやりたかったが、再び迫り上げてきた涙で詰まって、ステラは何も言えなかった。</p><p><br></p><p>「……陛下は喜んでいた」</p><p><br></p><p>　ステラを緩く抱きしめながら、ステラにだけ聞こえるよう、クライドはまるでクラヴィコードのように囁く。単調な響き。機械仕掛けの打音。きん、とん、と歌う。</p><p>　俺にはド下手にしか聴こえないおまえのクラヴィーアで、陛下は喜んでいた。嘘じゃない。懐かしいものを聴いたと、……子どもの頃の絵本をひらいたみたいだったと。どんな世界でも信じられた、子どもの頃のような。</p><p>　感謝している、と。</p><p>　めずらしく真摯に聞こえたその声に、一瞬虚を突かれたステラは、ややあって、男の腕のなかで小さく笑った。口の悪さは相変わらずだけれど、何となく、ステラの知る調律師の少年はもういないのだと思った。</p><p>　男の着る上等な生地に、ステラの涙が滲んでゆく。</p><p>　今、不器用にもステラをあやしているのは、女王陛下に跪くミルヴェーデンの王族の青年なのだ。もしかしたら──もしかしたら、ステラがあの日聴いた美しい『神様』は、すでに彼の手の内にはいないのかもしれなかった。</p><p>　神を聴かせたかったわけじゃないと、クライドは言った。</p><p>　──きっと。</p><p>　自らの道果てを思い知ったあとでも。</p><p>　それでも、愛するクラヴィコードと共に生きてきたステラと、このひとは違う。</p><p><br></p><p>（とても美しかった）</p><p>（貴女は）</p><p>（その愛で、きっとどこへでもゆけるのね）</p><p><br></p><p>　愛すべき音を吸収してゆく粉雪の向こうで、遠く、戦火の声がする。ステラにはそんな気がしている。ふと、ステラは恐る恐る腕を伸ばし、凍えた身体の男を静かに抱き返した。そうして、そっと目を閉ざす。ハーゼの聖歌を、乾いた唇でひそやかになぞる。なぞる。</p><p>　わたしたちに神の恵みが。</p><p>　雪が融け、芽吹き。</p><p>　救済と恩寵を。</p><p>　──深いため息のような、クラヴィコードの音がする。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/d234a0d307659ab9ca1cd3bfd1d9fc48_45c8c101ceeddbfe420d6e181e50cff8.jpg?width=960" width="100%">
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			<h3>本稿はnoteでも読めます▼</h3>
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		<a href="https://note.com/hanauri_boi/n/n3e1ec35cfca9?magazine_key=m8494b548e366">
			<img src="https://assets.st-note.com/production/uploads/images/28401631/rectangle_large_type_2_858db461a3f6727308d4bf7469a36e25.jpg?fit=bounds&quality=60&width=1280" width="100%">
			<small><b>祈りの跡｜isora/｜note</b></small>
			<br>
			<small>    　遠く、戦火の音が聞こえる。 　ステラにはそんな気がしている。 　現実は、外には粉雪が降りしきり、その凝った大気がどんな物音も吸収して、何も響きはしないのだけれども。とーん、と人差し指で鍵盤を叩けば、ため息のように消えてゆく。余韻のない響きにステラは目を伏せ、今度は、両手十指をそこに揃えた。呼吸をする。弾く。 　耳が痺れるほどの静謐の最中、音楽の父ヨーゼフ・ハーゼが作曲した、聖歌の旋律が流れてゆく。 　流れて、音は呑み込まれる。 　ミルヴェーデンの痛々しい深雪のうちへ。   　大陸最北に国を構えるミルヴェーデンの女王陛下は、戦争好きの流血主義と名高い。近隣諸国では、屍の上に絶対</small>
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	</div>]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[無題]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10291450/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/c76b947b5c79be18c06d691580740107_e196e47dad68702cb70826d396aa6063.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10291450</id><summary><![CDATA[　──いつから「餓えていた」のかなど、憶えていない。　西の庭園にあるガゼボで普段通りに本を読んでいたところ、殿下、と聞き慣れない声に呼び掛けられた。肩越しに視線だけを遣ると、数段のみの低い階段の下で、やはり見覚えのない人間が立っている。これといった特徴のないありふれた立ち居を一瞥し、濡羽色の侍従服の胸もとにルブラの花をあしらった紋章が付けられているのを見て取ると、すぐに手許の本へと目を戻した。余暇を遮って現れたそれは、続けて何かを言っている。反応せずに聞き流してゆく。　おのれが関心を払わないことが気に障ったらしく、少しして、殿下、と再度呼ばれた。声音に気色ばんだ様子があった。程度の知れた男だと思いながら、ぺらりと本のページを捲る。「どうでもいい」　おまえが誰で、どんな志を持っていて、これからどのように私に近侍するのかなど、どうでもいい。感情の覗かない碧の眼差しを本へと落としたまま、おまえも運がないな、と言う。「ようやっと出世して王族付きになれたかと思えば、継承権を認められぬ第一王子の侍従などに任命されて」　男の気配が僅かに強張ったのを感じ、図星かと口の端で笑った。　──第一王子に与えられた『裏切り』を意味するルブラの紋章を戴くことは不名誉なことだと、宮仕えの身で知らぬ者などいない。知らぬとするならとんだ迂愚で、知ったうえで自ら近侍するなら野心があるだけだ。この男の反応は最もまともなものである。　新たな侍従の顔を覚える気もなかったが、精々頑張れ、と声を掛けてやった。「当面の主人として一つ助言をするのなら、私よりも死に損ないの王妃陛下の機嫌に気を付けるんだな。私はおまえが何をしようと興味はないが、あれは口うるさい。おまえの首を刎ねるのは私ではなく王妃陛下だと心しておくといい」　イェイエル河に分断された大陸の西側、大国クロンクビスト。賢王として名高いダグラス＝ヘンリー・オルブライトの治世下、直系にあたる王族方の住まうリンドブロム主宮には四人の王子がいた。　一番上の王子は亡国の姫を母に持つモーズレイ一族のフェビアン、二番目と五番目の王子は国の重鎮たるメディオフ公爵家のサディアスとウィリアム、四番目の王子はオルコット伯爵家のエアリーという。三番目にパーシヴァルという王子もいたのだが、こちらは齢五つのときに病死している。　ダグラスは、国政においては比類なき英明な王として有名であったが、おのれが妃に極めて無関心で、ゆえに周囲の勧めるまま気まぐれに妾妃を取り替える、女癖の悪い男としても知られていた。王妃の他に六人の妃の変遷があり、最後に迎え入れた修道女上がりの妃に執心した他は、子女のあるなしや後ろ盾、それぞれの立場を特段に配慮することもなく、殆どみな一様の扱いで主宮に居を構えさせていた。　──殆どみな、ということはつまり、例外もある。　第二王子のサディアスと、件の寵愛する妃、そしてその妃が産んだ末姫のアンジェリカである。　寝台から独力で下りることもままならなくなって早数年、死に損ないの王妃が血反吐のように呪詛を紡ぐのを、おざなりに聞く。終日暇を持てあましている我が身ではあるが、一日のうちでこのときだけは心底時間を浪費していると思っている。　曰く、既に亡国とはいえ自分はエクレフの青き血であるのだということ、大国の第一の妃として重んじられねばならないのだということ、他の妾妃と同列に扱われるなどあり得ないということ、その子であるおのれは紛うことなくこの国の王位を継ぐべきであるということ──　いずれも聞き飽きた話ゆえ枕元で適当に相槌を打っていると、時折、精神を病んだ女の剣呑な視線が飛んでくる。「聞いているのですか、フェビアン」「聞いておりますよ、母上。クロンクビストの王位は私に継がれるべきという話でしょう」　貴女のお気持ちは存じておりますとも、と肩を竦める。　愚かな妄執に過ぎないということも。　青き血の正統な王妃が産んだ王子こそが継嗣、大国の御座にふさわしいのだと、あるいは自らに言って聞かせるように繰り返す女を、頬杖こそは付かないけれども、いつもつまらない気持ちで眺める。おのれに王位継承権など存在しうるわけがないことはこの女が一番よくわかっているだろうに、毒を盛られ、骨と皮のみになっても生き延びている、死に損ないはしぶといものだ。いっそ尊敬すべきだろうかと心にもないことを思う。　ふと、午前中、ガゼボに現れた侍従が付けていたルブラの紋章が脳裏を過ぎった。　王族の紋章は、生誕の折、王によって授与される。聖書において裏切り者が首を吊ったルブラの花があしらわれた紋章は、当然、古くを遡っても前例がない。──妃にも子にもまるで関心を払わぬダグラス王がわざわざそのような衆目に明らかな措置を講じたのだから、意味は推して知るべしというものだ。　この母自身、決しておのれを『王の子』とは言わない。病んでなお『正統な王妃の産んだ子』と呼ぶ。　奢侈な天蓋を仰ぎ、柩にも似た寝台で、延々と吐き続けられる不幸と憎悪と執念の声を咎めることなく聞き流しながら、溜息さえも億劫に、眩い金の睫毛の下、静かに眸を伏せた。（どうでもいい）　侍従が何人入れ替わろうとも。　血への執着の果て、不義密通した骸の女がいくら譫言を言おうとも。　王がおのれに継承権を認めなくとも。（どうでもいい、私には）　王の長子として、王妃が最初に産んだ赤子は女だった。おのれの同腹の姉である。最初の姫を産んだのち、けれども数年経てども王妃は懐妊の兆しを見せず、そのうちに王の周囲で妾妃の献言が出始めると、焦燥か、業を煮やしたのか、王妃は一計を案じて子を身篭もった。詳細など知りたくもないので調べたことはないが、そうして生まれた第一王子は産み月を王や侍医から不審がられ、処分こそされなかったものの、王位継承権を持つ者からは外されたのである。また、結果としてそのことが、王が立場の強い妾妃を持つことに繋がったのだから、王妃の愚昧としか判じようがない。　現在、王位の継承が最も有力視されているのは、ラトランド公爵メディオフ家出身の妃を母に持つ、第二王子のサディアスである。三歳下の第二王子は、一切の疑義なき国の血筋であり、後ろ盾となるラトランド公爵は貴族からの信頼も篤い。第二王子自身、幼少期から頭もよく運動もでき明朗で、世才に優れて社交性もあり、これといった瑕疵がないゆえに、周囲が期待を込めて推挙するのは当然の流れのようなものだった。　母親は主宮で暮らしているが、サディアスには特別に離宮が与えられ、幾人もの侍従や護衛がそこには上がっている。そして、サディアスに許されている多くのものは、他のいずれの兄弟姉妹も──同腹の弟たるウィリアムですらも──持ち得ぬものばかりだった。第四王子のエアリーなどはサディアスを見るにつけ何かと難癖を付けているが、おのれに言わせれば、僻むだけ徒労というものだ。あれは根本的に、同じ王の子とはいえ、生まれが全く異なるのである。　特異というなら、末姫の方だろう。　他の妃とは比べるべくもない下賤の母を持ちながら、他の誰よりも王の庇護下で囲われている。まさしく寵妃の娘だった。「──本当に我が儘でいらっしゃるのですもの」「眺めているだけならご兄弟の誰よりも愛らしいのですけど」「まあ、あのリーラ様の御子ですものね」「母親にも見捨てられて」「陛下もご興味がなく」「お可哀想なアンジェリカ様」「『アンジェリカ』だなんて、本当に……」　西の庭園のガゼボで普段通りに本を読んでいると、少し離れた回廊を通りがかっている女たちのそのような会話が聞こえてきた。どうやらまたあの末姫が部屋を脱走しどこかへと姿を消したらしい。　あれの歳はいくつになったのだったかと思いながら、ページを捲る。──五つを数えてもいなかったような記憶があるが、定かではない。その歳の頃には、どこぞの妃に命を狙われ病床の王子となった不幸なパーシヴァルとは違い、寵妃の娘でありながら、侍女を撒いて城中に雲隠れできるほど元気一杯に育っているようで何よりのことだ、と独りごちる。　お可哀想なアンジェリカ様、とあざ笑う宮仕えの者たちの声がなぜだか耳に残った。　紙に触れている指先がひどく乾いて、ひび割れるような錯覚に陥る。（──盲《めくら》が）　母には疎まれ、王には捨ておけとぞんざいに扱われ、城に上がる殆どの人の目に付かない一番片隅の部屋を与えられ、数少ない侍女とだけ生活をしている王女。多くの者が権謀を弄し、互いに欺し惑わし狂わせるこのリンドブロム主宮──ひいては王城オクセンシェルナで、まるで誰からも存在そのものが忘れ去られるように適当に放置されているその娘を、──「可哀想」とは。　おのれも数えられる程度しか姿を見たことがないが、末姫のアンジェリカは、幼くも寵妃譲りの美しい顔《かんばせ》をした、それこそ黙っていれば罪も穢れもない天使のような風貌の子どもである。父の、燦然と輝く黄金の髪と、母の、月下に咲く白銀の髪を溶かしあわせたような柔らかく淡い金色の髪に、やはり両親の血を共に引き継いだ、翡翠の滲む碧眼を持っている。肌は白く、頬はほのかに薄紅を剥いてまろやかに、唇は瑞々しく赤い。数年も経てば、姉妹の誰よりも、国一の美姫として名を馳せるだろうことは、そういったことに興味のないおのれでも明らかだと思うところだった。　本来であれば、王の政略の駒として、最も有益になりそうな姫だというのに。　誂えられた鳥籠の中、羽ばたくことはできずとも、自由にさえずることは許されている。（可哀想、ね）　引き結んだ唇、その端が、無意識に歪む。　何者にもなれず生きるためだけに脈を打つ無為な心臓を、レーアテルエの棘を取ることに必死になってざらついた手のひらが無遠慮に這っている、そんな気がした。（嫌いだな、その言葉）　最愛の妃を亡くし、やがて気を狂わせたダグラス王が自らの息子の手によって死んだのは、それから十年後のことだった。　あれだけ妄執深かったおのれの母は疾うに死に、王妃の座は二人の王子の生母であるエディスへと移っていた。だが──多くの者には伏された真実ではあるが──父王を弑したサディアスが王位に就くのは困難を極め、本人も王位継承権の放棄を宣言したとあって、さて継承権はいずれの王子になるかと水面下で争いが始まりかけたその瞬きの間に、継承順第三位のエアリーが暗殺された。そうであるなら最早第五王子のウィリアムが王冠を戴くしかあるまいとの声があったが、ウィリアムの歳が未だ十三であったこと、本来であれば極刑を免れえぬサディアスの同腹の兄弟であったことなどが影響し、諸侯の意見が一致せず、政局が混乱を極めた末に、──おのれが手許に王位が巡ってきた。　あのときほど、声を上げて笑いたくなったことはない。　女の執念は恐ろしいなと心の底から思ったくらいである。　──ダグラス王の血を継がない王子と長年語られてきたが、産み月が僅かに異なるだけで早産であった可能性も捨てきれず、血縁がない証明もできなければ、ある、という証明も同様に不可能である、との見解が、突如として議会の中で降って湧いたのだった。──母の不義密通の相手は、クロンクビスト王族の血を引く、いずれかの貴族であったのかもしれなかった。　このときを待っていたとばかりに。　口許だけの笑みを貼り付けて跪いてきた者たちの多かったこと──（どうでもいい）　絢爛たる王座から居並ぶ者たちを目下に眺めたときと、西の庭園のガゼボでひとり本を読んでいた少年の頃、顔も覚えていない侍従に話しかけられたとき、おのれが抱いた気持ちは少しも変わらなかった。不名誉なルブラの紋章を胸につけ、誰もが心にもない口上を述べる。祝福は呪詛で、賛辞は陰謀で、誓約は背信を言外に匂わせる。正統な王位継承者であったサディアスは感じたこともなかっただろう。──昏く、重く、こんなにも影濃く澱んでいるのに、渇いている。骨の髄から、干涸らびさせるように。　──お可哀想な。　──お可哀想なアンジェリカ様。　いつの時代も、おのれの目に映る全ては等しく同じ色をして、凍てつく冬の墨色にぼやけるだけだったが、ふと、何か一つくらいは手に入れてやろうと思った。それは、死に損ないの王妃が繰り返した執着に似ていたようにも思う。感情の空隙にせり上がった欲望は次第に肥大化し、心を喰らう、歪なけもののようになった。　咽喉が渇く。腹が減る。生存を促す生理的な現象と同じように、化け物じみた「餓え」は襲い来る。　──翡翠にうつろう湖面のような碧の双眸が、おのれの「餓え」と、似て非なるものを覗かせるときはなおのこと。「同情されるのは嫌いだろう、アンジェリカ」　組み敷いた女が嵌めている、病んだ碧の眸が疎ましげに眇められるのを、救いようのない悦で以てさらに嬲る。──満足できない。いたぶって、踏みにじって、喘がせてもがかせて胸を掻きむしらせて、暗澹たる世界の底の底まで突き落として、きっとそれでも「餓え」はここにある。　満足できない、そのことに、安堵する。　誰もみな、孤独なけものだ。いつかはルブラの下で首を吊る。──この身だけではない。「ああ、もっとおまえを泣かせたいな」「……悪趣味」　それはもちろん、と笑う。「愛なんてそんなものだろう？」]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2020-09-16T10:16:45+00:00</published><updated>2020-10-07T00:56:03+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<p><br></p><p>　──いつから「餓えていた」のかなど、憶えていない。</p><p><br></p><p>　西の庭園にあるガゼボで普段通りに本を読んでいたところ、殿下、と聞き慣れない声に呼び掛けられた。肩越しに視線だけを遣ると、数段のみの低い階段の下で、やはり見覚えのない人間が立っている。これといった特徴のないありふれた立ち居を一瞥し、濡羽色の侍従服の胸もとにルブラの花をあしらった紋章が付けられているのを見て取ると、すぐに手許の本へと目を戻した。余暇を遮って現れたそれは、続けて何かを言っている。反応せずに聞き流してゆく。</p><p>　おのれが関心を払わないことが気に障ったらしく、少しして、殿下、と再度呼ばれた。声音に気色ばんだ様子があった。程度の知れた男だと思いながら、ぺらりと本のページを捲る。</p><p><br></p><p>「どうでもいい」</p><p><br></p><p>　おまえが誰で、どんな志を持っていて、これからどのように私に近侍するのかなど、どうでもいい。感情の覗かない碧の眼差しを本へと落としたまま、おまえも運がないな、と言う。</p><p><br></p><p>「ようやっと出世して王族付きになれたかと思えば、継承権を認められぬ第一王子の侍従などに任命されて」</p><p><br></p><p>　男の気配が僅かに強張ったのを感じ、図星かと口の端で笑った。</p><p>　──第一王子に与えられた『裏切り』を意味するルブラの紋章を戴くことは不名誉なことだと、宮仕えの身で知らぬ者などいない。知らぬとするならとんだ迂愚で、知ったうえで自ら近侍するなら野心があるだけだ。この男の反応は最もまともなものである。</p><p>　新たな侍従の顔を覚える気もなかったが、精々頑張れ、と声を掛けてやった。</p><p><br></p><p>「当面の主人として一つ助言をするのなら、私よりも死に損ないの王妃陛下の機嫌に気を付けるんだな。私はおまえが何をしようと興味はないが、あれは口うるさい。おまえの首を刎ねるのは私ではなく王妃陛下だと心しておくといい」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　イェイエル河に分断された大陸の西側、大国クロンクビスト。賢王として名高いダグラス＝ヘンリー・オルブライトの治世下、直系にあたる王族方の住まうリンドブロム主宮には四人の王子がいた。</p><p>　一番上の王子は亡国の姫を母に持つモーズレイ一族のフェビアン、二番目と五番目の王子は国の重鎮たるメディオフ公爵家のサディアスとウィリアム、四番目の王子はオルコット伯爵家のエアリーという。三番目にパーシヴァルという王子もいたのだが、こちらは齢五つのときに病死している。</p><p>　ダグラスは、国政においては比類なき英明な王として有名であったが、おのれが妃に極めて無関心で、ゆえに周囲の勧めるまま気まぐれに妾妃を取り替える、女癖の悪い男としても知られていた。王妃の他に六人の妃の変遷があり、最後に迎え入れた修道女上がりの妃に執心した他は、子女のあるなしや後ろ盾、それぞれの立場を特段に配慮することもなく、殆どみな一様の扱いで主宮に居を構えさせていた。</p><p>　──殆どみな、ということはつまり、例外もある。</p><p>　第二王子のサディアスと、件の寵愛する妃、そしてその妃が産んだ末姫のアンジェリカである。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　寝台から独力で下りることもままならなくなって早数年、死に損ないの王妃が血反吐のように呪詛を紡ぐのを、おざなりに聞く。終日暇を持てあましている我が身ではあるが、一日のうちでこのときだけは心底時間を浪費していると思っている。</p><p>　曰く、既に亡国とはいえ自分はエクレフの青き血であるのだということ、大国の第一の妃として重んじられねばならないのだということ、他の妾妃と同列に扱われるなどあり得ないということ、その子であるおのれは紛うことなくこの国の王位を継ぐべきであるということ──</p><p>　いずれも聞き飽きた話ゆえ枕元で適当に相槌を打っていると、時折、精神を病んだ女の剣呑な視線が飛んでくる。</p><p><br></p><p>「聞いているのですか、フェビアン」</p><p>「聞いておりますよ、母上。クロンクビストの王位は私に継がれるべきという話でしょう」</p><p><br></p><p>　貴女のお気持ちは存じておりますとも、と肩を竦める。</p><p>　愚かな妄執に過ぎないということも。</p><p>　青き血の正統な王妃が産んだ王子こそが継嗣、大国の御座にふさわしいのだと、あるいは自らに言って聞かせるように繰り返す女を、頬杖こそは付かないけれども、いつもつまらない気持ちで眺める。おのれに王位継承権など存在しうるわけがないことはこの女が一番よくわかっているだろうに、毒を盛られ、骨と皮のみになっても生き延びている、死に損ないはしぶといものだ。いっそ尊敬すべきだろうかと心にもないことを思う。</p><p>　ふと、午前中、ガゼボに現れた侍従が付けていたルブラの紋章が脳裏を過ぎった。</p><p>　王族の紋章は、生誕の折、王によって授与される。聖書において裏切り者が首を吊ったルブラの花があしらわれた紋章は、当然、古くを遡っても前例がない。──妃にも子にもまるで関心を払わぬダグラス王がわざわざそのような衆目に明らかな措置を講じたのだから、意味は推して知るべしというものだ。</p><p>　この母自身、決しておのれを『王の子』とは言わない。病んでなお『正統な王妃の産んだ子』と呼ぶ。</p><p>　奢侈な天蓋を仰ぎ、柩にも似た寝台で、延々と吐き続けられる不幸と憎悪と執念の声を咎めることなく聞き流しながら、溜息さえも億劫に、眩い金の睫毛の下、静かに眸を伏せた。</p><p><br></p><p>（どうでもいい）</p><p><br></p><p>　侍従が何人入れ替わろうとも。</p><p>　血への執着の果て、不義密通した骸の女がいくら譫言を言おうとも。</p><p>　王がおのれに継承権を認めなくとも。</p><p><br></p><p>（どうでもいい、私には）</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　王の長子として、王妃が最初に産んだ赤子は女だった。おのれの同腹の姉である。最初の姫を産んだのち、けれども数年経てども王妃は懐妊の兆しを見せず、そのうちに王の周囲で妾妃の献言が出始めると、焦燥か、業を煮やしたのか、王妃は一計を案じて子を身篭もった。詳細など知りたくもないので調べたことはないが、そうして生まれた第一王子は産み月を王や侍医から不審がられ、処分こそされなかったものの、王位継承権を持つ者からは外されたのである。また、結果としてそのことが、王が立場の強い妾妃を持つことに繋がったのだから、王妃の愚昧としか判じようがない。</p><p>　現在、王位の継承が最も有力視されているのは、ラトランド公爵メディオフ家出身の妃を母に持つ、第二王子のサディアスである。三歳下の第二王子は、一切の疑義なき国の血筋であり、後ろ盾となるラトランド公爵は貴族からの信頼も篤い。第二王子自身、幼少期から頭もよく運動もでき明朗で、世才に優れて社交性もあり、これといった瑕疵がないゆえに、周囲が期待を込めて推挙するのは当然の流れのようなものだった。</p><p>　母親は主宮で暮らしているが、サディアスには特別に離宮が与えられ、幾人もの侍従や護衛がそこには上がっている。そして、サディアスに許されている多くのものは、他のいずれの兄弟姉妹も──同腹の弟たるウィリアムですらも──持ち得ぬものばかりだった。第四王子のエアリーなどはサディアスを見るにつけ何かと難癖を付けているが、おのれに言わせれば、僻むだけ徒労というものだ。あれは根本的に、同じ王の子とはいえ、生まれが全く異なるのである。</p><p>　特異というなら、末姫の方だろう。</p><p>　他の妃とは比べるべくもない下賤の母を持ちながら、他の誰よりも王の庇護下で囲われている。まさしく寵妃の娘だった。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「──本当に我が儘でいらっしゃるのですもの」</p><p>「眺めているだけならご兄弟の誰よりも愛らしいのですけど」</p><p>「まあ、あのリーラ様の御子ですものね」</p><p>「母親にも見捨てられて」</p><p>「陛下もご興味がなく」</p><p>「お可哀想なアンジェリカ様」</p><p>「『アンジェリカ』だなんて、本当に……」</p><p><br></p><p>　西の庭園のガゼボで普段通りに本を読んでいると、少し離れた回廊を通りがかっている女たちのそのような会話が聞こえてきた。どうやらまたあの末姫が部屋を脱走しどこかへと姿を消したらしい。</p><p>　あれの歳はいくつになったのだったかと思いながら、ページを捲る。──五つを数えてもいなかったような記憶があるが、定かではない。その歳の頃には、どこぞの妃に命を狙われ病床の王子となった不幸なパーシヴァルとは違い、寵妃の娘でありながら、侍女を撒いて城中に雲隠れできるほど元気一杯に育っているようで何よりのことだ、と独りごちる。</p><p>　お可哀想なアンジェリカ様、とあざ笑う宮仕えの者たちの声がなぜだか耳に残った。</p><p>　紙に触れている指先がひどく乾いて、ひび割れるような錯覚に陥る。</p><p><br></p><p>（──盲《めくら》が）</p><p><br></p><p>　母には疎まれ、王には捨ておけとぞんざいに扱われ、城に上がる殆どの人の目に付かない一番片隅の部屋を与えられ、数少ない侍女とだけ生活をしている王女。多くの者が権謀を弄し、互いに欺し惑わし狂わせるこのリンドブロム主宮──ひいては王城オクセンシェルナで、まるで誰からも存在そのものが忘れ去られるように適当に放置されているその娘を、──「可哀想」とは。</p><p>　おのれも数えられる程度しか姿を見たことがないが、末姫のアンジェリカは、幼くも寵妃譲りの美しい顔《かんばせ》をした、それこそ黙っていれば罪も穢れもない天使のような風貌の子どもである。父の、燦然と輝く黄金の髪と、母の、月下に咲く白銀の髪を溶かしあわせたような柔らかく淡い金色の髪に、やはり両親の血を共に引き継いだ、翡翠の滲む碧眼を持っている。肌は白く、頬はほのかに薄紅を剥いてまろやかに、唇は瑞々しく赤い。数年も経てば、姉妹の誰よりも、国一の美姫として名を馳せるだろうことは、そういったことに興味のないおのれでも明らかだと思うところだった。</p><p>　本来であれば、王の政略の駒として、最も有益になりそうな姫だというのに。</p><p>　誂えられた鳥籠の中、羽ばたくことはできずとも、自由にさえずることは許されている。</p><p><br></p><p>（可哀想、ね）</p><p><br></p><p>　引き結んだ唇、その端が、無意識に歪む。</p><p>　何者にもなれず生きるためだけに脈を打つ無為な心臓を、レーアテルエの棘を取ることに必死になってざらついた手のひらが無遠慮に這っている、そんな気がした。</p><p><br></p><p>（嫌いだな、その言葉）</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　最愛の妃を亡くし、やがて気を狂わせたダグラス王が自らの息子の手によって死んだのは、それから十年後のことだった。</p><p>　あれだけ妄執深かったおのれの母は疾うに死に、王妃の座は二人の王子の生母であるエディスへと移っていた。だが──多くの者には伏された真実ではあるが──父王を弑したサディアスが王位に就くのは困難を極め、本人も王位継承権の放棄を宣言したとあって、さて継承権はいずれの王子になるかと水面下で争いが始まりかけたその瞬きの間に、継承順第三位のエアリーが暗殺された。そうであるなら最早第五王子のウィリアムが王冠を戴くしかあるまいとの声があったが、ウィリアムの歳が未だ十三であったこと、本来であれば極刑を免れえぬサディアスの同腹の兄弟であったことなどが影響し、諸侯の意見が一致せず、政局が混乱を極めた末に、──おのれが手許に王位が巡ってきた。</p><p>　あのときほど、声を上げて笑いたくなったことはない。</p><p>　女の執念は恐ろしいなと心の底から思ったくらいである。</p><p>　──ダグラス王の血を継がない王子と長年語られてきたが、産み月が僅かに異なるだけで早産であった可能性も捨てきれず、血縁がない証明もできなければ、ある、という証明も同様に不可能である、との見解が、突如として議会の中で降って湧いたのだった。──母の不義密通の相手は、クロンクビスト王族の血を引く、いずれかの貴族であったのかもしれなかった。</p><p>　このときを待っていたとばかりに。</p><p>　口許だけの笑みを貼り付けて跪いてきた者たちの多かったこと──</p><p><br></p><p>（どうでもいい）</p><p><br></p><p>　絢爛たる王座から居並ぶ者たちを目下に眺めたときと、西の庭園のガゼボでひとり本を読んでいた少年の頃、顔も覚えていない侍従に話しかけられたとき、おのれが抱いた気持ちは少しも変わらなかった。不名誉なルブラの紋章を胸につけ、誰もが心にもない口上を述べる。祝福は呪詛で、賛辞は陰謀で、誓約は背信を言外に匂わせる。正統な王位継承者であったサディアスは感じたこともなかっただろう。──昏く、重く、こんなにも影濃く澱んでいるのに、渇いている。骨の髄から、干涸らびさせるように。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　──お可哀想な。</p><p>　──お可哀想なアンジェリカ様。</p><p><br></p><p>　いつの時代も、おのれの目に映る全ては等しく同じ色をして、凍てつく冬の墨色にぼやけるだけだったが、ふと、何か一つくらいは手に入れてやろうと思った。それは、死に損ないの王妃が繰り返した執着に似ていたようにも思う。感情の空隙にせり上がった欲望は次第に肥大化し、心を喰らう、歪なけもののようになった。</p><p>　咽喉が渇く。腹が減る。生存を促す生理的な現象と同じように、化け物じみた「餓え」は襲い来る。</p><p>　──翡翠にうつろう湖面のような碧の双眸が、おのれの「餓え」と、似て非なるものを覗かせるときはなおのこと。</p><p><br></p><p>「同情されるのは嫌いだろう、アンジェリカ」</p><p><br></p><p>　組み敷いた女が嵌めている、病んだ碧の眸が疎ましげに眇められるのを、救いようのない悦で以てさらに嬲る。──満足できない。いたぶって、踏みにじって、喘がせてもがかせて胸を掻きむしらせて、暗澹たる世界の底の底まで突き落として、きっとそれでも「餓え」はここにある。</p><p>　満足できない、そのことに、安堵する。</p><p>　誰もみな、孤独なけものだ。いつかはルブラの下で首を吊る。──この身だけではない。</p><p><br></p><p>「ああ、もっとおまえを泣かせたいな」</p><p>「……悪趣味」</p><p><br></p><p>　それはもちろん、と笑う。</p><p><br></p><p>「愛なんてそんなものだろう？」</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/c76b947b5c79be18c06d691580740107_e196e47dad68702cb70826d396aa6063.jpg?width=960" width="100%">
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]]></content><rights>Copyright 2020-  isora/sin saezima All rights reserved.</rights></entry><entry><title><![CDATA[誰も知らない]]></title><link rel="alternate" href="https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10292411/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1079447/8e4212108d5e6364eab9c32c8f242ff9_991889b50f44e5f46c24e2f3ebb2cc55.jpg"></link><id>https://hanauriboi.amebaownd.com/posts/10292411</id><summary><![CDATA[　父王が死んだ。おのれが齢十三のときだった。　その訃報が入ったのは、父王の死から一晩が明けてからだった。おのれは、姫をあわせて全ての兄弟の末子であったので、報の訪いは、あまり早くはなかったと思う。だから父王に近侍する者たちにより、死の周辺は把握されていたはずだったが、次第ははぐらかされた。否、はぐらかされたというより、突然のことに、知らせを持ってきた侍従も子細を知らないようだった。陛下が逝去されたそうです、と、侍従は青い顔で、けれど怪訝そうな目をしていた。　父の急逝の、その少し前に、唯一母を同じくする兄が帰国した話は聞いていた。　父王が身罷ったとなれば、即位するのは兄になる。「兄上は？」　動揺を抑えて平静を保とうとしている──そんな素振りを装って、訊いた。　本当は、薄々、勘づいていた。突如としてもたらされた、父王の死の内実について。兄ほどの傑物ではないにしても、残念ながらそれほどに頭が悪い子どもではなかった。　そして侍従は、そのとき、兄の状況を知らなかった。　間もなくして、新王が即位した。戴冠したその人は、長く王位継承権を有していた、同腹の兄ではなかった。新王となったのは、体裁上は第一王子だが、生まれに疑義があり、父王によりルブラの紋章を授けられた男だった。聖書において裏切り者が首を吊ったとされるルブラ、それを自らの血筋の証明とする「長兄」である。　兄は、兄弟姉妹の誰よりも秀でた、偉材だった。ゆえに、新たなる王がなぜ兄ではないのか、城内では様々な憶測が飛び交っていた。　聞いたところによると、父王の死の直後、兄は、王の諮問機関である枢密院で王位継承権の放棄を宣言したのだという。母である王妃──すでに王太后だが──、それから母の生家であるラトランド公爵家の当主にして、貴族院の長たるザカライア・メディオフがその場でそれを認めたとあっては、兄の戴冠を推し進めることは難しかったらしい。兄が、継承権を放棄する由は、公には明らかにされなかった。　兄の辞意とほぼ同時期に、異母兄の第四王子が暗殺された。そして、おのれは年齢を理由に推挙されず、結果として「長兄」が王になったのだった。　新王の即位から九ヶ月後には王妃が冊立、そのさらに二年後には、兄の右腕であったハーシェル公爵家の嫡男が異母姉の一人と結婚し、代替わりをした。父の死を境に、ひとときのため息も許さずに、城の中は移りゆく。　そのうちに、兄もまた、他国で婚姻を結ぶことになった。相手は、この年にようやく十六を迎える姫だという話だった。「姉上」　光の射す角度によってときに銀にも見える淡い金髪が揺れた。父が死んでからひと月後、久しぶりに目通りが叶ったときにはもう、彼女の髪は、肩につくかつかないかという長さになってしまっていた。妙齢の女性にしてはあまりにも短いその髪にも、疾うに見慣れた。　おのれの声に振り向いた姉は、瞬き、それから少しだけ眦を柔らかくする。「ウィリアム、どうしたの」「釣書と絵姿から逃げていたら、偶然、姉上が見えたので」　半分は本当で、半分は嘘だった。兄の結婚が決まり、いよいよ残す王子はおのれだけとなって、この頃はどこそこの貴族たちからよく追い掛けられている。そちらは本当である。うんざりしたように肩を落とすと、姉は品よく口許を押さえて、ふふ、と笑った。大変そうねと言うので、本当ですよと、わざとらしく半眼になり頷いた。「姉上はこちらで何を？」　問いながら、彼女の前にある、小さな庭を覗いた。敷地内にいくつもある整備された庭園とは異なり、本当にただの庭だ──ともすれば、おのれの感覚的には、野原にすら近いような庭である──。ここは、王族が居を構えるリンドブロム主宮の、果ての庭だった。意図的に足を向けなければ、王族のみならず、侍従や下働きたちですら訪れることがないような場所なのだった。城の庭園管理部に至っても、精々、末端の庭師が一人か二人くらいしか来ていないのだと思う。何種類かの植物が、植えられているというより、群生している。　だから半分は嘘だ。偶然に人を見かけるようなところではない。　姉は聡いひとなので、とぼけるおのれに、困ったような笑みをはいた。「私のことが心配になったの？　ウィル」「それはもちろん。姉上のことを想わない日はありませんよ、僕は」　僕は、の語気が少し強くなった。つい、棘が混じってしまう。奥歯で苦虫を噛み潰したいのを堪えながら姉を見ると、彼女はやはり、眉尻を下げて笑っている。風が吹いて、光の粒を凝らしたような金髪が揺れると、彼女の表情に陰翳が差した。　改めて、姉に向き合う。肩の上で切り揃えられた金髪に、線の細い輪郭、落とされた睫毛は、雪花石膏の頬に、静かな影を作っている。誰よりも美しく、こんなにも儚いのに、と思った。──彼女の背を追い越したのはいつの頃だったろう。ほんの数年前まで、二歳年上のこの姉を見上げていた気がするのに、今では全く違う目線にいる。頭半分以上、高さの異なる眼差しで、このひとは何を見ているのか。「兄上についていかれるのだと聞きました」　兄が結婚する。兄の結婚は、妻を娶るのではない。ヴェンネルヴィクという、内陸のごく小さな国への婿入りなのだった。王位に就いて徐々に地盤を固めつつある「長兄」が、目障りな兄を体よく追い払うわけだ。姉は──異母姉は、それについてゆくのだという。父王が死んだとき、教会によって破門され、王族籍を離れたこのひとは、侍従らの代わりにただ一人、兄についてゆく。騎士として。　夜に生きているかのような濡羽色の、男物の衣服を身に纏って佇んでいる姉は、何も言わずに庭を見つめている。彼女の騎士服も随分、見慣れたものだが。「辛くはないですか」　訊いたところでむだだと、わかってはいた。婚姻を結ぶ相手に異性の付き人がいては問題だろうし、延いては姉にどのような邪推と中傷が向けられるかなど、想像はあまりに容易いものだ。傑出した兄が眉目にも手腕にも優れていればいるほど、間違いなく、姉は影を踏むことになる。それでもこのひとは、ゆくだろう。自らが傷つけられることよりも、兄の傍らを選ぶのだろう。　姉の選択は、騎士への道を歩み出したときから一度も変わっていない。　父王が死んだあの日、あの夜、あの瞬間から。おのれはそのさまを目撃したのではないけれど、きっと、兄が父を手に掛けたそのときに運命の全ては決したのだと思う。鳥籠の鍵が破壊され、王の正気のために犠牲になっていた小鳥は羽ばたいた。その先がこの道なのだ。兄のために生きて、兄のために死ぬことが、このひとの望みの全てなのだった。　わかっては、いる。　いるけれど。「あなたが幸せになるのでは、だめですか」　現ハーシェル公爵のエリオット・ミラーが結婚前、姉に求婚したことを知っている。王族籍を離れても、四公爵の一であるミラー家ならば、姉の地位と名誉を保護することができる。だが、彼女はそれを断った。兄が継承権を放棄したことと同じく、理由は語られなかったけれども、それが姉の幸福の形でないことは確かだった。　他方、姉に、騎士の訓練を施した男は、かつて唾棄するように言った。死なせて差し上げたほうがよほど幸せでしょうに、と。そして、そう考えている者は、恐らく一人や二人ではなかった。けれどそれも、本当に、彼女の望む幸福なのか。心を磨り減らし生きてゆくそのさまを、自分たちが見るのが辛いから、楽に死んでほしいだけなのではないのか。（僕は）　──あなたに、生きてほしい。「あなたに、幸せでいてほしいと想う僕は」　罪深いですかと、言い掛けて口を噤んだ。許しを請うている。彼女のためには何も為さないくせに、おのれの心だけを救おうとしている。卑怯だ。卑怯だった。自分自身への怒りが湧き上がって、下唇を噛んだ。姉に何を言って、姉が何と返事をしてくれたら、この胸の痛みがなくなるのかを考えている。　ざあざあと風が吹いた。その音が通っていったのは、庭だったのか心だったのか。　ウィル、と姉の声が耳朶を打った。すっかり冷えきったらしい頬に、あたたかい手が添えられた。いつの間にか俯いていた顔を掬われて、目が合う。金の睫毛が彩るのは、森の奥に息づく真夏の湖のような碧だった。澄んだ青に、微かな翡翠が光る。その眸に映るおのれはどんな表情をしていたのだろう。　姉はゆっくりと、ほほ笑んだ。　あの日、姉が果ての庭で何をしていたのか、結局彼女の口から聞くことはできなかった。彼女は兄に従って国を発ち、やがて、憂慮したとおりの出来事が起こった。姉は、兄と離れて帰国する。父が姉にしたのと同じことを、悪辣な「長兄」が倣い、彼女へ施した。深い闇が澱を成し、姉は静かに病んでゆく。だから、今度こそ本当に死なせてあげるべきなのか、生かすことはおのれの独り善がりではないのか、彼女の枕元で何度も考えた。生きてゆくことは地獄で、絶望だった。少なくとも姉にとっては、ほとんどそうだったのだと思う。兄が傍らにいるそのことだけが、彼女の光だった。「あの庭には、フィリカが植えてあったんです」　姉の侍女たちは言った。果ての庭には、元々、兄が彼女に贈った花──フィリカが植えられていたのだという。フィリカは、春の訪れを言祝ぐ早咲きの花だ。そうかと思った。兄の婚前では時期がずれていたから、彼女は、そこに咲くはずの花を想って、何もせずに庭を眺めていたのだ。おのれが、姉の幸せは何なのかと思い煩っていたそのときもただ、彼女は彼女の心を凝らしていたのだと知った。（辛くはないですか）　愚かな問いだった。姉の望みはやはり、兄の許にしかなかった。何があろうとも、彼女にしかわからない彼女の幸せが、そこにはあったのだ。]]></summary><author><name>isora/sin</name></author><published>2019-02-08T11:39:53+00:00</published><updated>2020-09-18T04:02:41+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>　父王が死んだ。おのれが齢十三のときだった。</p><p>　その訃報が入ったのは、父王の死から一晩が明けてからだった。おのれは、姫をあわせて全ての兄弟の末子であったので、報の訪いは、あまり早くはなかったと思う。だから父王に近侍する者たちにより、死の周辺は把握されていたはずだったが、次第ははぐらかされた。否、はぐらかされたというより、突然のことに、知らせを持ってきた侍従も子細を知らないようだった。陛下が逝去されたそうです、と、侍従は青い顔で、けれど怪訝そうな目をしていた。</p><p>　父の急逝の、その少し前に、唯一母を同じくする兄が帰国した話は聞いていた。</p><p>　父王が身罷ったとなれば、即位するのは兄になる。</p><p><br></p><p>「兄上は？」</p><p><br></p><p>　動揺を抑えて平静を保とうとしている──そんな素振りを装って、訊いた。</p><p>　本当は、薄々、勘づいていた。突如としてもたらされた、父王の死の内実について。兄ほどの傑物ではないにしても、残念ながらそれほどに頭が悪い子どもではなかった。</p><p>　そして侍従は、そのとき、兄の状況を知らなかった。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　間もなくして、新王が即位した。戴冠したその人は、長く王位継承権を有していた、同腹の兄ではなかった。新王となったのは、体裁上は第一王子だが、生まれに疑義があり、父王によりルブラの紋章を授けられた男だった。聖書において裏切り者が首を吊ったとされるルブラ、それを自らの血筋の証明とする「長兄」である。</p><p>　兄は、兄弟姉妹の誰よりも秀でた、偉材だった。ゆえに、新たなる王がなぜ兄ではないのか、城内では様々な憶測が飛び交っていた。</p><p>　聞いたところによると、父王の死の直後、兄は、王の諮問機関である枢密院で王位継承権の放棄を宣言したのだという。母である王妃──すでに王太后だが──、それから母の生家であるラトランド公爵家の当主にして、貴族院の長たるザカライア・メディオフがその場でそれを認めたとあっては、兄の戴冠を推し進めることは難しかったらしい。兄が、継承権を放棄する由は、公には明らかにされなかった。</p><p>　兄の辞意とほぼ同時期に、異母兄の第四王子が暗殺された。そして、おのれは年齢を理由に推挙されず、結果として「長兄」が王になったのだった。</p><p><br></p><p>　新王の即位から九ヶ月後には王妃が冊立、そのさらに二年後には、兄の右腕であったハーシェル公爵家の嫡男が異母姉の一人と結婚し、代替わりをした。父の死を境に、ひとときのため息も許さずに、城の中は移りゆく。</p><p>　そのうちに、兄もまた、他国で婚姻を結ぶことになった。相手は、この年にようやく十六を迎える姫だという話だった。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>「姉上」</p><p><br></p><p>　光の射す角度によってときに銀にも見える淡い金髪が揺れた。父が死んでからひと月後、久しぶりに目通りが叶ったときにはもう、彼女の髪は、肩につくかつかないかという長さになってしまっていた。妙齢の女性にしてはあまりにも短いその髪にも、疾うに見慣れた。</p><p>　おのれの声に振り向いた姉は、瞬き、それから少しだけ眦を柔らかくする。</p><p><br></p><p>「ウィリアム、どうしたの」</p><p>「釣書と絵姿から逃げていたら、偶然、姉上が見えたので」</p><p><br></p><p>　半分は本当で、半分は嘘だった。兄の結婚が決まり、いよいよ残す王子はおのれだけとなって、この頃はどこそこの貴族たちからよく追い掛けられている。そちらは本当である。うんざりしたように肩を落とすと、姉は品よく口許を押さえて、ふふ、と笑った。大変そうねと言うので、本当ですよと、わざとらしく半眼になり頷いた。</p><p><br></p><p>「姉上はこちらで何を？」</p><p><br></p><p>　問いながら、彼女の前にある、小さな庭を覗いた。敷地内にいくつもある整備された庭園とは異なり、本当にただの庭だ──ともすれば、おのれの感覚的には、野原にすら近いような庭である──。ここは、王族が居を構えるリンドブロム主宮の、果ての庭だった。意図的に足を向けなければ、王族のみならず、侍従や下働きたちですら訪れることがないような場所なのだった。城の庭園管理部に至っても、精々、末端の庭師が一人か二人くらいしか来ていないのだと思う。何種類かの植物が、植えられているというより、群生している。</p><p>　だから半分は嘘だ。偶然に人を見かけるようなところではない。</p><p>　姉は聡いひとなので、とぼけるおのれに、困ったような笑みをはいた。</p><p><br></p><p>「私のことが心配になったの？　ウィル」</p><p>「それはもちろん。姉上のことを想わない日はありませんよ、僕は」</p><p><br></p><p>　僕は、の語気が少し強くなった。つい、棘が混じってしまう。奥歯で苦虫を噛み潰したいのを堪えながら姉を見ると、彼女はやはり、眉尻を下げて笑っている。風が吹いて、光の粒を凝らしたような金髪が揺れると、彼女の表情に陰翳が差した。</p><p>　改めて、姉に向き合う。肩の上で切り揃えられた金髪に、線の細い輪郭、落とされた睫毛は、雪花石膏の頬に、静かな影を作っている。誰よりも美しく、こんなにも儚いのに、と思った。──彼女の背を追い越したのはいつの頃だったろう。ほんの数年前まで、二歳年上のこの姉を見上げていた気がするのに、今では全く違う目線にいる。頭半分以上、高さの異なる眼差しで、このひとは何を見ているのか。</p><p><br></p><p>「兄上についていかれるのだと聞きました」</p><p><br></p><p>　兄が結婚する。兄の結婚は、妻を娶るのではない。ヴェンネルヴィクという、内陸のごく小さな国への婿入りなのだった。王位に就いて徐々に地盤を固めつつある「長兄」が、目障りな兄を体よく追い払うわけだ。姉は──異母姉は、それについてゆくのだという。父王が死んだとき、教会によって破門され、王族籍を離れたこのひとは、侍従らの代わりにただ一人、兄についてゆく。騎士として。</p><p>　夜に生きているかのような濡羽色の、男物の衣服を身に纏って佇んでいる姉は、何も言わずに庭を見つめている。彼女の騎士服も随分、見慣れたものだが。</p><p><br></p><p>「辛くはないですか」</p><p><br></p><p>　訊いたところでむだだと、わかってはいた。婚姻を結ぶ相手に異性の付き人がいては問題だろうし、延いては姉にどのような邪推と中傷が向けられるかなど、想像はあまりに容易いものだ。傑出した兄が眉目にも手腕にも優れていればいるほど、間違いなく、姉は影を踏むことになる。それでもこのひとは、ゆくだろう。自らが傷つけられることよりも、兄の傍らを選ぶのだろう。</p><p>　姉の選択は、騎士への道を歩み出したときから一度も変わっていない。</p><p>　父王が死んだあの日、あの夜、あの瞬間から。おのれはそのさまを目撃したのではないけれど、きっと、兄が父を手に掛けたそのときに運命の全ては決したのだと思う。鳥籠の鍵が破壊され、王の正気のために犠牲になっていた小鳥は羽ばたいた。その先がこの道なのだ。兄のために生きて、兄のために死ぬことが、このひとの望みの全てなのだった。</p><p>　わかっては、いる。</p><p>　いるけれど。</p><p><br></p><p>「あなたが幸せになるのでは、だめですか」</p><p><br></p><p>　現ハーシェル公爵のエリオット・ミラーが結婚前、姉に求婚したことを知っている。王族籍を離れても、四公爵の一であるミラー家ならば、姉の地位と名誉を保護することができる。だが、彼女はそれを断った。兄が継承権を放棄したことと同じく、理由は語られなかったけれども、それが姉の幸福の形でないことは確かだった。</p><p>　他方、姉に、騎士の訓練を施した男は、かつて唾棄するように言った。死なせて差し上げたほうがよほど幸せでしょうに、と。そして、そう考えている者は、恐らく一人や二人ではなかった。けれどそれも、本当に、彼女の望む幸福なのか。心を磨り減らし生きてゆくそのさまを、自分たちが見るのが辛いから、楽に死んでほしいだけなのではないのか。</p><p><br></p><p>（僕は）</p><p><br></p><p>　──あなたに、生きてほしい。</p><p><br></p><p>「あなたに、幸せでいてほしいと想う僕は」</p><p><br></p><p>　罪深いですかと、言い掛けて口を噤んだ。許しを請うている。彼女のためには何も為さないくせに、おのれの心だけを救おうとしている。卑怯だ。卑怯だった。自分自身への怒りが湧き上がって、下唇を噛んだ。姉に何を言って、姉が何と返事をしてくれたら、この胸の痛みがなくなるのかを考えている。</p><p>　ざあざあと風が吹いた。その音が通っていったのは、庭だったのか心だったのか。</p><p>　ウィル、と姉の声が耳朶を打った。すっかり冷えきったらしい頬に、あたたかい手が添えられた。いつの間にか俯いていた顔を掬われて、目が合う。金の睫毛が彩るのは、森の奥に息づく真夏の湖のような碧だった。澄んだ青に、微かな翡翠が光る。その眸に映るおのれはどんな表情をしていたのだろう。</p><p>　姉はゆっくりと、ほほ笑んだ。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p>　あの日、姉が果ての庭で何をしていたのか、結局彼女の口から聞くことはできなかった。彼女は兄に従って国を発ち、やがて、憂慮したとおりの出来事が起こった。姉は、兄と離れて帰国する。父が姉にしたのと同じことを、悪辣な「長兄」が倣い、彼女へ施した。深い闇が澱を成し、姉は静かに病んでゆく。だから、今度こそ本当に死なせてあげるべきなのか、生かすことはおのれの独り善がりではないのか、彼女の枕元で何度も考えた。生きてゆくことは地獄で、絶望だった。少なくとも姉にとっては、ほとんどそうだったのだと思う。兄が傍らにいるそのことだけが、彼女の光だった。</p><p><br></p><p>「あの庭には、フィリカが植えてあったんです」</p><p><br></p><p>　姉の侍女たちは言った。果ての庭には、元々、兄が彼女に贈った花──フィリカが植えられていたのだという。フィリカは、春の訪れを言祝ぐ早咲きの花だ。そうかと思った。兄の婚前では時期がずれていたから、彼女は、そこに咲くはずの花を想って、何もせずに庭を眺めていたのだ。おのれが、姉の幸せは何なのかと思い煩っていたそのときもただ、彼女は彼女の心を凝らしていたのだと知った。</p><p><br></p><p>（辛くはないですか）</p><p><br></p><p>　愚かな問いだった。姉の望みはやはり、兄の許にしかなかった。何があろうとも、彼女にしかわからない彼女の幸せが、そこにはあったのだ。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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			<small><b>誰も知らない｜isora/｜note</b></small>
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			<small>    　父王が死んだ。おのれが齢十三のときだった。 　その訃報が入ったのは、父王の死から一晩が明けてからだった。おのれは、姫をあわせて全ての兄弟の末子であったので、報の訪いは、あまり早くはなかったと思う。だから父王に近侍する者たちにより、死の周辺は把握されていたはずだったが、次第ははぐらかされた。否、はぐらかされたというより、突然のことに、知らせを持ってきた侍従も子細を知らないようだった。陛下が逝去されたそうです、と、侍従は青い顔で、けれど怪訝そうな目をしていた。 　父の急逝の、その少し前に、唯一母を同じくする兄が帰国した話は聞いていた。 　父王が身罷ったとなれば、即位するのは兄にな</small>
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